人を切り離さないことによるメリットを知りたい
十年や二十年では変わらないコミュニケーションのあり方を読んで。
【追記】このエントリーのタイトルは、より正確には「論と論者を切り離さないことによるメリットを知りたい」となるが、言及先の表現に則り、人を切り離さない~と書いた。
まず、気になった部分について、本筋とは関係ないがツッコミを入れておく。
「fjを経験してきた私たちは、(政治系ブログの人たちなんかと比べて)一段上のステージに達しているんだ」という自負を感じた。
ステージといったものは多分存在しないし、上下というものもないから、そこで感じているものは多分幻ではないかと思う。従って、
だが、本当にそうか。
という問いは無意味だと思う。
さて、ここからが本論。
政治批判系のブログでは「属人的な議論をしている(から程度が低い)」というのが、アカデミズム系の人たちの一部からなされた批判だった。
アカデミズム系というのがが何を意味するかはっきりしない。誤解を避けるために改めて書いておくと、私が指摘したのは、「属人的な議論をしている」から、さっさと終わる筈の議論がいつまでも紛糾したままになっていて、内容や理解が深まってもいかないのではないか、ということである。程度の高低の話ではなく、議論の効率が著しく悪いということを指摘した。
そもそも私は、自然言語の性質上、書き手の人格と書かれたテキストを切り離すことはできないと考えている。
という読み方が必要になるのは、文学の解釈において作家を理解する場合の話ではないのかと。
ところが、今回アカデミズム側にいるある方に、「あなたのやっているのは印象批評だ」と指摘したら、「私は印象で書いている」と返されてしまった。これには、「膝カックン」だった。ひとたび確立したはずの、アカデミズムの世界の人たちの「ネットにおける議論のスキル」というのももしかしたら形骸化してしまっているのではないか、そんな「印象」(笑)を受けたのである。
アカデミズム系にいるある方とは一体誰のことか。具体例を挙げて特定してもらいたい。議論を発散させないためには、批判の対象を限定し、明確にする必要がある。
現代文の試験問題の材料ならば「この文中の”今回アカデミズム側にいるある方”とは誰を指しているか」といった問いを作ることに意味があるかもしれないが、議論をしている最中に、設問のネタを残すような書き方をするのは、読者に余計な労力をかけるだけなので不親切である。また、このような書き方をすると、読んだ人のうち自分が「アカデミズム系にいるある方」に該当すると考えた人全てがそれぞれの立場で反論し得るが、その中には、筆者が本来狙った人以外による想定外の反論も含まれることが予想される。結果として議論は全く収束しなくなることがある。これは、既に、論宅mercaがやって(=ニセ科学批判者という括りで議論したため私やきくちさんが反論したが、批判対象はそもそも全く別の人だった)、混乱を引き起こしたのと類似の手法である。
実際「アカデミズム系にいるある方」が文章中で特定されていれば、私が何かを書く必要があるかどうかは、読んで直ちに判断できた。実際にはそうなっていなかったために、長々とここでこうやって説明している。批判対象を特定しない書き方は、関係のない人にまで無駄足を踏ませる可能性を常に伴っているということを、少しは意識してもらいたい。
だが、人間を切り離しての議論などできない、それが「政治批判系」の「水伝」批判派の何人かの主張だし、それには当ブログも賛成だ。
それでは、人間を切り離さないことのメリットを知りたい。
少なくとも、私が行ってきたニセ科学批判では、切り離すも何も論の中に人間など最初から存在しないし、人間そのものに言及するときは、例えば「主観的に因果関係を認めれば客観的に間違いでも信じる」といった、人間の仕様についての言及に限られていた。そういうやり方で議論をして、これまで、対象についての理解を深めてきた。人間を切り離した議論をすることのメリットの方は、はっきりしていると考えている。
ニセ科学批判をしてきた経験から見ると、正月の水伝騒動はさっさと終わる筈のものである。一方が強固な水伝ビリーバーであれば継続的な批判が必要になることもあるが、今回は全くそうではなかった。ところが、水伝騒動が元の水伝ネタを離れたまま、時々ニセ科学批判に言及しつついつまでも終わらないのを見ると、議論から人間を切り離さないことのデメリットはあってもメリットが見当たらない。
人間を切り離さないで議論することを支持するというのは1つの立場ではあると思うが、それなら、そのことによって得られるものが何かを示して欲しい。
人間を切り離すとうまくいかないケースとしては、既にコメント欄の方で「文学の議論をする場合」(は作品と作者を切り離せない)というのが挙がっており、これについては私も同意する。ただ、この場合であっても、作品を議論している論者同士の間では、論と論者は切り離さないと解釈が水掛け論に終わりそうである。
また、例えば、たんぽぽさんの文章を全て文学作品として扱うことにするのは、少々無理があると思う。
水伝批判に名を借りて別のネタで対立している相手方を批判し続けるために役立つ、というのであれば、そういうことをしたい人にとっては、人間を切り離さないことがメリットであると言えるかもしれない。それならそうとはっきり言ってほしい。
