社会的制裁が不発に終わった件
あと96日-2006年12月6日(水)
「すべてが法廷という米国」ではないからこその重圧
私を応援している方の内かなり多数の方が、「米国のように何でも裁判に訴える社会になってほしくない」と言う。それは、それで分かるのだが、直接この被害を受けている当事者からすると、米国のようではないから、むしろきついと言ってもいい。
何が何でも裁判でも、当然法律というルールで決まることを意味する。それは、法律に違反しなければいいので、それなりにすっきりしている。
ところが、日本では、裁判に持ち込むことは、法律による判決を期待するより、「社会的制裁」を狙うことが多いのである。
つまり、訴えただけで、相手にダメージを与えることのできる社会なのである。この重圧がなく、法廷で淡々と争うだけなら、訴えられても相当楽だと思う。法律によらない「社会的制裁」が一番きつい。マスコミを利用できる立場にある人から訴えられれば、社会的制裁はますますきつくなる。
社会的重圧から解放されたなと思ったのは、今年の夏頃だった。自分の成長と裁判の経過が作用しているのだろう。
マスコミを利用できると思ってプレスリリースまで出したが、被告に対する社会的制裁は完全に不発に終わり、被告応援団が集まってしまって逆効果だった件。今どき、よっぽど馬鹿な理由で訴えてどこぞで祭りにでもならないかぎり、訴訟にともなう社会的制裁はほとんどないと思う。特に民事は交渉の延長だし。金の貸し借りとか土地の境界線とか、当事者以外はさっぱりわからんという種類の訴訟なら、いくらやってもそれで社会的に不利益ということはないだろう。口頭弁論の度に休暇をとったりしないといけなくて、時間と手間がかかることは確かだが。
マスコミが一方当事者を叩けたのは昔の話ではないか。今は応援団の方でやってるように全部の証拠書類を公開することだってできる。マスコミが煽ったところで、一次情報の提出書類の方が重い。
なお、私は最初から、「法的紛争は近代社会における個人の自立の証」だと主張している。まあ、最近のアメリカは行きすぎかもしれないが、社会的制裁など気にせず、気軽に訴え・訴えられる社会の方が健全だと思う。
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