生き物として何かがおかしい
東京都江東区の小学校で飼育されていたウサギをけり殺し捨てたとして、警視庁少年事件課は15日までに、動物愛護法違反などの疑いで同区の無職少年(18)を逮捕、別の窃盗事件で逮捕されたいずれも18歳の無職少年2人を同法違反容疑で追送検した。
3人は公園で約15分間、ウサギを取り囲み、逃げようとするとけって虐待。「ゲームのつもりで、サッカーのようにけっていてエスカレートした」と話している。2人はこの小学校の卒業生だった。
調べによると、3人は昨年5月8日早朝、同区立辰巳小学校に侵入、飼育されていたウサギ1匹を持ち去り、同区の潮見運動公園で殺害。石を入れたポリ袋に入れ、運河に捨てた疑い。
(時事通信) – 2月15日13時1分更新
この少年達の倫理観やら動物愛護の問題やらを云々する以前に、生き物として根本的な部分が壊れているのではないかと思う。他の生き物を殺して良いのは自分が食べる場合か自分に危害が加えられた場合に限られ、食べる量以上に無闇に殺さないというのが、生き物としての基本ではないか。
こういう事件が報道される度に、「これまでどれだけ殺すこととまともに向き合ってきたのか?」と訊きたくなる。
子供の頃は殺すということも生きるということもまだよく理解できないから、平気で他の生き物に残酷なことをすることがある。虫を捕ってきて羽やら足を取ってみたり、蛙をつぶしてみたりといったことは、さほど珍しくない。ただ、二度と動かなくなった生き物を前にして喪失感を味わい、決して元に戻せないということを悟って、命を奪うということの意味を実感するものである。
もし、自分の手で別の生き物の命を奪う経験を全くしたことが無かったとしたら、殺すことに対する歯止めは生まれてこないのではないか。
そういえば、以前バーベキューをしたとき、でかい肉の塊や骨付き肉を前にして、「気持ちが悪い」と言った奴がいたのを思い出した。おそらく、死体を連想したに違いない。まさに死体の一部なのは確かだが、自分がこれから食べる物に対して気持ちが悪いというのは、極めて失礼な言葉である。食べるために別の命を奪っているのだから、感謝しろとまでは言わないが、嬉々としていただくのが筋というものだ。これも、自分で殺して食べるという経験をしていないから出てきたことではないかと思う。
スーパーに行けば肉はパックになって売っている。殺すところはいつも誰かに任せきりにして、「私食べる人」というだけだと、他の命を奪って自分が生きているのだという実感など何もわかないだろう。
骨付き肉を見て気持ちが悪いと感じるセンスと、遊び半分に他の生き物を殺す感覚は、根っこの部分で同じものではないだろうか。
遊び半分に生き物を殺してはいけない。殺す時は真面目に殺せ。その後は食べろ。それが、生き物としての基本だと思う。
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