今回の議論を見る限り、論から人間を切り離さないことによって可能になったことは、
(1)論者にとって都合のよい読み方を読者に求めることで、論や表現の欠陥を隠す
(実例:私がたんぽぽさんのエントリーについて批判を加えた時に、玄倉川さんが私に対して、”(書かれていない)たんぽぽさんのパーソナリティも理解すべきであると主張し、その際考慮すべきパーソナリティの内容は『「冷静」「時にシニカル」「割り切りのよさ」という個性』であると規定し、さらに、「それがある程度知的な大人が備えてしかるべき読解力だ」”と主張したという事実)
(2)相手の内心を勝手に推測し、そこから論を展開する
(実例:たんぽぽさんのエントリーのうち、私が指摘した部分)
という、何らかのテーマについてまともに議論をし、そのことによってテーマに対する理解を深めようとした場合には、邪魔になりそうなものでしかなかった。
【追記で連絡】
多分、このエントリ関連だと思うんですが、いただいたトラックバックを、たくさんのspamトラバ削除のときに間違って消してしまいました。心当たりの方はすみませんがもう一度送っていただけないでしょうか。
ここからは旧ブログのコメントです。
by pooh at 2008-05-54 05:51:54
Re:人を切り離さないことによるメリットを知りたい
> アカデミズム系にいるある方とは一体誰のことか。
これはぼくですね、多分(ぼくを「アカデミズム系」と云うのは無理があるなぁ、とは思いますので、確かではないですが)。玄倉川さんのこちらのエントリのコメント欄での、2008-05-27 06:22:42の発言です。
http://blog.goo.ne.jp/kurokuragawa/e/c287c88a401ab4b096efbfa3cc0ec859
ぼくはここで「ぼくは『印象』について書いています。」とコメントしています。これは「与えうる印象」と云う意味で書いたのですが、これだけでは不親切だなぁ、とか思ってちょっと長い追記をしています。
kojitakenさんはこの一文を、ぼくが「受けた印象にだけ基づいて、その印象を信じて論じている」と云う意味に受け取られたようです。
by 北風 at 2008-05-38 06:37:38
Re:人を切り離さないことによるメリットを知りたい
「議論の効率が著しく悪い」というのは一つの鍵かもしれません。
論の中で、「対象を限定し、明確にする必要がある」事柄が不明瞭であれば、相手は「推察する(行間を読む)」か「きっちり問いただす」のいずれかをする必要がある。(しなければ、議論が発散する)
逆にいえば、「そういうことをしないように文を作る」ことを意識しない限り、上のような事態に陥るわけで。
議論のベースになる「文のありよう」についての部分がくい違っているような気がします。
by ひろのぶ at 2008-05-51 07:02:51
Re:人を切り離さないことによるメリットを知りたい
なんか紹介されていた文章を読むと、飲み屋で、「むかしオレも悪だったんだぜ」みたいな話をする痛い中年と同じような。もちろんこのコメントは印象でのみ書いていますよ。
by シンシン at 2008-05-01 14:43:01
Re:人を切り離さないことによるメリットを知りたい
apj さんの主張されるところの「人を切り離した議論」とは、概して有用なコミュニケーションのスキルあるいはルールだと思います。一方の「人を切り離さない議論」は自然で無理がない普通のコミュニケーションの延長線上にあるもの、多少悪く言えば、主観的で時に各々のエゴが混じったもの、と理解しました。
「人を切り離した議論」は一定の結論を出す必要があるときには必須と言えるかもしれません。しかしながらそうやって導かれた結論は、「人を切り離さない議論」を好む人達にとっては多くの場合、一面的で納得のいかないものであるような気がします。したがって議論は「人を切り離した議論」を好む人達の間でしか収束しないと思われます。
たまたま、とある問題に関してネット上に集まって議論を始めた人達が、各々「人を切り離した議論」に徹することなど私が知る限りありえないことですから、結論が出るはずもありません。それでも議論を通じて共感したり、逆に反発したりしながら学ぶことは沢山あります。
「人を切り離した議論」を呼びかけること自体は有意義なことだと思います。しかしながら己の基準でそれがなされないからといって、”異常”などと切って捨てるのは、ずいぶんと乱暴なことです。少なくとも理性的な会話が通じる相手に言う言葉ではないと思います。
私はネット上の議論では、結論を出すことよりも多くの共感者を得ることが重要だと考えています。簡単に相手を異常と言ってのけるような人に共感することはできません。
by zorori at 2008-05-37 17:16:37
Re:人を切り離さないことによるメリットを知りたい
シンシンさん、おはようございます。
