実は水伝はニセ科学以外の部分が多いのではないか
「本当に「なぜいつまでも水伝?」なんです」を読んで。
水伝(とりあえず代表としてこれを選んでみる)は、ニセ科学として批判しなければならない部分はごく一部でしかなくて、それよりもニセ科学を利用して人の間の意思疎通を阻害するという効果が甚だ大きいことが問題だという部分が、他のニセ科学とは異なっている。だから、ニセ科学の代表例として水伝を選ぶのはあまり適切ではないかもしれない。
他のニセ科学の例としては、「アガリクスでガンが治る」「○○水でアトピーが治る」といった悪徳商法系のものや、古くからある「相対性理論は間違っている」(←こう主張する人の理解力が足りないだけ)といったものがある。これらのニセ科学が効果を及ぼす射程範囲は、自然現象に限られる。ガンやアトピーが治るという現象は、人の体に起きるだけで、自然現象の一つに過ぎない。相対性理論が間違っているといって別の理論を主張しても、その中身はやっぱり自然現象を記述するという範囲に留まっている。自然現象のみを射程とするニセ科学は、信じている人を説得するのは困難かもしれないが、別のものを提案するという形での対話であれば可能である。「アガリクスよりももっと効く××を試してはどうか」という話は、それが間違っているか正しいかは別として、相手の土俵での対話のために出すことは可能である。
しかし、水からの伝言をいい話だと思う人というのは、「アガリクスでガンが治る」を信じる人とは根本的に違っている。水結晶が言葉に影響されるとか、それが実験操作により顕微鏡写真で見える、といったあたりについては、科学を装うが科学ではないので明白にニセ科学である。問題は、「水に言葉の使い方(や音楽の良さなど)を教えてもらってそれで良しとする」態度の方にある。
もし、水からの伝言をいい話だと思う人が、「面倒な人付き合いなんかもううんざりだ。人に対して何を言うかを決めるのに、いちいち相手のことなんかかまっていられないし気にするつもりもない。水が教えてくれるなら楽だし面倒もないから、私はこれからあなたたちに対して発する言葉にについては全部水に訊くことにする」と主張し、各自が自分の手持ちの水に向かってひたすら語り続け、自分以外の他人の方は一切頓着しないという、コミュニケーション不在の荒野をひたすら作り続けるというのであれば、事の善し悪しはともかく筋は通っている。
ところが、水伝をいい話だと思う人達に限って、「他人にどういう言葉を使うか私は気にしているのだ」と思い込んでいる。これは凄まじい自己欺瞞である。その上、この欺瞞性についてその本人はまるで無頓着であるという特徴がある。他人の方を全く見ないで水に向かってせっせと話しかけておいて、「私はあなたとお話ししていますよ」と主張するような人とは、普通に考えればコミュニケーションは不可能である。「いや、あなたが話しかけてるそれ、人じゃなくてただの水だし」としか言いようがない。
ニセ科学の中でも、効果の射程が自然現象に留まる種類のものは、人のコミュニケーションそのものまで破壊はしない。効果の射程が「他人を正面から見ない」ものである場合は、人と人との関わりそのものを破壊することになる。
このような見方をするならば、「アガリクスでガンが治る」「○○水でアトピーが治る」という主張と、「ありがとうと叫べば琵琶湖がきれいになる」という主張は、規模が違うだけで同種のものであるといえる。いずれも間違っているしそもそも科学ではないし、まともな医学の手柄を横取りするとか、計画を立てて湖の浄化に努力した住民の手柄を横取りするといった弊害はあるが、言及の範囲は自然現象に限られているからである。
「道徳のあり方を水に決めてもらう」と「血液型性格診断(A型の人はこんな性格、と分類しようとする)」は、他人をきちんと見ないようにし向けるという点で、同種のものになる。ニセ科学を手段として使い、その結論が他人と正面から向き合うことを避けるものになっている言説は、むしろカルトが使用する言説に近い。人間関係に何らかのフィクションや妄想を導入するからである。
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