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松岡農水相自殺

Posted on 5月 28th, 2007 in 倉庫 by apj

 昼過ぎにYahoo!のヘッドラインを見ていたら松岡農水相が自殺を図った記事が出ていて、いろんな意味で驚いた。ナントカ還元水ネタは、現在進行形で一般教育の講義で使っているところだった。
 報道通りに心肺停止状態なら厳しいだろうと思って、午後のゼミ終了後にニュースをチェックしたら、死亡とあった。
 急だし現職閣僚が、というのは珍しいのでびっくりしたが、本当に引っ掛かった点は別にある。松岡農水相の周囲の金の流れが不透明というのはさんざん出てきていたが、政治家にはそんなことはつきもので、程度の差があるだけで別に珍しくはない。それよりも、今時、政治家の責任の取り方として「自殺」を実行するというセンスの方ににびっくりした。松岡農水相が追求されたり批判されたりしていたのは、すべて「公人」としての部分であって、「私人」としての部分ではなかったと私は理解している。自殺することの倫理的是非はとりあえずおくとして、「私人」の責任の取り方として自殺が有り得たとしても、「公人」の責任の取り方として自殺は有り得ないと思う。そして、私人の責任と公人の責任は別だというのが、(封建社会ではない)近代社会の考え方の基本ではないか。
 安倍首相がまずい判断をしたのは、「金の流れが不透明な人物を閣僚にした」「しかも擁護して辞職させなかった」といったことではない。マスコミはそういう報道をしているが、それは政治の技術的な話であり、トレードオフを考えて首相が決めればいいことである。首相の見識が真実足りなかったのは「松岡農水相が、近代社会の基本であるはずの公人と私人の区別ができていない人物であるということを見抜けず閣僚に入れた」という部分ではないかと思う。

 個人的には農水相の冥福を祈る。ただ、一般論として「死んで責任をとった」ということを認める風潮が出てこないように、意識して気を付ける必要がある。「公人」の責任の取り方として「自殺」を認める限り、そんな社会は近代社会とは呼べないと考えるからである。

 なお、ゲルマニウム還元水のニセ科学批判の立場からすると、高価な水を使って健康に気を配っていても、縊死では何とも仕方がなかろうと思う。「健康」は「心」と「体」の両方が良好で調和がとれているという意味なので……。

 還元水の件ではウチの師匠がコメントしたので、農水相自殺の情報をニュースで見て直接たれ込んだ人がいたらしい。私のところにも連絡があった。不透明経理を容認するつもりはないが、たかだか500万円の不正経理疑惑とナントカ還元水程度で自殺するような人には、そもそも危なくて政治は任せられないし、これまでだってやってこれなかっただろう(このあたりは、一般の人とは基準が違うはずなので……)。本当の原因はそのうち報道されるか、ずっと後になって歴史が明らかにするのかもしれない。

博士課程の定員減少

Posted on 5月 26th, 2007 in 倉庫 by apj

 酔うぞさんにも紹介していただいたが、メモしておいたほうが良いので、ここに書いておく。asahi.comの記事より

就職難で「博士離れ」か 博士課程の定員、初めて減少
2007年05月26日10時25分

 国立大学の博士課程の入学定員が今年度、初めて減った。政府は「科学技術創造立国」を掲げて博士の数を増やしてきたが、就職難から学生の「博士離れ」が始まり、一部の大学が定員の削減に踏み切ったためだ。関係者からは「現状を放置すれば優秀な人材が集まらなくなり、日本の国際競争力が低下しかねない」と心配する声も出ている。

 文部科学省によると、国立大大学院博士課程の07年度の定員は1万4282人で前年度より118人の減。定員を減らしたのは秋田大(26人)、九州大(20人)、神戸大と千葉大(各18人)など。減少は56年以来だが、このときは戦後の学制改革の影響だったため、実質的には初めてという。

 政府は91年度から大学院生の倍増計画を進めてきた。国立大博士課程の定員は91年度の7589人から右肩上がりで増え続け、ほぼ倍増。一方で、博士の受け皿となる大学や公的研究機関の研究職の数は増えず、06年3月に博士課程を修了した人の就職率(企業なども含む)は6割程度にとどまった。