結論を出さないお話合いというのは、議論ではないような気がします。酒席でのコミュニケーションとか、「それってあるある」という感覚的な共感話ではないかと。もちろん、それは異常でも不必要でもありませんが、apjさんが話題にしているのは論理や筋によって収束を目指す議論のことではないでしょうか。
by akiko at 2008-05-20 19:02:20
Re:人を切り離さないことによるメリットを知りたい
はじめまして。apjさんが指摘されている
>(2)相手の内心を勝手に推測し、そこから論を展開する
についてなんですが結局論者の目を通して相手の内面を推測する訳で、そこには論者自身が反映されるというのが面白いところだと思います。すみません、馬鹿なので上手く表現できませんが。例えば下記のような記事は今読むと、まるで自己批判しているように読めます。
http://plaza.rakuten.co.jp/kngti/diary/200801070000/
by apj at 2008-05-09 19:15:09
Re:人を切り離さないことによるメリットを知りたい
シンシンさん、
>”異常”などと切って捨てるのは、ずいぶんと乱暴なことです。少なくとも理性的な会話が通じる相手に言う言葉ではないと思います。
まず、事実誤認があります。私は、異常であると感じた後も、なぜそう感じるのかという理由を探したと書いたはずです。つまり、異常だといって斬って捨ててはいないのです。勝手に他人の行動を決めないで下さい。
次に、あなたの論理であれば、理性的な会話が通じない相手であれば、異常だと判断してもかまわないことになりますね。
私が異常であると感じたのは、たんぽぽさんの書いたものについて批判を加えようとした時に、玄倉川さんが出てきて読み方を指示したということです。しかも、その内容は一方的にたんぽぽさんに有利であり、公正なものには見えませんでした。ですから、私は、たんぽぽさん弁護の件に関する限り、玄倉川さんに理性的な判断はできていないと判断しました。
あなたが仰るとおりの条件(?)のもとで、私は玄倉川さんの行為に異常なものを感じたのですよ。ですから、あなたは私の感じたことに「共感」すべきケースですよ。
>私はネット上の議論では、結論を出すことよりも多くの共感者を得ることが重要だと考えています。簡単に相手を異常と言ってのけるような人に共感することはできません。
結論が出なかったら、賛成していいか反対していいかすら分からず、共感にすらたどり着かないでしょう。
さらに、水伝騒動は、批判派と反対派に別れて紛糾が続いていて、多くの共感者を得るどころか、当事者間の対立は深まる一方だという事実があります。
さらに、今回、議論の展開が変だということを、当事者ではなかった私からも指摘したわけで、これに同意する人であれば、共感以前に駄目な論争の例として見放す可能性の方が高いでしょう。
人を切り離す議論を好む人達の間では、その人達の間だけであっても議論は収束しますが、人を切り離さない議論をしている人達の間では、その人達の間であっても紛糾が続いているというのが、現在進行中の事実です。あなたの主張からは、人を切り離さない議論をするメリットが全く見えませんね。
by apj at 2008-05-23 19:34:23
Re:人を切り離さないことによるメリットを知りたい
zororiさん、
>apjさんが話題にしているのは論理や筋によって収束を目指す議論のことではないでしょうか。
逆に、解決や収束を目指さなくて良い種類の話なら共感だけでも差し支えないと思います。
例えば、どの絵が自分にとって快適か、などという、主観に始まり主観に終わる話をしている場合は、共感の範囲でしか会話のしようがないでしょう。
ただ、主義主張を述べあって相互に批判し一応の結論を目指す場合は、勘違いで共感したり、思いこみで共感したりしていたのでは話が混乱するだけですから、議論の筋と結論が妥当と判断できるかというチェックは必要です。
水伝批判のような場合は、共感する人を増やせばいい、でやったのではそもそも支えきれません。水伝の話そのものに共感する人というのが、そもそも社会にはそれなりの数居るわけですが、客観的はどういう立場から見ても水伝の話自体はトンデモ話に過ぎないわけです。
人に共感できるかどうかで判断することがまずいのは、ある人が常に正しいことを言うわけではないということによります。ですから、人を切り離しておかないと、間違った主張であっても言っている人の方を見て共感してしまうとか、正しい主張であっても言っている人を見て共感しないという、判断のエラーが発生します。人に共感できてかつ主張にも賛成できる場合だけ受け入れる、とすると、他人の主張を受け入れる機会が減ってしまいます。
by apj at 2008-05-44 19:42:44
Re:人を切り離さないことによるメリットを知りたい
akikoさん、
>結局論者の目を通して相手の内面を推測する訳で、そこには論者自身が反映されるというのが面白いところだと思います。
同意します。
結局、自分の心をもってしか人の心は推し量れないのですね。相手の内面を安易に推測する人は、推測の内容が自分の内面の限界によって規定されるということについて、無自覚であるように見えます。
