なぜ最終回を必要としたのか?
ドラえもん二次創作ネタで連続になるが、昨日のエントリへのコメントを書いているうちに浮かんだ疑問である。
なぜ、彼ら(=ドラえもん最終回を求めた人、考えた人、語り継いだ人、同人誌を求めた人)は、最終回を必要としたのか?
というのが私の問いである。もしかしたらこの問いには意味がないかもしれない。私自身も今のところ答えを持っていない。
比較対象として、私もファンである某アニメの状況を語ろう。私の世代がリアルタイムで見てきたものだから、とっくの昔に最終回を迎え、物語は完結している。主人公の年齢は十代で、見ていた頃はちょうどお兄さん・お姉さんにあたる世代だった。アニメは終わったが、視聴者の方はとっくの昔にその年齢は過ぎ去り、今や、当時のアニメの登場人物の中の高年齢層に近い年齢になっている。ファンの考えは2通りに分かれている。「○○(登場人物)は永遠の××歳(設定年齢)、自分たちと同じように年を重ねたとはどうしても考えられない」「○○は(物語が終わった後で)きっとこんなふうに過ごして、今はこうなっているに違いない」の2通りである。設定のままと考える立場と、物語が終わった後同じように時を過ごしたという考え方である。後の方の変形として、終わった後の数年間くらいのスパンで登場人物達がどう過ごしていたかをあれこれ考えている人もいる。物語が終わった後を考えるのはファンだけではない。モノによっては制作者サイドからリメイクが出たり、続編が出たり、同一世界観だがパラレルワールド的な設定で新作が作られたりすることもある。
いずれにしても、「終わってしまった物語」に対して、積極的に「物語を続けること」を考えるファンというのが一定数居るということである。
これらの状況をふまえて、やっぱり出てくる疑問は、
なぜドラえもんの最終回が必要とされたのか?
ということである。ドラえもんの世界は全員が「永遠の○○歳」である。のび太は歳をとらない。中学生になることもない。物語の世界の日常は繰り返される。既に終わった物語のファン達の方は、登場人物に対して「永遠の××歳」と思っていたりするのに、なぜドラえもんに共感した人達(の一部)はここで最終回を、新たに作ってまで求めなければならなかったのか?物語が続くことに満足できなかったのか?
作り出したものが成長しないといって腹を立てたのは、鉄腕アトムの天馬博士くらいのものだと思っていたのだが……。
(今回、私にも答えはないが、折に触れて考える問いとして一応ここにメモしておく。まだうまく言葉にならないのだけれど)
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