 学生の「博士離れ」は既に始まっており、大学院博士課程への入学者数は03年度をピークに減少に転じている。とくに理工系では、優秀な人材が修士課程までで企業などに就職する傾向が強まっているという。

 文科省で科学技術・学術政策局長を務めた有本建男・科学技術振興機構社会技術研究開発センター長は「このままでは優秀な人材が博士課程に入ってこなくなり、国際競争力も下がってしまう。博士の就職難対策に政府と大学、企業がともに本気で取り組む必要がある」と話している。

 国際競争力のために個人に向かって「犠牲になれ」と国が言う(あるいはそういう制度を作る)のは間違っている。科学技術のどれかの分野が好きで好きで、結果として生活を犠牲にする個人が出てきてしまう、ということはあるかもしれないし、あってもしかたがないが……。
 もともと、大学院進学、特に博士課程進学は、個人にとっては経済的に見合わない行為ではなかったか。
 同じ大学の同じ学科を出た人で給料を比べた場合、学部で卒業すると即給料がもらえて、会社でキャリアを積むと、多少は上がっていく。博士前期課程(修士)まで進むと、同級生が2年間給料をもらっている間の収入は無い。修了して会社に入った後の収入が、学部で就職した人と比較して、一定期間後に遅れを取り戻せれば、個人にとって「学歴で損はしなかった」ことになる。修士卒の給料を高めに設定している会社は多いので、修士までなら、個人にとって「遅れた分を取り戻せる」のではないか。それでも「取り戻せる」だけで、どれだけ「利益を得る」ことが出来るかは疑問である。ただ、会社によっては修士の場合は選択肢が広がったり、まるきり予想できない部門にまわされる確率が減ったりするから、その意味では個人にとってメリットがあるだろう。
 これが博士になると、さらに3年社会に出るのが遅れる上に、出た後の就職先の選択肢が少なくなる。同級生がさらに3年給料をもらってキャリアを積んでいる時、収入は(限られた人を除いて)ない。大学院5年間で自分に投資した金額、つまり授業料等と、就職していたらその間得られたであろう収入を、修了してから取り戻せるかということが問題になる。この場合の指標としては、生涯賃金の額が最も適切だと思うが、これが「博士卒が十分高い」状態になっていなければ、普通の人なら「進学は損」と思うのが当たり前である。もともと小数の学問オタク、学問マニアが存在し、「損をしたって生活が不安定になったってやりたいことをやる」という生き方を選んでいた。そういう人がこれまでは大学に残ったりしていたのだけど、世間から見れば例外だろう。
 制度として「博士を増やす」ことにしたということは、マニアックな個人の行動に頼るのは止めてシステマティックに人材養成をすることにしたということだろう。そうすると、博士課程に進むかどうかの判断基準の方だって世間並みになるのが必然で、収入面でメリットが無ければ普通の人には全くアピールしないのは当たり前である。
 また、本当に企業に人材を送り込みたかったのなら、ポスドクを増やしたのがそもそもの間違いではないか。博士卒でも、受け皿が一番多いのは、フレッシュマンとして就職する場合である。ポスドクをやってからの就職になると中途採用扱いだから、会社の業務とマッチしないと優秀でも採用してもらえなくなる。ポスドクを増やしたために、企業への人材供給を狙って定員を増やしたのに、出てきた人がポスドクに止まることになって、さらに就職難を推し進める結果になったのではないか。

スクリプトバージョンアップ

Posted on 5月 24th, 2007 in 倉庫 by apj

 度重なるトラックバックスパム(エロ宣伝とか悪徳商法とか)にうんざりして、blogのスクリプトのバージョンを上げ、トラックバックを承認制にしてみた。今日のところはどうでもいい宣伝ばっかりがやってきている。
 バージョン上げは昨日だったのだが、初期設定の書き換えにしくじって、新しい記事を投稿できない状態になっていて、気付くのに1日近くかかってしまった。
 これまでは、変なトラックバックを寄越したドメインからのトラックバックを手動で禁止していたのだが、これで少しは管理作業が楽になる。

