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さすがに呆れ果てた

Posted on 1月 16th, 2008 in 未分類 by apj

 昨日のエントリを書いたら、Seagul-Xさんが、コメント欄にて、Kumicitさんの「忘却からの帰還」というblogの「乗り遅れな気もするけど、merca論宅氏について考えてみた」というエントリを紹介してくださった。それを読んで相当脱力した上にぶち切れ寸前になったので、とりあえずここに書くが、これまでの議論の流れを知らない方にとっては何のことかわからない上に、ひょっとしたら気分を害するかもしれないことを、予めおことわりしておく。

 論宅さんのblogの一連の議論について、私はこれまでずっと、論宅さんが「脳内ニセ科学批判者」に対する批判を行っているのだと思っていた。しかしKumicitさんによるとそれは違っていて、本当の論敵はTheorySurgery氏であるという(The Black Crowes)。検討の経緯については上記blogを見ていただくとして、どうやら

あくまでも”疑似科学批判”一般ではなく、「特定の”疑似科学批判論者”たるTheorySurgery氏による”社会科学は疑似科学”という主張」がターゲット。従って、「社会学の方が、自然科学よりも科学的でありうる」ことを主張しているようだ。おそらく、”merca論宅”氏の念頭には、いわゆる”ニセ科学批判”などなかったと思われる。

ということのようである。

(以下、TAKESANさんのところに書いたコメントと重複します)

 そういえば、社会”科学”を擬似科学として批判するとか、”科学的”社会主義の擬似科学性を批判するという話は、ちらっときいたことがある。今につながるニセ科学言説へのツッコミを入れ始めた頃に「そんなものを批判するなら、なぜもっと重大な問題である”科学”を名乗る人文系の学説を批判しないのか」といった意味のことを言われたことを思い出した。あれは確かfjでだったか……。

 この手のツッコミについては、「優先順位問題」ということで既にカタがついている。優先順位の議論を始めたら最後、結局何もできなくなるのは明らなので、各自ができることをするしかない。ある特定の問題が重要だと思うなら、他人に要求したりせず、そう思う人が自分でやれ、ということである。要するに「言い出しっぺの法則」を適用しろということである。

 従来の擬似科学批判なら科学哲学のメタな議論やら、人文・社会学系の一部との論争が「決戦場」になっていたのかもしれない。ところが私は、主戦場というか決戦場としては、批判を始めた時から裁判所を想定していた。批判の内容が、社会科学云々ではなく、対悪徳商法と親和性が高かったからである。
 科学的真実を述べたものに対する提訴は非常にやりにくいことも確かだが、可能性はゼロではない。批判した結果として嫌がらせの提訴をされる可能性があることは最初から予想の範囲内であった。ただ、科学に関する表現について提訴された場合に、裁判所で勝たないとまずいだろうと考えていた。いずれにしても、非専門家に対して、科学の詐称について指摘した結果、誰かの利害に差し障れば、それは訴訟への道に続いていかざるを得ない。

 紛争になった場合には、メタな議論をいくらしたって裁判官を納得させるのは無理だから、論宅さんがやってるような議論というのは、私にとっては、はっきりいってどうでもいい代物である。口頭弁論で使えないから。それでも「科学を絶対視云々」という誤解を、世の中のうっかりさんに対して広める効果だけはしっかりあって、それは発生しがちな誤解であり、私がこの先誰かを説得する時に余分な一手間を発生させる方向に効くので、多少は対策せざるを得ない。

 今回は、それが単なる私怨によるものだという指摘があったわけで、論宅さんは「ニセ科学批判批判」を掲げつつ、実は私怨で、議論の大風呂敷を広げまくって、全く関係のない他人の活動の足まで引っ張っていたのかと、呆れると同時にキレかけた。

 「科学を絶対視」しているわけではない、科学は方法論だし得られた成果は自然の近似に過ぎない、揺るがない部分があるとしたらそれは自然観察の積み重ねによって支えられているからだ、ということを、どれだけ手間暇かけて専門家でない皆さんに説明してきたか、論宅さんは分かっているのかと小一時間(以下略)。

 論敵が実在しているなら、メタな議論などせず、名指しで堂々と批判しろ。当事者同士でトラバの打ち合いでもコメント合戦でも存分にやってろ。それができないなら最初から批判なんかするな。誰と誰の間の、何に関する批判なのかが読んで一目でわかるなら、私も、私がスルーするべき議論かどうかを直ちに判断できる。社会科学と自然科学のどっちが科学的かなどという種類の議論には、私は最初から関わるつもりもないし関わりたいとも思わない。ド下手くそなやり方で議論を敷衍して、こっちがやってる説得やら説明の活動にまで勝手に引っ掛かかって来るな。
 最初は、論宅さんは社会学の議論を試みているのだと思ったから真面目にコメントを残したりもしたのだが、私怨で他人の手間を増やすだけの傍迷惑な議論を平気でする人物という評価をするしかない。

 風呂敷を広げたんならさっさと畳んでくれ。邪魔だから。

【追記】
 つまり、論宅さんの行った批判は、「ニセ科学批判批判」ではなく、一般的な「ニセ科学批判批判」を装った、特定の「社会科学の擬似科学性を指摘する言説への批判」であったということになる。これを一言で言うとしたら「ニセ”ニセ科学批判批判”」とでも呼ぶしかないが、単語を見ただけではもはや何がなんだかわからない。
 無理目な議論だとは思うが、とりあえず定義してみる。半分シャレだが。
●「ニセ”ニセ科学批判批判”」
 ニセ科学(仮定義あり)に対する批判に対する批判という外見を装っているが、実はニセ科学に対する批判ではない別のナニモノカに対する批判や異議申し立てであったり、他人がうかがい知ることのできない個人的な理由や欲求を満たす目的を隠して議論をしているもの。
 定義からいって、他人からうかがい知ることのできない理由や目的というのは、議論を見ただけでは直ちにわからないものなのだから、他人の議論を最初から「ニセ”ニセ科学批判批判”」と決めつけることは、ポパーの言うところの反証不可能な主張となってしまうためお薦めできない。別に調べた証拠によって、欲求や目的の存在が明らかであるならば「ニセ”ニセ科学批判批判”」と判断してもよい。