分け方やら対立の深刻さやら
Genさんの、擬似科学批判者は「何を批判しているか」自覚せよ、というエントリー、及びその追記より。
科学者が疑似科学信仰者を批判するとき、二つの水準(レイヤー)が混在しています。
1.事実のみに関わる純科学的な批判
2.道徳的・政治的な批判1の純科学的な批判については、科学の領域で、実証的に白黒つけることができる。つまり、事実について科学者が疑似科学信仰者を批判するときには、実証的データという(さしあたり)疑いようのない批判根拠が存在している。だから、感情的になる必要はありません。
ところが、2の道徳的・政治的な批判については、白黒(批判が正当かどうか)をはっきりつけられる根拠が存在していない。この部分は、人文学的な「解釈」の領域です。あるいは、どちらの方が社会の支持をより集めることができるのかという、政治的パフォーマンス(言説バトル)の領域です。だから、感情的になりやすい。「疑似科学(を主張すること)によって多くの先人や現在科学に携わっている人々の人生が否定されてしまうこともある」(参照)と憤る気持ちや、「怪しげな話をして人を惑わしてはいかんのではないのか」「法的にも道徳的にもどうなの」(参照)と感じる気持ちはわかりますが、これらは科学そのもの(事実の領域)とは無関係であることを確認してください。
擬似科学と書いておられるけれども、今のところ私が積極的に批判しているニセ科学についていえば、定義が「科学を装うが科学でない」である。すると、定義に当てはまるかどうかを考える段階で、「装う」の判定が入っているため、科学「のみ」では議論が閉じない。
次に、道徳的・政治的な批判が現実に行われる場合の例としては、不実証広告規制で既に言及したような基準が使われることになっている。公正取引委員会による景品表示法4条2項の運用例だが、経済産業省による特定商取引法6条2項の運用例もほぼ同じ内容となっている。簡単にまとめると、法規制する場合には通常の意味での科学的実証をダイレクトに求める、という趣旨となっている。つまり、法の側が「科学のモノサシ」を求めるということになっている。
人文学的な解釈の問題を論じるなら、たとえば景表法4条2項や特商法6条2項の運用基準が妥当かどうか、といったことになるのではないか。また、このような法律は、それこそ市井の普通の人達の間で頻発するトラブルを防ぐ目的で作られたわけだから、運用基準に基づいての市井の人によるニセ科学批判は、やはりそれなりの合理的意味を持つことになる。「自分たちが絶対に正しい」とまではいかないが、「社会で合意された内容」程度の正しさは担保されている。
自分の主張は、疑似科学批判側と疑似科学信仰者のあいだに芽生えている相互不信というかディスコミュニケーションを改善するために、「2.道徳的・政治的な批判」において、疑似科学批判者側が「自分たちは絶対に正しく、有能だ」と思う気持ちを封印して、より対話的な態度を取ろうではないか、ということでした。あるいは、「2.道徳的・政治的な批判」のトーンを下げることによって、「1.事実のみに関わる純科学的な批判」を通しやすくなるのではないか、ということでした。
現実にはそんなものでは済まない。擬似科学を広める側の理由が、不実証広告でもって商品を売るためだったりすると、単に科学的批判を加えただけで「業務妨害」を主張して争ってくる。まあ、メシの種がかかっているから仕方がない面もある。でもって、景表法4条2項が適用されて排除命令が出ると、今度はそれを逆恨みして、自費出版本を作ってまで批判者に対する誹謗中傷を行い、2年にわたってウェブでも同様のことを行い、挙げ句に批判と関係のない言葉尻を捉えて大学だけを訴えてきたりする。おかげで批判した側(つまり私やらお茶の水大の冨永教授やら)が訴訟参加して裁判所で紛争の真っ最中、ということになっている。この状況で、ディスコミュニケーションが改善できるなどという主張をされると、一体それはどこの世界の話なのかと思ってしまう。
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