他人の内面を推測して議論することに意味がないのは、自分が推測する他人の内面≠本当の他人の内面、なので、どうやっても間違ったところから議論を始めることになるからなんです。
by 黒猫亭 at 2008-05-57 01:08:57
Re:人を切り離さないことによるメリットを知りたい
>apjさん
>>ニセ科学批判をしてきた経験から見ると、正月の水伝騒動はさっさと終わる筈のものである。一方が強固な水伝ビリーバーであれば継続的な批判が必要になることもあるが、今回は全くそうではなかった。
そもそもこれは、まったくapj さんが仰るような意味でのニセ科学批判の文脈の問題ではなかったようです。少なくとも玄倉川さんのご意見によると、ニセ科学批判の問題ではなかったことになると考えられます。
時期的には「十数年前を見ているようだ」での議論と併行する形で、poohさんのブログのコメント欄において黒猫亭と玄倉川さんの間で議論があったのですが、ニセ科学批判的な文脈のご説明はまったく通じませんでした。
http://schutsengel.blog.so-net.ne.jp/2008-05-16#comments
技術開発者さんの2008-05-20 11:52のコメント以降の流れをご覧ください。
事情をよくご存じない技術開発者さんが「訂正要請と謝罪要請が混同されたのではないか」というご意見を述べておられたので、黒猫亭が「いや、そもそも訂正要請すら為されていなかったんですよ」というふうに説明させて戴いたわけですが、その説明上、訂正によって和解するという条件を双方が受け容れた、という事実誤認に基づいた説明を差し上げてしまったので、玄倉川さんがさらにそれを訂正されたわけです。これについて確認したところ、事実その通りだったのですから、まったく異論なく訂正させて戴きました。
その際にapj さんが仰るように「ニセ科学批判の文脈で言えば、この問題はぶいっちゃんさんが訂正文を入れた時点で決着が附いていたはずで、それ故に、何故今に至るも議論が継続しているのかがわかりにくい」という意見をこちらが述べさせて戴いたのですが、そこから話がこじれて議論が紛糾していったわけです。
これは黒猫亭のほうでも、「玄倉川さんはニセ科学批判のブログ言説に頻繁にブクマされているのだから一定の理解があるはずだ」という予断があったものですから、それを前提にして意見を述べたことが混乱を招いた側面はあると思います。ただ、この議論を視る限り、正月の騒動のそもそもの発端からして、apj さんが仰るような意味でのニセ科学批判とはまったく関係がなかったということになると思います。
なお、黒猫亭の発言について、「手打ち」とか「落とし所」などと口にしたことを問題視する向きもあるようですが、その出元はこのコメント欄ということになりますので、興味のある方はご参照戴けますと幸いです。
by apj at 2008-05-11 05:58:11
Re:人を切り離さないことによるメリットを知りたい
poohさん、
なるほど、poohさんの事でしたか(推定)。
それにしても不親切ですねぇ>引用もとのエントリー。
poohさんだと分かっていれば、別の例を探すかスルーしたのに^^;)。
北風さん、
>議論のベースになる「文のありよう」についての部分がくい違っているような気がします。
それはそうなんですけども、何だってわざわざ混乱を引き起こす内容を書いているのかなぁ、と思うわけで。
by 憂鬱亭 at 2008-05-12 06:00:12
Re:人を切り離さないことによるメリットを知りたい
人を切り離さない議論のメリット、
それは、「わかるような気がします」といえることではないでしょうか。
論理的に「理解できる」のではなく、
客観的に「正当であると認識できる」のではなく
「証明できる」のでもなく。
「わかる気がする」だけ、です。
それによって得られる物は、「根拠がはっきりしない安心感」ですね。
根拠がはっきりしないので、どんなものをもってしても打ち破られることがない安心感です。
この安心感は、多分、心の安定には有用だと思います。
「私は自然で無理がない普通のコミュニケーションができている」と思うことができますから。
論理的に考えていくこととは、不断に自らの論理性をチェックすることでもありますから、
根拠もなく安心することを許してくれません。
しかし「人を切り離さない議論」をすれば、自己チェックのレベルをゆるくすることができるんですよ。
こっちの方が、気持ちは楽です。
で、私自身も、しんどくなった時や愚痴をこぼすときは、
自己チェックのレベルを下げます。
そ の代わり、そういう時は論理的な思考が必要ではないことを話題にすれば良いのですから。議論や論争のときは、まずいですよね。
>シンシンさん
「ネット上の議論では」、ではなく「論理があまり必要でない話題では」ということではないのでしょうか。
by kaqu11 at 2008-05-34 06:02:34
Re:人を切り離さないことによるメリットを知りたい
メリットを考えてみました。
可能性1:今の騒動は「何かの結論を出す」ために行われているのではない。
以前のエントリでかつさんは
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=9655
