疑似科学と科学の哲学
「疑似科学と科学の哲学」が届いたので読んでいる。
科学と疑似科学を振り分けるというのは難しいし、誰もが納得する疑似科学や科学の定義はない。いくつかの判断基準については、いろんな人がいろんなことを言っていて、教養の講義のあとの方でまとめて紹介しているが、これで必要十分というものでもない。読んで少し考えてみたい。
科研費の書類締め切りでまだちゃんと見ていないのだが、今週の教養の講義の学生からのコメントに「実験を見せてくれ」というのがあった。登録者が200人近い講義で一体どうせよと?と思ったり、次回の内容は中性子線回折だの質量分析だの、見せようがないがなというものだったりで、ちょっと手の打ちようがない。
が、それ以前の問題として、ちょっと前から個人的にから引っかかっているのは「実験を見せられて信じる」ということの危うさだったりする。mixiのコミュで、「水にありがとう」結晶ネタで、「実験を見て信じた人はどのていどいるか?」と訊いてみたが不発に終わってしまったんだけど。
つまり、見せられた実験の内容と、それにくっついている科学の体系……とまではいかなくても、まあ理科で扱う内容の広がりのギャップが大きいまま、つまり「その実験から得られる情報<科学の体系的知識」な状況で教えられる知識を受け入れるという経験を積んでしまったら、今度は、いい加減な(あるいは意味のほとんどない)実験を見せられてくっついてるのが実はホラ話でも、信じる方に行ってしまうのではないかということだ。このあたり、理科教育の方ではどうやって解決しているのか、疑問を持っている。
研究のときの泥臭いexperimentの積み重ねと、教育用のdemonstrationでは意味が違うのだが、その違いを一体どこで認識するのか、ということが疑問なわけで。教育学部ではこの手の問題はとっくに解決済みなんだろうか。
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