「トンデモ」を人格否定に使わないで
ちょっとネットでもリアルでもばたばたしていたらコメントするのに出遅れてしまった。「擬似科学を批判する人は謙虚であれ」を読んで。
それでも、自分はときどき、疑似科学批判を得意げにおこなう人たちに気持ち悪さを感じる。たとえば、疑似科学を信じている人たちを、「トンデモさん」と呼ぶ人がいる。こりゃ、あかんやろ。「トンデモさん」というとき、疑似科学批判者は、批判対象の全人格を否定してしまっている。つまり、「科学のモノサシ」に則ってあくまで事実認識をたしなめるだけではなく、彼の生き様そのものを批判してしまっている。そこには、「知的で優秀な俺様が無知なおまえを啓蒙してやるぜ」という態度が見え透いている。
擬似科学批判の問題として扱うようりも、むしろ、単に「トンデモさん」の使い方を間違えているということを言わなければならない。
「トンデモ」は鑑賞し愛でる対象であって批判する対象ではない。だから、批判しなきゃいけないときに「トンデモ」と表現してはいけない。
擬似科学やニセ科学の全てが「トンデモ」ではない。擬似科学やニセ科学の一部が「トンデモ」になることはある。逆に「トンデモ」の対象は別に科学とは限らないし、そもそも学問と関連するという制限すらない。フィクションであるマンガや小説でも、表現内容があまりにぶっ飛んでいて、作者の意図を越えて別の意味で楽しめればトンデモ本と呼ぶ。「トンデモ」と呼ぶ時には、(間違っているけど)人間の想像力・空想力・妄想力は無限だなぁ、とか、「その発想は無かった」という、むしろある種の人間の奥深さのようなものを見ているように思う。
具体的に言うと、活水器のニセ科学説明は普通はニセ科学であってトンデモではない。ところが最近、セールストークにSDI計画が登場するものが見つかり、これはニセ科学批判の対象ではなくトンデモだろうと判断することになった。
ことさらに人格を否定するような擬似科学批判のあり方はまずいだろうという主張には同意する。ただ、「トンデモ」を擬似科学批判の文脈で使う人が居るのであれば、「トンデモ」の使用法を間違えるなということを指摘しておきたい。
【追記】
素直に読めばわかるように、このエントリーの内容は、「ニセ科学批判批判」である。つまり「ニセ科学批判」を行うにあたって、「トンデモ」という用語を本来の意味で使ってくださいという内容なので。
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