> 「批判の権利」は現に存在しています。ただ、そういう「権利」や「自由」自体を否定する風潮が一部とはいえ「政治ブログ」世界に存在することを、わたしは指摘しているわけです。
(中略)
> たぶん私が「批判の権利を擁護する」といったとき、おそらく黒猫亭さんはそんなことは当たり前だと思ったのでしょうが、そのような「当たり前のこと」が「当たり前」になっていないのが「政治ブログ」世界、とりわけ「権力批判」を標榜するブロガーの現状なのです。
と発言されていて、
もしかすると「政治ブログ」世界、とりわけ「権力批判」を標榜するブロガーの世界では論争状態をずっと続けていないと「権利」や「自由」自体を否定する風潮が支配的になってしまうのかも知れず、論争状態を維持しておくことに意義があるのかもしれないです(*想像なので実際のところは分かりません)。
可能性2:有意義な議論のためには各論者の言わんとしていることが互いに理解される必要があるから
議論において、Aという論者が「a」ということを言おうとしたとします。対立している論者であるBがそれを「a'」と解釈して反論したとしたら、無駄な議論に時間を費やすことになりかねません(そもそもAはa'のことなど言おうとしていないのですから)。
したがって、議論する場合、相手の論を批判する場合にはまず相手の言わんとしていることを把握するのが重要になります。
と、ここまで読んで「いやそれはそうだけれども、それを実現するためにはまずAが自分の言わんとしていることを多くの人に通じる言葉で表現する(のは難しくても、せめてその努力をする)必要があるのでは?」と思われた方も多いと思いますが、それについてはとりあえず置いておくとして。
Aという論者の論を批判しようとするなら、全力を挙げてAの「言わんとしていること(言っていること、ではないです)」を理解する方が有意義な批判ができる、そのためにはAの人格やパーソナリティーや特徴的な言葉遣いを知ることが有用である、ということなのかもしれないです。
(*想像なので実際のところは分かりません)。
ひどく頼りない意見であることをお詫びします。
*余計なことですが、「人を切り離さないことによるメリットを知りたい」よりは、「論と論者を分けて考えないことによる~」などの方がタイトルとしては誤解を招きにくいかもしれません。
by たんぽぽ at 2008-05-38 06:56:38
Re:人を切り離さないことによるメリットを知りたい
こんにちは、たんぽぽです。
わたしも、アラシ対策のあおりを食ったみたいです。
>ところが、水伝騒動が元の水伝ネタを離れたまま、
>時々ニセ科学批判に言及しつついつまでも終わらないのを見ると、
終わらない理由のひとつは、「らんきーブログ」の支持者たちが、
「水からの伝言」のにせ科学性に、こだわっているからではなく、
批判された事実自体を、否定したいからだと思います。
彼らは、自分たちが、なにかの正義であり、批判されない
特権があるかのような、うぬぼれがあるみたいです。
それで「とんでも」を批判されたことが、なかなか受け入れられず、
批判したほうが悪いと、責任転嫁をしようとするのでしょう...
こういう、いつまでも納得しないかたがいるかぎり、
「議論」は終わらないことになります。
もうひとつは、偏った情報で、奇妙な認識を作っていて、
それにもとづいて、おかしな批判をする人が、つぎつぎと出てくるからです。
(あまりいつまでも引き合いに出すと失礼だけど)、
たとえばこんなです。
http://ts.way-nifty.com/makura/2008/01/post_f0a1.html
こうしたかたは、おそらく「はじめに結論ありき」なのでしょう...
「対話したい」と言いながら、自分が作り上げた「結論」を、
わたしに一方的に、押し付けたいだけなのかもしれないです。
あるいは、自分の「結論」を正当化することに、
都合のよい「事実」をつかみたくて、「対話」しにくるのかもしれないです。
さらに、こうした思い込みの認識のまま、あれこれ発言したりすると、
それがデマ化して、あちこちに広がっていくことにもなります。
「議論」の多くの部分は、こうした風評被害対策に、
取られているのが実態となっています。
by pooh at 2008-05-42 07:07:42
Re:人を切り離さないことによるメリットを知りたい
> apjさん
あくまで推測です(御存知のとおり自意識過剰気味の傾向がぼくにはあるので)。
北風さんのおっしゃる「上のような事態」が、ぼくの一行コメントについてお書きなのであれば、いちおう弁明します。
このコメントは単体で書かれたものではなく、そのまえのコメントを踏まえています。で、その前のコメントは、上で黒猫亭さんがリンクされたエントリ本文でのぼくの主張を踏まえています。ぼくはkojitakenさんとの対話ははじめてだったのですが、はてなブックマークにおいてkojitakenさんはこのぼくのエントリに対してコメントつきのブックマークを寄せてくださっているので、詳細な説明がなくとも当然そのエントリをお読みで、ぼくの主張の流れをご存知でいらっしゃる、と考えました。
