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向こうの接続が……

Posted on 3月 31st, 2005 in 倉庫 by apj

 向こう、ってのは共同研究先のお茶の水大のことだが、研究室内ネットワークのつなぎ換え作業が難航してる模様。午後2時から作業を始めると連絡があったが、午後5時半になっても接続ができない。当然掲示板もダメだし、私が主に使っているメールサーバも一蓮托生でつながらない。
 気になったのでさっき電話してみたら、状況説明してると携帯電話の電池が無くなると言われてしまった。

裁量労働制なもんで

Posted on 3月 30th, 2005 in 倉庫 by apj

 大学教員は、専門業務型裁量労働制なので、「健康状態自己診断報告書」の提出を求められる。で、今日ポストに入っていたからチェックしていたのだが、最近1ヶ月の自覚症状を記入して思わず笑ってしまった。
 項目と答えはこんな感じで提出

1.イライラする                ほとんどない
2.不安だ                   ほとんどない
3.落ち着かない                よくある
4.ゆううつだ                 ほとんどない
5.よく眠れない                ほとんどない
6.体の調子が悪い               ほとんどない
7.物事に集中できない             ほとんどない
8.することに間違いが多い           よくある
9.仕事中、強い眠気に襲われる         ほとんどない
10.やる気が出ない              ほとんどない
11.へとへとだ(運動後を除く)        ほとんどない
12.朝、起きたとき、ぐったりした疲れを感じる ほとんどない
13.以前と比べて、疲れやすい         ほとんどない

 正直に書いてみて、落ち着きがない上間違いが多いのは、健康状態の問題ぢゃなくてオマエの性格だそれは、と自分ツッコミを入れますた。粗忽者なのは裁量労働とはそもそも関係無い罠。
 そういえば、小学校以来、通知票でも必ずそう書かれていたし。今日だって、大体、報告書に記入する段階で、職名の漢字書き間違えて消してるし、チェックの場所1つ間違えて修正テープだし。提出物の状態と申告内容が我ながら見事に無矛盾な状態w

午後に

Posted on 3月 29th, 2005 in 倉庫 by apj

 ネットがつながらないと思ったら、フロアの面倒を見ているATMスイッチの全交換だったという。そりゃ外には出れないわなあ。

FreeBSD 5.3に入れ替え

Posted on 3月 28th, 2005 in 倉庫 by apj

 FreeBSD5.3のインストール作業をしていたのだが。といってもここじゃなくて、共同研究先のお茶の水大のメールサーバ。一応教授がrootなんだが、作業が込み入って、教授の目の前で作業をすることに。
 メールサーバなんで、システムを入れた後は、postfix, qpopper, dracdの3点セットを入れればいいだけなのだが、これがはまった。
 postfix側の設定は、4.x系列でdracを使うときの設定のままでもかまわない。が、dracdやqpopperをソースから入れようとしたら動かないという事態に。結局、dracdをまずportsから入れて、
rc.confに
dracd_enable=”YES”
dracd_flags=”-i -e 30″
rpcbind_enable=”YES”
rpcbind_flags=”-s”
を追加し、hosts.allowに
rpcbind : 127.0.0.1 : allow
を追加、その後、普通にqpopperをportsから入れると、dracを使う=yesでconfigureされて、無事にインストールされた。inetd.confは、コンパイル終了時に出るメッセージに従って書き換える。dracd.dbは、これまでは/etc/mailの下だったのが、/usr/local/etcの下に作られるみたい。
 この間同じ作業をやったばかりの4.x系列では、portmapperを動かさないとエラーになるということで、rc,confにportmap_enable=”yes”とか書いてたんだけど、5.x系列からはかわりにrpcbindを使わないとだめ。

 何でこんな作業になったかというと、メールサーバのシステムがもう古いことと、sshを使う設定でインストールする必要があったことの両方で、思い切って入れ替えたのだった。sftpにしろという、情報センターからのお達しもあるし。
 おかげで、作業終わったら午前3時だったがなぁ。

Eudora Pro 6.2にしたら

Posted on 3月 27th, 2005 in 倉庫 by apj

 Eudora Pro 6.2にしたら、「表情をイメージとして表示」というオプションがあって、インストールしたばっかっりだとこれがオンになっている。
すると、:-)と書かれた部分が、[:スマイルフェイス:]のように表示される。このブログではjavascript で出しているのだが、最初にEudoraで見たのが、理科教育MLver.2に投稿されたメッセージだったからえらく焦った。htmlメールや添付書類付きメールは全部禁止にしてあるのに、どこからjavascriptがすり抜けたのかと一瞬本気で思ったので。スイッチを切って、plain textメールであることを確認して安心したのだけど。

後悔しまくりになりそうな

Posted on 3月 26th, 2005 in 倉庫 by apj

「死ぬまでにしたい101のアラ技」を買った。帯の文句には「いますぐ始めて悔いのない人生を」とあるが、実行したら後悔しまくりになりそうな内容が結構ある。たとえば、「逮捕されよう」とか「人間モルモットになろう」とか。