言語学からの反論

Posted on 5月 22nd, 2007 in 倉庫 by apj

 「思索の海」というblogに、「水からの伝言」に言語学の立場から反論する」というエントリが出た。

その言語における形と意味の対応に関する情報を持っていないと、その言語(の表現)を理解(あるいは使用)することはできない。

といった、普段何気なく言葉を使っていると見落としがちなことをきっちり書いてくださっている。さらに、

 水がある言語表現を「よい言葉」だと判断するためには、水自身が、
その言語表現がどのような意味(内容)と結びついているのかという情報、と
その言語表現がどのような文脈に置かれるとどのような解釈を得るのかという情報
 を持っている必要があります。さらに、
評価の基準に関する情報
 も持っていなければならないでしょう。かなりの程度解釈を絞り込むことができたとしても、そこでその表現が良いか悪いかを判断するにはやはり何らかの知識が必要だと思います。

と、わかりやすくまとめた上で、

ある言語表現の、その物理的性質(形)のみと特定の評価を結びつけることは原理的に不可能

と指摘している。私にとって気になったところだけを引用したが、ぜひリンク先を訪れて全文を読んでみてほしい。

ノート

Posted on 5月 21st, 2007 in 倉庫 by apj

 この間、上京した折に、The Note Taking Systemという製品(B5ノート)が出ていたのでつい3冊ほど衝動買い(神田神保町の三省堂のステーショナリ専門店、本店じゃなくて角のところにある店で売ってた)。コーネル大学のシステムだということで、何だろうと思っていたら、解説記事があった。また、買わなくても印刷用pdfフォームを生成してくれるサイトもある。行やグリッドのサイズをうまく調整して、A4で作ってB5に縮小印刷でほどよい罫線間隔にすることもできる。ルーズリーフなら自作でも良さそう。名前や年月日を入れられる。

#補習が終わってから始めた測定が日が変わっても終わらない。何だか、丑三つ時にいいデータが出るというパターンを見事に踏みつつある気が^^;)。

トランプやタロットカードで運命が……^^;)

Posted on 5月 19th, 2007 in 倉庫 by apj

 占いの話ではない。必修科目の化学実験の話である。
 学生実験は、2人から4人程度のグループに分かれて行う。伝え聞くところによると、他の先生の担当するセクションでは、出席番号順に並んでペアを組むらしい。ところが、ウチ(=物理化学セクション)は、違う人と組む経験をした方が良いだろうということで、くじ引きで班分けする。専用のくじを作る手間はかけられないので、よく切ったトランプを学生さんに引いてもらい、「ハート、ダイヤ、スペードはそれぞれ引いたカードの数が班の番号、クラブを引いた人は1-3が14班……」といった具合にしている。
 几帳面で仕事が正確な人と組むと楽だが、ずぼらで粗忽な人と組むと失敗ばっかりで進まず、ウチのセクションはできるまで帰るなって方式だから、夜まで居残りする羽目になる。誰と組むかで天国と地獄の運命が分かれるということで、私の研究グループが担当している実験の受講者は、トランプで運命が決まるといってもよい(笑)。
 トランプは全部で52枚しかない。実験は三人一組でやることになってるから、 2枚あるジョーカーは使いたくない。1クラスの人数は、辞退者の人数を読み間違えて入学者が多い年は50人程度になり、そこへ、過年度生が加わると実験の受講者数が52を越える可能性が出てきた。この対策のため、タロットカードを一組購入してある(説明に困るので自費で購入w)。大小アルカナ合わせて78枚、さすがに実験受講者の人数がこれを越える事態は無いだろう。今年はトランプでは足りなくなるかと思ったが、まだ大丈夫だった。でも、再来年あたり、トランプで足りなくなってタロットカードの出番があるかもしれない。
 でもまあ、うっかり者とグループを組むことになっても、しっかり話し合ったり予習をしたりすれば、実験はうまくいくし、いい成績もつくわけで、ちゃんと「努力で運命は変えられる」ということになっている。

さらにズレた気もするが、やっぱり書いておく

Posted on 5月 18th, 2007 in 倉庫 by apj

 向こうのblogにはトラックバックもコメントもできない状態なので、こっちで書いておく。博士の問題について。

元々の元村さんの問題提起は「低品質な博士量産している」ってことなので、「じゃあ、全てを国際標準に合わせましょうや。」という意味で、「博士=芸人」と書いたわけです。