直後にぼくは(不要とは思いつつも)この一行コメントをフォローする内容の追記コメントを書き込んでいます。
コメントひとつで主張の根拠を網羅しようとすると、長くなってしまいます。一部に長いコメントを大変嫌う文化があるらしい、と云う例を最近見たので、ちょっと気にしたのはありました。
by apj at 2008-05-13 08:31:13
Re:人を切り離さないことによるメリットを知りたい
憂鬱亭さん、
>で、私自身も、しんどくなった時や愚痴をこぼすときは、
>自己チェックのレベルを下げます。
>その代わり、そういう時は論理的な思考が必要ではないことを話題にすれば良いのですから。議論や論争のときは、まずいですよね。
同意です。
このblogでも、100%論理でできている訳じゃないです。ネタ振りとか、笑いをとるやりとりとか、いろいろです。
話題によって、どこまで論理的にやる必要があるかという適切な程度があるんだと思います。
kaqu11さん、
可能性1だと、論争状態を続けるための方法論として、論者の個性に言及を続けるということになりますね。単なる泥沼化とどう区別するのかという問題はありますが、目的のために手段を選んではいられないほど論争することそのものが大事だというのであれば、それも有りかもしれません。
可能性2だと、そうは言っても正確に書く努力をした方が結果としていいんでね?とやんわり提案しつつ生暖かく見守るしかなさそうな……。
いずれにしても、結論を出したり理解を深めたりすることに重きをおく、ニセ科学に対する批判とは別物になりそうです。なお、ニセ科学についての批判でも、同じ批判を繰り返し行うということはしています。
「論と論者を分けて考えないことによる」の方が適切ですね。仰るとおりです。まあ、引用元の表現に則ったので、人を切り離さないという表現になりました。本文に追記しておきます。
by 北風 at 2008-05-47 08:53:47
Re:人を切り離さないことによるメリットを知りたい
>poohさん
>北風さんのおっしゃる「上のような事態」が、ぼくの一行コメントについてお書きなのであれば、いちおう弁明します。
紛らわしい文でご迷惑をおかけしました。
>逆にいえば、「そういうことをしないように文を作る」ことを意識しない限り、上のような事態【相手が「推察する(行間を読む)」か「きっちり問いただす」のいずれかをする必要がある事態】に陥るわけで。
という意図でした。
【】内の事態を引き起こすのは、論者の姿勢といえば姿勢なんですが、書かれている文自体にも要因がある。
「書かれている文に対してどう臨むか(行間を読む読まない)」以前に、どういう文を用いてどうやりとりするかという流れのところで食い違っていたら、臨む姿勢だけを取り上げてもそれは食い違うのでは、という感想を持ったもので。
by apj at 2008-05-18 09:23:18
Re:人を切り離さないことによるメリットを知りたい
たんぽぽさん、
>わたしも、アラシ対策のあおりを食ったみたいです。
どうも失礼しました。すみません。
>こういう、いつまでも納得しないかたがいるかぎり、
>「議論」は終わらないことになります。
水伝批判のときの一番最初のエントリー(私のところにトラックバックなさった分)で、批判のための主張としては尽きていると思います。
その後、相手方がごたごた言ったところで、理が無いのは誰が見たって明らかですから、相手にしないで放っておいても、たんぽぽさんの評価が変わることはおそらく無いでしょう。たんぽぽさんに対する評価を変えた、と思い込んでいるのは、ごねてる人達だけの主観であって、その他の第三者が見れば、何を理のない主張をしてるんだか」で終わりです。相手をしないで放っておくだけで、ごねている人達の評価は自然に下がるわけで、わざわざ反論しなくても済むので楽だと思うんですけど……。
http://ts.way-nifty.com/makura/2008/01/post_f0a1.html
見ました。
瀬戸智子さんの認識が甘いのは、対話で何とかなる、収拾できると思っていることだと私は考えます。
私の場合ですと、水伝だけじゃなくて、水商売(蛇口産業の方ね)の非科学説明にツッコミをいれてますが、批判の相手には何も知らせませんし、相手が議論に乗ってきて何らかの改善がなされることなどほとんど期待していません(逆ギレ訴訟は覚悟していますが)。じゃあ、何故やっているのかというと、そこで書かれた間違った説明をつい信じてしまうかもしれない他の大勢の人達に向けてやっているわけです。最初から対話が不可能な相手に言及しなければならない場合というのもあるわけです。そういう場合は、理のみで書いて、相手の個性には意識的に言及しませんし、推測もしません。それで、相手がとんでもないことを言い出せば、第三者が見ればその相手は対話不可能で主張に理のかけらも無いことがわかるわけで、そういう議論が広く受け入れられることはありませんから、放置しても問題ありません。
>さらに、こうした思い込みの認識のまま、あれこれ発言したりすると、
>それがデマ化して、あちこちに広がっていくことにもなります。
>「議論」の多くの部分は、こうした風評被害対策に、
>取られているのが実態となっています。
