幻影随想さんのところの「疑似科学と「空気」の研究」より。
疑似科学のビリーバーが彼らだけの虚構の世界に暮らしているというのは、疑似科学をウォッチしていると誰しもすぐに気づくことだろう。なぜなら疑似科学ウォッチャーは彼らの虚構を共有していないし、彼らの虚構は大抵現実とはうまく折り合いをつけることができないからだ。しかしビリーバー達は、通常その世界が虚構であることに気が付いていないし、気が付きたくもないと思っている。なぜなら往々にしてその虚構は彼らの心の拠りどころであるからだ。ゆえに彼らは、その虚構を壊そうとするものに対しては、激しい拒絶を示すし、どれだけ事実を突き付けられたところで、決して態度を変えることはない。それを認めてしまえばそれまで自分が安住してきた虚構の世界が崩壊してしまうからだ。そして、それを認めず目を背けさえすれば、とりあえず彼らの虚構は保たれるのである。彼らの虚構はもともと彼らの心の中にしかない、現実に根ざさないものだから。
このことについて、去年の夏頃から、ニセ科学関連の講演の最後にこんなスライドを見せることにしている:
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科学の役割
技術は人に利益をもたらすが、科学の役割の1つは人に真実を認識させることである。たとえ、都合が悪くても……
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これを見せて、科学技術と一言で呼ぶことが多いが科学と技術は本来別物あることを指摘し、「科学の知識を学んだり、科学の方法論やロジックを学んだりしても、都合の悪いことを受け入れたくないという心でいる限り、科学は身に付かないよ。楽しくないこと、不都合なことでも受け入れる心の強さが、知識の習得以前にまず最初に必要なんだよ」と話をしている。こうなると、心構えの問題というかむしろ躾の問題になってしまうのだけど。こういうことを教えるとしたら、割と早い内に教育の一部として訓練しないといけないだろうということで、主に学校から講演を頼まれたときには、意識してこの内容を出すようにしている。
人に都合の良いことを意識的に目指すのが技術、人の都合はどうでもよくて身も蓋もない真実をはっきりさせるのが科学ということになる。
【余談:別の種類の妄想、以下ヨタ話につき注意】
ところで、幻影随想さんのところのエントリーで取り上げられた、山本七平氏の『「空気」の研究』だが、もしかしたら、この「空気」を打ち破る一つの方向とは、「ヲタク」に徹し「萌え」を追求することではないかと思ってしまった。エントリーを読んでいて、アニミズムのところでふと連想してしまったのが「擬人化たん白書」。blog主の黒影さんがまとめておられるところにいくつか当てはめていくと、「ヲタク」のやり方で進んだ場合は次のようになりそうである。
・「空気」や疑似科学の根とは、「モノに何かを見出す心の働き(アニミズム)」である。
は、モノを萌えキャラ化した上で萌えキャラの方に何かを見出す心の働きになるから、ナマのアニミズムを切り離してしまっている。
・「空気」とは人々の間の「お約束」によって成り立つ社会的な虚構である。
萌えを共有できるという部分は虚構だが、そもそも萌えキャラ化の段階で虚構であることを明確に意識することになる。
・「空気」に引きずられることなく理性を保つためには、空気とは何かを理解し、その特性と影響を把握して、自身と社会を相対化できる必要がある。
自分自身と萌えキャラの区別がつかなくなるヲタクは、普通は居ないんじゃないか。基本的にヲタクは唯物論者である(by山口貴士弁護士)。
私の想像(というか妄想)がもし合っていれば、ヲタクのこのような性質は山本氏が指摘した「空気」と真っ向から対立するものになりそうで、するとなぜヲタクバッシングが時折起きるかの説明がつくかもしれないなぁ、と思ったり。非ヲタが真実として消費したがっている(が客観的真実ではない)ものが、ヲタクにかかると虚構として消費されてしまう、とも言えそうだし……。
いや、何でこんなことを連想したのかは自分でもよくわからないのだけど。