日経サイエンス4月号、の議論の続き
元エントリーは「日経サイエンス4月号」。期待していた議論が、くだらない理系文系ルサンチマン論争でどこかにすっ飛んだので、仕切り直しをする。
最初にコメントをくださったkaeyさんが、次のようなメールをくださった。メールを題材にしてエントリーを上げることを快諾してくださったので、以下に引用する。
4月号の『似非科学と非寛容』を一読して心に浮かんだのは、ニセ科学が跋扈するのはなぜかという疑問です。
これについて記録を調べたり、具体的な事例を集積したり、きちんと調査研究したわけではないので、概論的なことを評論的に述べるしかありません。
理由はひとつではないでしょう。怪しげな摩訶不思議やニセ科学跋扈の原因として沢山考えられる中で先ず私に思い浮かぶのは、科学が人類に害悪を及ぼしたり、被害を受けた人々が追及したその原因が科学技術であった事実ではないかということです。
例えば、広島や長崎に投下された原子爆弾や近代戦争に使われた最新兵器・工場排水によって引き起こされた水俣病やイタイイタイ病・シックハウス症候群・ シアン化カリウムやアジ化ナトリウムによる毒物中毒事件・茨城で起きたICOの臨界事故・アスベスト問題などなど。人々に甚大な被害が出て大事件になり、 人々によく知られるようになった出来事では、人体に危害を加えた直接のものが化学反応や物理反応になっています。このような事件を引き起こした主体は人 (人為というやつです)ですが、一般人々は「科学」が凶器になって人に襲いかかったという印象を持ちます。実は科学そのものではなく、科学に基いた技術が 生み出したものがそうなっているのですが。「科学」とひとくくりにされがちです。
その印象からさらに「科学」≈「生命を脅かす凶器になることもある」≈「生命を脅かす凶器になる」≈「凶器」という風に印象が進んでしまうと、科学が悪いものになってしまいます。 科学は人間が自然界を理解したり役立つものを得るため方法だったりする、中立的なものなのに、「悪いもの」という風に修飾されてしまいます。科学の本質をあまり理解していない人は、このような印象に流される場合もあるでしょう。
そうするとその極端な反動として、非科学的がものが「善いもの」という価値観も生まれて来るでしょう。宗教団体が作るパンフレットなんかによくある絵 は、いろいろな動物や人が田園風景の中で仲良く暮らしているというもの(私には胡散臭い)で、そこに科学技術を象徴するような事物は出てきません。科学と 離れたところに理想の楽園があるかのような印象を与えます。
以上のように、科学が人類にもたらしたいい面を忘れ、悪い面だけがことさら記憶に残った結果、科学を毛嫌いする風潮が生まれ、それが怪しげな摩訶不思議を受け入れる素地になっているのではないかと思います。しかしながら、多くの人がそのような考えに陥っているという訳ではありません。飽くまでそのような 風潮があるというだけの話です。
そして、人々が「こうあって欲しい」という希望をかなえるのに、摩訶不思議だけでは十分ではないときにニセ科学が使われるのではないでしょうか。つまり、都合のいいところだけ科学的検証の方法論を利用するのです。科学をよく理解できない人には、科学的であることとそうでないことの区別が明瞭ではありません。また、いくら科学は怖いと思っても、現代の日々の生活で科学技術の恩恵を受けていない人はないのですから、自分に都合のいいところでは科学を受け入 れます。
私は、科学や技術から生まれてきたよい点と悪い点をきちんと捉え、それに関わった人間活動を踏まえてきちんと分析し、それを啓蒙することが、このような 風潮を消すために大切ではないかと考えています。
やっと本筋の議論に戻ったという感じです。まずは、メールを紹介させていただきます。意見交換はコメントの方で……。
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