水伝騒動については今さら遅いかも知れませんが、今後のためにたんぽぽさんに1つ提案しておきます。批判をするときには、相手の個性や内心に言及せず、論の不整合や理の無い部分の指摘だけを過不足なくやった後は、相手が逆ギレしても一旦黙るという方法です。
風評が、風評を流している人達の間だけに留まっている間は、実質的な風評被害は発生しません。第三者がほとんど注目していない状態だからです。風評被害が発生するのは、その風評が当事者以外にまで広がった場合です。
風評が広がれば、本当かどうかを調べるために、元の発言などを見に来る人が出てきます。そのとき、元の発言が誰にでもわかりやすい状態で維持されていて、その風評の中身が勝手な妄想であるとすぐにわか状態になっていたら、風評被害は発生せず、その風評を流した人達の信用が落ちます。
ローカルな集団から出てきた理にかなっていない主張が山ほどあって、一方で理にかなった主張が誰でもすぐに読んでわかる量だけあると、第三者が検証する際に、どちらを理解することが容易かということです。風評というのは、第三者がどう見るかで決まりますから、関係無かった人達に理路が分かりやすい状態にしておけば、実質的に被害は受けません。
逆に、風評被害に全部対応しようとしていろいろ書きまくると、第三者が見た時わけがわからなくなりやすく、どっちもどっちだろうと考える人が出てきてしまいます。これでは逆効果です。
風評を流している当事者は……議論したって、多分変わることはないので、議論で改めさせるのは無駄な努力かと。
by zorori at 2008-05-41 15:42:41
Re:人を切り離さないことによるメリットを知りたい
おはようございます。
実は、この件について実態を私は分かっていません。そして、「十数年前を見ているようだ」も全部は読んでいません。というかほとんど理解できなくて読む気がしないからです。なので、コメントする資格はないのですが、次のapjさんのコメントの第三者にまさに自分自身が当てはまると感じたましたので、参考までに。
>逆に、風評被害に全部対応しようとしていろいろ書きまくると、第三者が見た時わけがわからなくなりやすく、どっちもどっちだろうと考える人が出てきてしまいます。これでは逆効果です。
by Narr at 2008-05-56 19:17:56
Re:人を切り離さないことによるメリットを知りたい
こちらでは、はじめまして。漬物倉庫(嘘)のNarrです。
>論と論者の切り離し
>by kaqu11 at 2008/05/30 21:02:34
>可能性2:有意義な議論のためには各論者の言わんとしていることが互いに理解される必要があるから
複数解釈が可能な文章を読み手が読解するためには、論者(書き手)のパーソナリティを知る意義があるとは言えます。しかし実際には逆に、誤解を生む原因になっている。複数解釈が可能なのをいいことに、読み手に都合の良い読解を選択する根拠としてパーソナリティが使われる。
たとえば、皮肉として書かれた言葉を皮肉ととるか、それとも文字通りにとるかは、読み手が書き手をどのように評価しているかに大きく左右されます。書き手に好感(高い評価)を持っている場合は、好意的に皮肉ととりやすい。そういう意味では、文章と個人性とは切り離せないとは言えます。しかしあくまでも読み手が書き手をどう評価しているのかが問題なわけですから、結局のところは議論としての情報伝達にはなりません。既に読み手が持っているイメージが強化される方向に働く。(議論としての情報伝達は、そういう読み手の既存のイメージを壊すために行われるわけです。)
「空気を読む・気持ちを読む」も、「相手の意図を論理的に読む・相手の意図の物語を作る」も、この点は同じこと。結局は読み手によって決められるのですから、書き手がどれだけ努力して意図を伝えようとしても、読み手には伝わらない。読み手が自分の都合に合わせて書き手の意図を決め付けるために、感情的な根拠を使うか、それとも理屈を使うかの違いでしかない。
相手のことを詳しく知った上でのコミュニケーションであれば、論を論者と分離せずに文章を読むことで、円滑に書き手の意図を読み取れる。いわゆるタコツボコミュニケーションですね。しかし議論では、書き手を知らない人、書き手を誤解している人に伝えることが必要になるわけですから、読み手が書き手のパーソナリティを考慮すると、逆に誤解を生みやすい。(もしパーソナリティを考慮するのであれば、常に書き手を好意的に見るように努力するべき。)
ネットの議論では、書き手のパーソナリティを知る手がかりは、書き手の論そのものしかありません。しかし、論を読むためにはパーソナリティが必要だとされてしまったら、読み手の思い込みに基づいた文字解釈がされることになる。もし、議論以外の場で、読み手と書き手が個人的にお互いをよく知っているだとか、たまたま互いの意見が近いのであれば、問題は無いのかもしれないですが。
文章と論と、論者の個人性とがそれぞれ分離されていないのであれば、そのような論は結局のところ個人性を抜きにしては成立しないものです。その論が、たとえどれだけ論理的に見えたとしても、そのような論は不完全であり、「これは私だけの価値観です」と言っているに等しい。価値観と価値観が衝突する議論など、人格批判の応酬になって紛糾するに決まってます。それを全ての論者が互いに必要だと認めて、紛糾を覚悟してるなら、問題は無いですけれどね。