学会

Posted on 3月 25th, 2005 in 倉庫 by apj

 春の物理学会。東京理科大野田校舎。1つのでかい講義棟だけで会場のほとんどをまかなっているのはさすが。私学の建物は国立大学に比べて豪華だよなあ。エスカレーターが1-4階、4-7階の2つしかない。間の階に行くには近いところで降りて歩けという仕様になっていた。

 冨永研の後輩と合流して柏で夕食。地方で開催されるときは、終わった後、ご当地料理の店を探して入るのだが、今回は「柏のご当地料理って何?」状態だった。

Missing Sync for Palm OSの謎挙動

Posted on 3月 24th, 2005 in 倉庫 by apj

MissingSync4が動かないので、Palmと母艦をHotSyncできないという問題について。
PalmDesktop4.0日本語版は、~Home/書類/Plam/ユーザ/ユーザ名/ユーザ データファイルを表示したり、palmの内容を反映させたりする。ところが、MissingSync4を入れると、~Home/書類/Plam/Users/ユーザ名/ユーザ データファイルを新たに作って、HotSyncによる変更がそちらに反映されることがわかった。職場の方は「ユーザ」フォルダの下を見ているのに、自宅マシンは「Users」フォルダを見ているということで、更新がちぐはぐなことになっている。かといって、「ユーザ」フォルダのエイリアスとして「Users」を作ってもだめ。「ユーザ」フォルダの下のユーザ データを「Users」にコピーしても、HotSyncによる変更がうまく反映されない。
 新しくできた「Users」フォルダの下のユーザ データは、カテゴリに対して指定した色設定が消えてしまっている。
 インストールの途中でなにか不具合があって、英語版と勘違いされたのかと思って、palm desktopの再インストールを試みたが、ディスク書き込み権限がないと言われて終わってしまう(perission瀬邸は正常、他のソフトはインストールできている。現存するPalm desktopがインストールされているフォルダを削除してもだめ。何でこんなことになったのだろう?

オフ会

Posted on 3月 23rd, 2005 in 倉庫 by apj

 理科教育MLのオフ会。新MLを作った三人の顔合わせに何人かが合流した。
山賀さんに初めてお会いした。MLでは、政治的に正反対な意見で毎回議論になってたが、今回はそういう話はほとんど出なかった。普通に乾杯して自己紹介して雑談していたら、終了時刻が来てしまった。
 もっと実況したかったんだけど、地下で電波が弱くて、結局の方で蕎麦が出たって報告だけ一通出しただけにとどまった。

ウェブログの心理学

Posted on 3月 22nd, 2005 in 倉庫 by apj

 「ウェブログの心理学」山下・川浦・川上・三浦著(NTT出版)2200円を買った。Web日記の初期の頃からの話が出ている。どういう書かれ方をしているのかという部分の分析が面白い。一回挫折して、懲りずに新システムをいれてまたブログやりはじめたんで、長続きのヒントが欲しくて買った。巻末の「ウェブログの歩き方」が参考になる。
 ただ、これを読んで唐突に思い出したのが「元禄御畳奉行の日記」。ブログもウェブも無かった時代に、大酒飲みの下級武士が日常生活の事件を紙にひたすら書きまくったもの(の解説本)。おかげで元禄時代の世の中の様子がよくわかるわけだが、ブログはこれを国中でやっているということなのか。文明がこのまま継続して、アーカイブが維持できれば、将来の歴史研究は、膨大な一次史料から何を引き出すかという形に様変わりするのかもしれない。

 最初にWWW、というか正確にはブラウザを知ったのが1994年で、博士過程の最終学年だったから、ネットを駆使して資料を作っていた。PDBには本当にお世話になった。というか、ネットが中ったらプレゼンの資料がそろわなくて失敗してたかもしれない。fjとWWWが半々くらいの利用だった。このころから、日記を書く人は書いてたらしいけど、私はあんまり惹かれなかったなあ。
 その後、研究室のワークステーションにこっそりhttpdを入れて遊んでいた。余計な仕事を増やしたくなかったから黙ってたんだけど、とある日、教授がやってきて、「研究室のウェブページを作れ」と言い出した。仕方がないから後輩と一緒に、エディタでhtmlをかしかし書いて作った。その後、1996年になって軽部研を出るとき、管理担当者を決めて更新もやってね、って言ったんだけど、案の定というか、ウェブページはそのまま放置プレイされた。その後、1年以上にわたって「軽部研で研究員やりたいんですけど」ってな海外からの問い合わせメールが、別のところで仕事をしている私に届いた。webmaster宛のメールは、サーバ管理者の私に飛ぶように設定してあったのね。確か2年近く経った頃だと思うが、いい加減頭に来て、藤原博文さんの「呆れたページ」のコーナーにタレこんでみた。勢いよく作ったはいいがその後放置されている、といった、情報発信の趣旨からみて呆れたページへのリンク集があって、タレ込みを募集していたので。そこに載ったら効果覿面で、見た人が先端研の事務に連絡→事務から軽部教授に連絡→軽部教授から何とかせんかい、って業務命令が下る、で、私はめでたく、ネット上の軽部研連絡係から解放された。
 自分のウェブサイトを作るチャンスはいくらでもあったけど、不思議と日記を書こうとは思わなかったなあ、なんてことを考えていたら、ちょっと古い話を思い出したのだった。