 この部分で既に私の理解と違っている。私は「余剰博士」とあるのを見て、現在起きている博士の極端な就職難を指摘していると読んだ。つまり、普通に仕事ができる人まで、報われないグループに簡単に入ってしまう制度になってしまっているということである。
 こんな状態がなぜ生じたかというと、ポスドク増やせという政府(と多分産業界)の意向が後押しして、大学も乗っかって、博士過程の定員を増やしまくったからである。博士進学が自己責任だといっても、上から「重点化」の掛け声がかかれば、そりゃ「これまでの徒弟制度的なものとは違うものになった」と思う人が出てきたって仕方がない。学校教育法だって、「高度の専門性が求められる職業を担うための深い学識及び卓越した能力を培い」となっている。うかつに進学した院生の読みが甘かった面があるとしても、それを言うならお役所からしてが人材の受給バランスを完全に読み間違えているのだから、院生やポスドクばかりを責められない。
 その結果、博士の数が急に増えて、就職難になった。特に日本では、新卒の方が就職しやすいから、うっかりポスドクをやると中途採用の対象になるため、職探しが難しくなる。
 元村さんの指摘は、就職難による「報われないイメージ」→「博士課程が最初から優秀な人材に敬遠される」→「博士の品質低下」というものである。従って、

田舎大学で、入学試験を温くしないと院生が集まらないのは仕方ないとしても、院生の育て方まで温くして、国際的に通用するわけないやん。

 というのは失当である。記事のロジックとは全く結びつかない。
 また、この記述は事実に反する。入学試験をユルユルにして博士課程の院生を集めてエライことになったのを私が目撃したのは、東大の院在学中のことだった。社会人入学する人を対象に博士課程の入試の科目負担を減らしたら、外部の大学の修士からストレートで上がってくる人達に利用されまくった。
 こちらは修士課程の話だが、田舎大学の部類にはいる(かもしれない)私の所属している大学の学科では「入学試験をきちんとやろうとすると、ネームバリューで勝っている旧帝大の試験ユルユル作戦に学生が取られてしまう」ことが話題になっていたりする。比較する専攻にもよるが、学科試験の負担はウチの方が高かったりするわけで。

 さて、博士が芸人やアスリートと同じだろうというのは、一般論としては私も賛成する。ただ、これを、今問題になっている「余剰博士」(=就職難で今現在困っている博士持ちの人々、元村さんが取り上げた人達)に適用することには反対する。余剰は、人材の受給の見通しを間違えた政策によって作り出されたものだからである。芸人やアスリート養成とは逆のやり方で人を育てますと煽っておいて、いざ学位をとってみたら「芸人やアスリートと同じ扱いだから」というのはやっぱり違うだろう。世界標準でない養成政策をとってしまった以上は、世界標準にはない何らかのセーフティーネットを用意するのが適切なはずである。芸人でもアスリートでもない、一般の労働者の雇用問題と同じに捉えて解決策を用意しないとまずいという意味である。これを「甘やかす」とは言わないと思うぞ。

そんな、あんたらのご都合現実なんか知らんがな。
院生足りなくて食っていけないのなら、中国でも朝鮮でも、ベトナムでも、インドでもいいから、自分でスカウトしてくればどうですか?
それが嫌なら、修士で企業の研究所入れて、またすぐ博士課程に内地留学させてくれるような企業に学生を送り込む努力をすればどうですか?
学生は自分からやってくるものと思ってませんか?

 で、このボケまくったコメントは一体何なのか?私がいつ、学生が来ないとか院生が足りないとか書いたんだ?どういう妄想を抱いてるんだか(【追記】学位を取得した元院生が食えないのが問題だって話をしているときに、院生が足りなくて食っていけないって、一体どういう発想をすればこんな話が出てくるんだ?)
。 私は以前から、博士課程の定員は絞れと主張している。また、定員を増やすのであれば、例えば「企業が中途採用で博士をたくさん採用→アカデミックの人材まで足りなくなる→定員増」といったニーズに基づいて行うべきだとも主張している。
 ついでに言うと、私も就職難に遭ったクチで惨状はよく知っているから、大学の利害に反することを承知の上で、後輩やら学生やらには博士進学を薦めていない。「しくじって人生棒に振る覚悟があるなら進学すればいい、そうでないなら修士卒でフレッシュマンで就職すべき」と言い続けている。どうしても博士課程、という人には、「その先まともな人生を送りたいなら、博士2年の後半から3年前半にかけて修了見込みの段階でフレッシュマンで就職すべき」とアドバイスしている。まあ、これが当てはまらないような、実力があって幸運な人も中には居るだろうが、そういう人には多分滅多に遭遇しないだろうから、このアドバイスが大抵の場合は適切だろうと考えている。何人かに言ったが、聞き入れてもらえたことは一度もない。