論に個人性が必要な場合もある、とは私も思います。でもそれと、情報伝達に個人性を当てにできるかどうかは別問題です。個人性がどうしても必要ならば、論とは別に、個人性を伝える必要がある。
こんなの書いてみました。参考になるか、ならないか…分からないですが。
http://blogs.dion.ne.jp/beta_reverse/archives/7221653.html
『十数年前を見ているようだ』で引用された文章中で、私がぼんやり考えてたことです。水伝騒動とは関係ない話かもしれないし、私も内容に全く自信がありません。もし、最初の要約を見て意味が通らなかったら、スルーしてください。
会話の流れをぶった切って、一人で語ってごめんなさい。
by MEDAMA at 2008-06-23 08:04:23
Re:人を切り離さないことによるメリットを知りたい
apjさん、すみませんが横レスお許しください。
たんぽぽさん。
こちらでの 2008/05/30 21:56:38 のコメントに、二つ質問させてください。
>終わらない理由のひとつは、「らんきーブログ」の支持者たちが、
>「水からの伝言」のにせ科学性に、こだわっているからではなく、
>批判された事実自体を、否定したいからだと思います。
批判された事実自体を否定したがっている「らんきーブログの支持者」というのは、具体的には誰を連想していらっしゃいますか。もしも差し支えなければ教えてください。
>もうひとつは、偏った情報で、奇妙な認識を作っていて、
>それにもとづいて、おかしな批判をする人が、つぎつぎと出てくるからです。
たんぽぽさんがここでリンクしていたのは瀬戸智子さんの1月15日のエントリーですね。瀬戸さんはこの後、いろいろなやりとりを経て、たんぽぽさんに対する認識を改め、謝罪もし、その後はこの騒動に言及しておられません。「未だに騒動が終わらない」例示として瀬戸さんを挙げたのはなぜでしょうか。
by ぐら虫 at 2008-06-55 19:24:55
Re:人を切り離さないことによるメリットを知りたい
たんぽぽさんへ
私もMEDAMAさんと同じように思いました。
MEDAMAさん、横レスの横レス、すいません。
「それにもとづいて、おかしな批判をする人が、つぎつぎと出てくるからです。(あまりいつまでも引き合いに出すと失礼だけど)、」
なんて書いていますが、自らが紹介したリンク先の「追記」部分を読みましたか?
★たんぽぽさんは、過去に、自らの間違いを認め、謝罪した人に対しても、いま、現在(2008年6月2日)のこととして、引き合いに出すのでしょうか?
リンク先を読んだことがなかったので、上で紹介された時に読んだら、他にも、気になる点がいくつかあります。
★の質問はMEDAMAさん質問と同じ要旨なので、MEDAMAさんへの返答だけで、私への返答は入れません。それを見てから質問させてもらいます。よかったら前の質問への返答でも答えてください。それでは。
取り合えず、これだけでも。YES OR NO?
「【発言意図として】ぶいっちゃんから謝罪するよう、喜八氏の説得に「期待してない」→【発言意図として】ぶいっちゃんから謝罪するよう、喜八氏に説得するように要求したつもりはない」」これは正解?
by ぐら虫 at 2008-06-06 02:18:06
Re:人を切り離さないことによるメリットを知りたい
>たんぽぽさんへ
2008-05-26 09:38:42にした質問、及び★への返答がないので間接的に「謝罪要求」はあったと確定させてもらいます。(今の所、間接的にです)
http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php?logid=9655#com9827
2008-05-26 09:38:42
「直接の要求じゃない」ということは、(喜八氏に)間接的に要求した?
「本気であやまってくれるとも、あやまるよう説得してくれるとも、思ってなかったけど」(喜八氏に)間接的に要求した?
喜八氏は「身内」ですから「批判側からの要求ではない」ということは、やっぱり、(喜八氏に)間接的に要求した?
★たんぽぽさんのブログの記事「騒動が再燃した(3)」(2008年04月20日)の発言で「わたしは、もちろん、謝罪の要求をしたことなど、ぜんぜんないです」と書いています。(現在(2008年06月03日)も同様?)
(2008年04月20日)の文で「ぜんぜんないです」とするなら、もちろん(2008.01.07 22:00)コメントの「発言意図」としても、謝罪するよう説得を(直接的、間接的に関わらず)「要求していない」といわなければ、整合性がとれません。
by エディ at 2008-06-13 15:37:13
Re:人を切り離さないことによるメリットを知りたい
>ぐら虫 さん
>>たんぽぽさんへ
>はあったと確定させてもらいます。
こういうのは余所様のblogでなく、たんぽぽさんのblogで書かれた方がよいのでは?