「説」がどこにも見当たらない
TAKESANのところの「論宅さんへ質問」というエントリーを見ていて笑ってしまった。
辛辣な批判ばかりで相手の説を自説に取り入れていないところが問題ですが、それは仕方ないことだと思います。批判の仕方も開かれていないということですね。(2008-01-14 15:46)
以前に論宅さんのblogのコメント欄におじゃまして、具体的なことを述べて欲しい、その議論が何に基づいているのか具体例を出してほしいと言っても何も出て来なかった。それで、あきらめて最近はろくに見に行っていなかった。
NATROMさんのところでも改めて指摘されている通り、以前、『「(科学を絶対視する)疑似科学批判をする論客たち」という言葉で誰を指しているのか、実名を挙げて頂けませんか』と言われて誰の名前を挙げることもできなかったのに、論宅さんは未だに「科学が絶対的な真理と思っているニセ科学批判者」の存在を仮定して議論を続けている。そんなありもしないものに基づいていくら議論を重ねたって結局は空想の産物でしかない。空想の産物を味わうのなら、良くできた小説として楽しく読みたいところなのだが……。
ところで、個別のニセ科学について間違いを指摘する立場から見た「相手の説」というのは、科学の詐称そのものになるから、そんなものを取り入れたのではミイラ取りがミイラというかニセ科学の仲間入りをするだけである。
「相手の説」=「論宅さんの説」ならば、この場合、「相手」と「説」の両方が間違っている。
まず、「相手」について。私は最初、論宅さんのblogにおじゃました時、論宅さんを相手だと思って議論を始めたのだが、論宅さんは私の相手は全くせず、そのかわりに「ニセ科学批判者」という想像上の産物の相手ばかりしていた。そんなことをしておいて、今頃になって「相手の説を自説に取り入れない」などと言われても、「それ、相手が違いますから」としか言いようがない。
次に「説」について。現実には存在しないものについて書かれた論説文をいくら重ねたって「説」になるわけではない。それは、論説文の体裁をとった創作に過ぎない。実際、読んでみてもこれが論宅さんの説だといえそうなものが全く見当たらない。これでは、「説を取り入れろ」などと言う方が無茶である。そもそも存在しないものをどうやって取り入れろというのだろうか。
同じコメントにこんなのもある。
私の場合、正しいと思えば、ニセ科学批判者の見識を取り入れています。天羽さんのニセ科学の定義とかです。菊池さんが示されたグレーゾーンの問題もです。
ニセ科学の定義(仮)やグレーゾーンの問題の議論を支えているのは、山ほどある個別の具体例である。論宅さんの主張を支えている個別の具体例は、全く見当たらない。論宅さんの説の根拠を示すのは論宅さんの役割のはずだが、全くできていない。
具体例を出してわかるように説明してくれれば「説」の検討のしようもある(というかどれが「説」か推定する手がかりくらいは得られるはずだ)が、今のままでは、一体どこがどう「説」なのかがわからないので、対応のしようがない。
- » Continue reading or コメント (0)