むしろ人文系の話題として
atom11の掲示板の方で、「1/4の奇跡~本当のことだから~」を学校で上映するのは問題ではないか、という意見が投稿された([26184]あたり)。石川県の養護学校職員の山元加津子氏の考えや活動の紹介ということだが、主張の論理が、
・世の中は全て、大きな力、村上和雄氏の言う、サムシンググレートで繋がっている。だから学校の子どもたちの絵や粘土作品と、ペルーの遺跡は似ているのだ。
・ペルーの不思議な土木作業は、遠い山から切り出した石を、今のようなインターネットでの情報のやりとりと同じような仕組みで送って貼り付けたのだ。だから、絵も簡単に拡大して張り付けることが出来る。だからナスカの地上絵もそうやって描かれたのだ。
・障害者である学校の子どもたちは、そういった大きな力から受ける回路が広いのだ。
と、むしろトンデモの領域に突入しつつある。論理性とも合理性とも無縁の壮大な連想ゲームに、人として望ましい内容が抱き合わせになっている。やっている人達は善意だし、障害者が登場するので、批判をすると、反発される可能性が高いのでなかなか難しい。
それでもいくつか問題だと思うことを書いておく。
村上和雄の「サムシンググレート」を持ち出す考え方は単なる思考停止だし、ペルーの遺跡と似ていることの価値がどうなんだという部分も抜け落ちているから、何か言っているようでいて、話の中身が全くない。
また、障害者である子供達を大事にしたいと思うあまりか、障害者の子供達が特別な能力を持っているということにしてしまい、だから障害者は大切にしなければならない、という持って行き方をするのは、やはり問題がある。障害者がそのような特別な能力を持っているという客観的証拠は無いから、そこが否定されると、「大切にしなければならない」の部分にまで影響が及んでしまう。山元氏は善意でやっているのだろうけど、弊害に気付いていないのではないか。
では、障害者に特別な能力があると考えないと障害者を大切にできないのかというと、そんなことはないはずである。障害者かどうかとは関係なく、人間の尊厳性というものはあらゆる人に付与されており、これを実効性のあるものにするために人権を保障するということになる。人権の保障の具体的な方法なり内容なりを決めるときに、障害故に不自由になっている部分をうまく補って、結果として人間の尊厳性が等しく実現するようにしよう、と考えておけば足りるのではないか。
障害者に対して安易に特別な能力を設定するということは、非科学・非合理であるというだけではなく、同時に倫理や哲学といった面の脆弱さを意味しているように思う。しかし、こちらについては、私も法学の基礎あたりを学び始めたばかりで、自分で論を立てることができるほどの知識も力もない。人文系の人に助けていただきたい部分である。
なお、私達がタブーとして意識的に避けなければならないことの一つは、人の優劣や価値が科学によって決められるという発想をすることである。科学的に測定可能な能力を人の価値や存在意義と結びつけることには、可能な限り敏感であるべきだろう。人の優劣に科学的根拠があるという発想の行き着いた先がホロコーストだったという苦い経験があるわけで……。もっと積極的な言い方をするなら、世の中には、科学を適用してはいけないものがある、ということである。
人間の尊厳や人の価値というものは、科学とは無関係に、別の思想の枠組みを使ってきっちり立ち上げておかないと、危なくて仕方がない。スピリチュアル系が安易に科学っぽいものを取り入れることに対して私が持っている警戒心は、どうもこのあたりにありそうである。
【追記】
「障碍者」が正しい表記ではないかと思ったのだが、引用部分に合わせてここでは「障害者」とした。
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