 なお、修士については、理工系では就職の時にプラス評価されることの方が多いし行き先の幅も広がるので、経済的余裕があれば進学してみては、と薦めている。

欧米の大学院で学位とられた方には当たり前なのですが、出来ない子には「お前は向かないから辞めろ。」ってのが標準なんです。
「大人なんだから、自分のケツは自分で拭け。」ってのを何故貫いてはいけないのかねえ?甘いなあ。

 「どうしても博士に行きます」という学生が居たとして、「絶対こいつ向いてない」と教員が判断したとする。それをどこまで伝えられると思っているのだろう。大学院にも教員にも「どうしても進学したい」院生を止める手段なんか無い。標準を貫こうとしたら、ハラスメントで訴えられかねない。まあ、一言二言は言ったとしても、それで聞き入れてもらえなければ、院生として受け入れるしかないだろう(試験に通れば、という前提だが、恣意的に落とすことはできないし、研究でやっていけることと試験の点数が必ずしも相関しないのは既に昔の国研で経験済み)。「甘いから」言わないんじゃない。所属組織の利害に明白に反する上に、自分が訴訟のリスクを背負ってまで忠告するようなお人好しってかアホが居ないというだけの話だ。
 また、上から「芸人やアスリートじゃない博士養成をするから実行せよ」と言われたら、個人的に不本意であっても従うしかない。それが営業方針なら、その通り動くのが務めである。人数を増やせばいいとどこぞの「エライ人」が思っている間は、下っ端にはどうしようもない。

 なお、「報われないイメージ→優秀な人が逃げる」が成り立ったとして、次を支える人材が不足して困るのは大学だけではないか。もともと博士を採用する気がない経団連関連企業には影響が無い(というかこれまで採用してきた修士卒に優秀な人の割合が増えるなら喜ぶべきこと)はずだから、悲観する立場じゃない。既に博士を大量採用している一部メーカーについては、重点化以前から採用していたし、修士卒に優秀なのが多いとわかればそれに応じて採用と人材育成計画を変えてくるだろう。大学は……、どう考えても少子化の影響で構造不況業種であり、今後は縮小に向かうしかないだろうから、よほど大量に人材が逃げまくらない限り、そうそう困るところまでは行かない気もするが……。

【追記】どこのサイトだったか「博士進学は自殺行為、進学を薦めるのは自殺幇助」って書いてた人が居たけど、制度の歪みが集中してしまっている今の状況を見る限り私はこちらに同意するしかない。社会の側の採用や人事の現状が変わらないのに博士課程進学を薦めるのは、悪徳商法か詐欺の類ではないかと。芸人やアスリートを目指したとしても、ここまでは言われないだろうと思うと、ちょっと情けないんだけども。

