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タテマエとホンネとルールと学校文化

Posted on 3月 16th, 2005 in 倉庫 by apj

 理科教育MLの受け皿整備騒動がまだ落ち着いてないのだが、また引っかかるものを見てしまった。13日にも書いたように、受け皿の1つである「理科と教育のML」は、まだ過去ログを公開するに至っていない。旧MLから、新たに3つのMLが派生したので、参加者が迷わないようにと、「理科と教育のML」のサマリーをいいじまさんが旧MLに投稿した。このことについて、「理科と教育のML」の副管理者のM氏が、過去ログを公開しないことになっているMLのログを公開するのはよろしくない、と異議を唱えた。ところが、MLの利用心得をどう読んでも、その異議の根拠が出てこなかったので、ちょっとした議論になった。まあ、M氏が一方的に議論を打ち切ろうとしたことにも問題があったのだが。私の見るところ、論点は
1)投稿された内容はログではないはず(編集されたサマリーで個人情報はほとんどない状態)
2)守秘義務が課されてないのに、メンバーに対して外で話題にするなと言えるのか(そうしたいのなら、心得の改定が必要では?)
3)心得の方は、参加者以外にも過去ログをいずれ公開する予定であると読める。副管理者が「過去ログの公開を行わない」と断言するのは、心得を無視していることになるのではないか。
4)そもそも、副管理者が、心得にないことをやってもいいのか。
の4つだった。

 それで、またまた考えることになった。私が引っかかったのは、サマリーを流すことの是非ではなく、「MLの利用心得の通りにものごとが動いていない」という部分である。

 どうしてこんなに簡単に規則以外のことができるのか?と思ったのだが、もしかしたら、「学校文化」がそういう傾向を育てたんじゃないか、と気付いた。というのは、学校には不合理な規則がたくさんあったからである(少なくとも私の経験した範囲では)。つまり、何かを便利にするとか安全を確保するといった目的がはっきりせず、学生らしさとか一種の精神論に基づいて定められたとしか思えないものが多すぎたと思う。
 例えば、服装規定で、女子の靴下は3つ折りなんてのがあった。私の育ったところは冬はかなり寒いし雪も積もるのだが、それでも靴下は3つ折りじゃなきゃいけないんですね。気候や風土は全く無視している。もちろん、生徒は守る気がまったくないわな。他にも、改正手続きがまともに書いてない規則(これって実は規則の体をなしていない)とか、たまには規則に無いことを取り締まろうとする生徒指導担当とか。
 こういうことが続くと、「規則とは守らなくてもいいものだ」ということを、体験によって学んでしまうことになる。

 日常で気になるものとしては、例えば、駅前の放置自転車の問題がある。本気で取り締まらないから、いつも駅前が自転車であふれている。そうなると、たまたま撤去されたのは運が悪かったからだという認識しか生まれてこない。ここでも、本気で守らせる気のない規則が生まれ、守らないことが常態化するという現象がみられる。

 ともかく、規則とは守らなくても何とかなるものだ、ということを何回も体験して学習してしまうと、規則を軽んじるようになるだろう。規則と書いたが、法と読み替えても同じことである。このとき起きているのは、タテマエ(制度上の仕組み)とホンネ(現実の運用実態)の乖離である。
 それでも、共通の基盤、というか、「世間」を共有している状態なら、タテマエとホンネがずれていても、それなりにうまくいくのかもしれない。

 ところが、学校の側は、「生徒の個性を認める」方向で教育をしてきた。「(学校が望ましいと思う)個性」に限られていたかもしれないけれど、それでも、個人個人がみんな違うということを認め始めたことは間違いない。すると、共通の「世間」「常識」は、どうしても共有されにくくなる。すると、お互いに折り合いを付けるには、タテマエの方を強化して、ホンネとずれが無い方に持っていくしかなくなる。
 実際、私は、今回MLを立ち上げる時、徹底的な法治主義でいくことにした。

 しかし、既に書いたように、山賀さんの方は、最後まで個人の資質に依存する管理を行う(強権発動有り)という制度を作った。副管理人ーということは、それなりに主催者とセンスを共有できる人なのだろうーのM氏は、主催者の利用心得の逸脱を、「善意で」やっている。

 個人の裁量権を残したシステムは、本来不安定なものではないかと思う。また、ホンネとタテマエの乖離を招きややすいシステムでもあるだろう。運用で、規則通りにやらないという経験を積んでしまったら、規則は守らなければならないとう精神をスポイルすることになりはしないか。

 それでね、個人の違いを積極的に認める教育って、団塊の世代あたりの教員が積極的にやってきたんじゃないの?それが実ったかどうかは知らないけど、今回、そういう教育をされた側と思われる私の近辺では、さしあたり法治主義という解を見いだしたんだよね。ところが、教えた側は、強権発動有りの制度をどうしても捨てられなかったり、管理側自らが決めたことに従わないという見本を見せたりしている。これって、どう考えても何かがねじれているように思えて仕方がない。

 まだ上手く言語化できないから、とりあえず思いついたことを書いてみた。
参考書としては、
「[新版]タテマエの法 ホンネの法」柴田光蔵著 日本評論社 4-535-51436-4がある。