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発言の責任は発言者個人が負うべき

Posted on 6月 21st, 2008 in 倉庫 by apj

 改めてエントリーを上げておく。事象の地平線でも書いた、瀬尾准教授問題の続きである。
 あの騒動の時、私は、教員の発言は教員個人が負うべき、まして学外blogの内容について大学にクレームを付けるのは見当外れだ、という主張をした。この主張は今も変わっていない。
 たまたま大学が舞台であったから教員個人の発言云々と書いたが、より一般的には、「個人の発言についてのクレームをその個人の勤務先に言うのは見当外れ」ということを共通認識にしない限り、言論と表現の自由は現実に確保できない(∵コストが上がりすぎるから)というのが私の主張である。安易に情緒に流されて、気に入らない発言のクレームを組織に対して付けることを正当化している人達は、実は、自分で自分の表現の範囲を狭めていることを、もっと自覚すべきである。

 神戸の裁判に関連して、専用掲示板悪マニ会議室で、金属材料の専門家としていろいろ議論してくださっているmimonさんという方がいる。相手方の製品のマグローブの材料について疑問があり、耐久試験をしてから販売すべきだという意見等を述べておられた(この投稿で始まるツリー内に発言がある)。当然、訴訟の相手方の吉岡氏に取っては気に障る内容である。吉岡氏側からは、耐久試験をどのように行ったかということは全く出てきておらず、外見上は、耐久試験をせずに商品を販売しているように見えている。
 最近、こんな内容が投稿された

>>私の立場からすると、このマグローブ?がまともな会社ではないことを主張して、
>>人事とのいざこざを避ける必要があります。
>>そうでないと、騒ぎを起こしたというだけで、定年まで平社員のままということもありえるのです。
>今回の相手主張の嘘(誇張?)、マルチやダイポール、変な本の件で十分だと思いますけどね。
私宛ではなく、会社の人事部長宛に手紙を書くという、最低なことをしでかしてくれましたので、
マグローブ社にも、少し頭を冷やしてほしく、
お上のお墨付きがあればいいのにと、期待しています。

 mimonさんは、blogも開設して、同様の主張を述べているが、もちろんプロバイダが提供するblogサービスを利用した私的なものであり、今回はたまたま開設者の勤務先がわかっていたというだけに過ぎない。
 まあ、吉岡氏のサイトを見れば、大抵の人は「他人への中傷がてんこ盛り」「科学的にも間違いが多い」という判断ができるはずである。ただ、組織の側で何かを決定する立場にある人がバカだった場合には「面倒事さえ避ければよい」という判断をするかもしれない。もちろん、まともなことを言って、不当な処分をされたのであれば、とことん争えば撤回も名誉の回復も可能ではあろう。しかし、その争いを最後までやり抜くには膨大なコストがかかる。

 私は、瀬尾准教授の主張の多くに同意しないし、ろくでもない内容がたくさん含まれていたという判断をしている。それでもなお、所属組織にクレームを付けた人達に理を認めるわけにはいかない。あのとき電凸した人達は、多分道徳的に正しいことをしたと無邪気に思っているのだろう。
 しかし、一般に、所属組織にクレームを付ける側は「道徳的に正しいと思うから」や「正論が商売の邪魔だから」という区別などなく、「所属組織にクレームをつけたら有効であった」という結果を利用したいからやっている。もし、吉岡氏が「他人の商売の邪魔をする発言は道徳的にも倫理的にも悪」と心底思ってクレームをつけたのだとしたら、瀬尾准教授の件で「道徳的に悪だからクレームをつけた」と思っている人達と、一体どんな質的な違いがあるのだろう。何を道徳的に悪とするかというのは立場によって違ってくるし、旧blogでも指摘があったように、公共の福祉は少数派を排除しないから、どんなヒドイ内容でも読みたいという人の権利は保障されるべきだという話になる。

 個人の発言内容について、所属組織にクレームをつけるということがまかり通るようになったら、まともな内容の発言をするコストまで上がりすぎる場合が出てくるからまずいのである。

むしろ人文系の話題として

Posted on 6月 21st, 2008 in 倉庫 by apj

 atom11の掲示板の方で、「1/4の奇跡~本当のことだから~」を学校で上映するのは問題ではないか、という意見が投稿された([26184]あたり)。石川県の養護学校職員の山元加津子氏の考えや活動の紹介ということだが、主張の論理が、

・世の中は全て、大きな力、村上和雄氏の言う、サムシンググレートで繋がっている。だから学校の子どもたちの絵や粘土作品と、ペルーの遺跡は似ているのだ。
・ペルーの不思議な土木作業は、遠い山から切り出した石を、今のようなインターネットでの情報のやりとりと同じような仕組みで送って貼り付けたのだ。だから、絵も簡単に拡大して張り付けることが出来る。だからナスカの地上絵もそうやって描かれたのだ。
・障害者である学校の子どもたちは、そういった大きな力から受ける回路が広いのだ。

 と、むしろトンデモの領域に突入しつつある。論理性とも合理性とも無縁の壮大な連想ゲームに、人として望ましい内容が抱き合わせになっている。やっている人達は善意だし、障害者が登場するので、批判をすると、反発される可能性が高いのでなかなか難しい。
 それでもいくつか問題だと思うことを書いておく。
 村上和雄の「サムシンググレート」を持ち出す考え方は単なる思考停止だし、ペルーの遺跡と似ていることの価値がどうなんだという部分も抜け落ちているから、何か言っているようでいて、話の中身が全くない。
 また、障害者である子供達を大事にしたいと思うあまりか、障害者の子供達が特別な能力を持っているということにしてしまい、だから障害者は大切にしなければならない、という持って行き方をするのは、やはり問題がある。障害者がそのような特別な能力を持っているという客観的証拠は無いから、そこが否定されると、「大切にしなければならない」の部分にまで影響が及んでしまう。山元氏は善意でやっているのだろうけど、弊害に気付いていないのではないか。
 では、障害者に特別な能力があると考えないと障害者を大切にできないのかというと、そんなことはないはずである。障害者かどうかとは関係なく、人間の尊厳性というものはあらゆる人に付与されており、これを実効性のあるものにするために人権を保障するということになる。人権の保障の具体的な方法なり内容なりを決めるときに、障害故に不自由になっている部分をうまく補って、結果として人間の尊厳性が等しく実現するようにしよう、と考えておけば足りるのではないか。
 障害者に対して安易に特別な能力を設定するということは、非科学・非合理であるというだけではなく、同時に倫理や哲学といった面の脆弱さを意味しているように思う。しかし、こちらについては、私も法学の基礎あたりを学び始めたばかりで、自分で論を立てることができるほどの知識も力もない。人文系の人に助けていただきたい部分である。

 なお、私達がタブーとして意識的に避けなければならないことの一つは、人の優劣や価値が科学によって決められるという発想をすることである。科学的に測定可能な能力を人の価値や存在意義と結びつけることには、可能な限り敏感であるべきだろう。人の優劣に科学的根拠があるという発想の行き着いた先がホロコーストだったという苦い経験があるわけで……。もっと積極的な言い方をするなら、世の中には、科学を適用してはいけないものがある、ということである。
 人間の尊厳や人の価値というものは、科学とは無関係に、別の思想の枠組みを使ってきっちり立ち上げておかないと、危なくて仕方がない。スピリチュアル系が安易に科学っぽいものを取り入れることに対して私が持っている警戒心は、どうもこのあたりにありそうである。

【追記】
「障碍者」が正しい表記ではないかと思ったのだが、引用部分に合わせてここでは「障害者」とした。