ズレてる気がする

Posted on 5月 17th, 2007 in 倉庫 by apj

 またまた元村さんの記事より。

発信箱:されど博士=元村有希子
 恒例の「大人になったらなりたいもの」調査(第一生命)は、今回も「学者・博士」が男子の3位に入った。1位は野球選手、2位はサッカー選手。日本の科学技術も捨てたもんじゃないと思う一方、意外でもある。
 男の子にとって「学者・博士」はあこがれの職業なのだろうか。
 彼らの多くはおそらく、実物よりもアニメやゲームの中の博士を思い描いていると私は想像する。「ポケットモンスター」のオーキド博士や「ムシキング」のネブ博士は多彩なキャラクターを鮮やかに解説し、「名探偵コナン」の阿笠博士は探偵グッズを発明して主人公の活躍を支える。かつて少年たちがお茶の水博士にあこがれたように、21世紀の少年たちにも、博士の知恵と技はまぶしく映っているのだろう。
 ところが博士の現実は甘くない。一つは90年代後半から深刻化した「余剰博士」の問題だ。毎年1万人以上の博士が誕生するが、約3割が職にありつけない。日本経団連が2月に公表した調査では、回答企業71社が採用した新卒技術系社員のうち、博士の割合はわずか3%だった。
 もう一つは「低品質博士」。報われないイメージから、博士課程への進学率は既に下がり始めている。「優秀な学生は博士にならずに就職し、残りが博士課程に進む。その結果、世界と戦える博士が減り、優れた博士を活用している海外に追い抜かれる」。経団連が描く悲観的シナリオだ。
 博士の問題はつまり質の確保と雇用の問題であり、大学と産業界が鍵を握る。少年たちの夢に応える意味でも、長く重い課題と肝に銘じるべきだろう。(科学環境部)
毎日新聞 2007年5月16日 東京朝刊

 えーと、思いっきり実感に合わない件。今時の子供がアニメやゲームの中の博士を見て職業に選ぶのか?と思うわけで。と言うかむしろコレはkikulogで出ていた

よく僕らが冗談で言うんだけど
(1)研究者に向かって「博士」と呼びかける
(2)教授向かって「教授」と呼びかける
(3)研究者は分野にかかわらず白衣を着ている
(4)教授は部下に「やっておいてくれたまえ」などの「たまえ語」(今考えた)を使う
などなど、科学者自身には(おそらく)なんの罪もないステロタイプが横行しているわけです。

(by きくちさん)を助長する方の話ではないかと。
#いやでもこの間「マジンカイザー」のDVDを見たら弓教授が、指揮官卓に座ってるだけで汚れ仕事とは無縁っぽいのに白衣姿で登場していて(こいつは初出のマジンガーZでもどこぞの政府関係の委員会か審議会に行くのに白衣着用だったし←実験着なら他所を汚すから脱いでいけよ)、21世紀にもなってステロタイプのリストが相変わらずなのはひょっとして「お前が元凶かっ!やっぱりお前のせいなのかーっ!w」と突っ込んだのはまあどうでもいいんだが。

 ところで、文系白書ブログで書かれた、この記事に対するコメントの方もピントがずれているので、こちらに書いておく。まず、

何度も書いているけど、「博士(学者)≒芸人ないしはアスリート」ですから、制度的に過保護にしちゃいかんのよ。

というのは主張としてはアンバランスだろう。博士をそういう扱いにするのであれば、養成の方法や制度だって芸人やアスリートと同じにしないとおかしいのではないか。現実には、大学に対して「博士課程の学生の定員を満たせ」「一定数は学位を取れるようにしろ」「できなきゃ交付金を減らずぞ」という圧力がかかりまくっている。その上、大学院改革の方向は徒弟制度や囲い込みを無くせというもので、ますます芸人やアスリートを養成するのとは違う方向に向かっている。この状況で養成された博士に対して、芸人やアスリートと同じだというのは無理がありすぎる。一体どこの世界に芸人を養成するのに「一定以上新弟子をとれ」「定員満たさなきゃ金を出さないぞ」などと圧力を掛ける勢力が居るのかと……・。
 なお、経団連に関しては、嘆くなら博士の一部でもいいからよい待遇で雇って、そのことをアピールしてから言ってもらいたい。企業で報われるイメージが定着すれば、人材が集まるに違いない。博士を雇う気もないのに審議会にしゃしゃり出て制度だけ弄くり回そうとするのは、無責任でしょう。
 それから、当時の文部省が「企業が博士を積極的に採用するつもりがある」と読んでいた節もある。1995年頃だったか、既に大手電機メーカー勤めの先輩から、メーカーは博士の採用に積極的ではないと聞いたので、文部官僚やってた知り合いに会った時にその話をしたら、「そんなはずはない、企業の要望が重点化を後押しした」と言われて信じてもらえなかった。文部省の読みは大学院の運営に影響するはずだから、大学側としては職業人養成のつもりで博士過程に学生を入れたのではないか。まあ、これもすぐに全員の意識は変わらないだろうから、大学の上の方がそのつもりでも研究室単位だと研究者養成というか徒弟制度を思い描いていた人が居たのだろうとは思うけど。

 ところで、野球選手、サッカー選手ときて博士なら、むしろ「目指してなれるとそれなりに楽しいが、実際にやろうとするとコケる可能性の方がずっと高く、コケると後が悲惨な職業」で括る方が適切ではないかという気がしてくる(うまくいく率に応じて、うまくいったときの収入の方もしっかり差が付いているが……)。それがどうして「日本の科学技術も捨てたもんじゃない」となるのかが謎である。ところで「大臣」の方はどうなったのだろう?「末は博士か大臣か」って言葉がある時期まではあった筈なんだけど。

ゲルマニウム水を取り上げて……

Posted on 5月 14th, 2007 in 倉庫 by apj

 パンキョーの科学とニセ科学を考える、の配布プリント制作中。原子論の発展を例に、科学の本筋がどうやってあちこち関連しながら発達したかというあたりを説明し、いよいよニセの例をとりあげることにした。で、松岡農水相の件で今が旬のゲルマニウム(還元)水の宣伝をネタにしてみた。
 前回、宣伝の一部を学生に配って、怪しいところと正しいところに波線とアンダーラインをしてみろ、と課題を出した。一応、危険だからこの内容を信じるな、とは念押ししておいた。明後日配るプリントの準備をしていたのだが、学生の感想に、宣伝内容を信じそうになったというのが結構出てきた。また、生物をやってないから不安だとか、知識不足が原因でニセをニセと見抜けないというコメントも出てきた。で、これに対して返事を書いているうちに、
・既に知っている知識だけでやりくりできるわけではない。
・それならどうやって確からしい情報に楽にたどりつくか。
・いい情報にたどり着いたってそのものズバリの答えなんか無いことの方が多い。
・知識が不十分な状態で「安全側に振る」判断をするにはどうするか、というのがニセ科学を見抜くポイントになるのでは。
といったことに思い至った。
 全部知ってなくてもよいし、100点取らなくても良いけど、いくつか怪しい部分に気付いた時点で残りの信憑性もない、と判断するというやり方をどう見せればいいのか、ということで、私が調べた手順とか注目したところの資料を渡して、実際に跡をたどるという形で説明しようかと思っている。まあ、宣伝という「一番説得力を持たせなければいけない物」に変な内容が混じっている時点で、「残りは正しいかもしれない」などと読む側が弁護してやるというか勝手な期待を抱くのは只のはアホだということをどう伝えるかという話になるんだが。

と学会例会

Posted on 5月 13th, 2007 in 倉庫 by apj

 本日はと学会例会。とはいえ今回は発表ネタを準備する余裕もなかったし、他の用事も済ませていたので大遅刻してしまった^^;)。それでも無理矢理出たのは、予約しておいたと学会オリジナルバッグを受け取ることになっていたからで、受け取り損なうと販売担当の方に余計な手間やら荷物の移動やらをさせてしまいそうだったからである。バッグはコミケのバッグを参考にしてさらに工夫をこらして作ったとのこと。赤・緑2種類で、私は緑を購入したが、赤が随分映えて、予想したよりかっこよかった。赤も買えば良かったかも。
 休憩時間に、酸素水バーが出現していた。酸素水をコレクションしてた人が全部放出したのだが、中には炭酸水に酸素を加えたスパークリング酸素水のようなものもあって、これって意味あるのかとか、酸素が「効く」ならもっと大量に入っている炭酸の方がより「効く」からまずいんじゃないのとか、つっこみどころ多数だった。原水の組成(ミネラル分など)によって、味は違っている模様。
 一番笑ったのが、その中に一本混じっていた「汲んできた水」。どうもどっかでもらい水してきたらしい。しかし、持ってきた人の「健康に自信のある方だけお飲み下さい」って注意は、確かに正直なんだろうけどちょっとどうよ^^;)。「健康にいい水」を上回るキャッチコピーかもしれんな、「健康かどうかを判定できる水」ってことで。まあ、名水と言われている水でも後で調べたら大腸菌多数ってこともあるからなぁ……。