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量子力学無しではどうにもならない

Posted on 8月 7th, 2008 in 未分類 by apj

 直前のエントリーで言及した、「痛いことを惜しげもなくさらすブログ」の、「ニセ科学(ry (2)」に、さらに言及しておく。

ご存じないようでしたら、今ドンデモ科学系で批判されているのは、量子力学の議論に起因する、今までの科学的態度それ自体に対するアンチテーゼだと思いますので、いくつか書籍をあたられることをお勧めいたします。

科学的に間違っているのを正せばよいとか、科学的理想とのギャップを埋めればよいのではなく、科学的態度そのものが間違っていたという議論です。

つまり、今までの科学こそがニセ科学であったという話。

謙虚さが足りないと申し上げたのは、その論点です。

 量子力学は別にニセ科学でもないし、科学的態度を云々される代物でもない。
 身近なところからの例ということで、量子力学無しでは化学結合が起きる理由を説明できないのだということを指摘しておく。
 随分前から高校進学率は9割を超えていて、高校では理科の一部は必修なので、今現役で活動している国民の殆どが学校で化学の一部を一度は学んでいるはずである。「物質が原子からできている」を知らない人はまず居ないし、「身の回りの物質はいろんな種類の原子がくっついた(結合した)ものでできている」も、ほとんどの人が知っているだろう。
 しかし、「なぜ、原子がお互いくっついて離れなくなるのか」の説明は、量子力学無しには不可能であった。実際、大学で私は学生達に向かって、「受験勉強でも大学に入ってからも、化学反応についてはさんざんやってきたが、何と何がこう結合する、という話ばっかりだった。ここにきてやっと、なぜ化学結合が可能かについて(生まれて初めて)勉強することになる」と説明している。なお、この講義内容は物理化学の続編で、水素原子の波動関数を求めた後、水素分子イオンや水素分子についての計算をしている。

 以前にも書いたが、科学に対する問いの立て方は2通りある。法則がなぜその形なのかというWhyを問うと、形而上学になってしまう。観測できる量の間の関係というHowを問うなら、そのおそれはない。Howの方は精度が年々良くなって、たまに法則の形の方が変わったりもするが、Whyだけを考えていたって得るものは少ないのではないか。というか、Whyの方を考えて先に進むことが可能になるとしたら、イヤというほどHowをどう記述するかについてやってみた後ではないのかと。

 今までの科学がニセ科学だというのなら、まずは、どうして水素原子が2つくっついて水素分子になるのかを、きちんと説明して見せて欲しい。お薦めの「態度」でそのことが可能になるのなら私だって知りたい。それすらできないままに態度の方を問題にするならば、その方がよほど傲慢であろう。

詐欺の被害者だって気付くまでは幸せ

Posted on 8月 7th, 2008 in 未分類 by apj

 ニセ科学論議の違和感概要を読んで。

特に「まともな学者であれば云々」といったようなコメントがいくつか見られたりしたので、単純に激しく上から目線で不快に感じました。

 「まともな学者ではない」と言われるケースは大体次の2通り。
(1)大学や研究所に職を得ているが、自身が研究論文として積み重ねたものでもなく、他の誰かによって既に積み重ねられたものからも逸脱した内容を、啓蒙書を書いたりマスコミに登場するといった方法で、もっともらしく述べた場合。一応は職を得ているだけあって、別の分野ではまともな学者をしている場合もある。
(2)局地的(?)に「先生」と呼ばれ、場合によっては講演などをする立場ではあるが、学位が学位商法によるものであったり、著書(多くはインチキ健康本など)はあるが論文は無かったり、研究らしいことをしている実態が全く無い場合。

 上から目線ではなく、端的に事実を指摘しただけである。

それでも議論の前提として、2つの観点から鑑みてちょっと科学的態度の正当性の主張が、大変失礼ながら傲慢に感じられてしまいました。 ・人間が技術的に実施しうる認知の限界に対する謙虚さ ・不完全性定理と不確定性原理の観点から導かれるべき謙虚さ
もちろんそれを皆さん踏まえていると思うのですが、そうであればどうしてある意味不遜にも「まともな研究者であれば」という言葉遣いで、科学的態度の正しさを主張できるのか、ちょっと不思議に感じてしまいます。

 検証済みでないことについて、「検証済みである」かのように装うのは、科学としてはニセであるし、そのようなことはまともな研究者ならしないのが普通だから。つまり、「まともな研究者」の定義の中には、「はっきりしない話を一般の人の前で宣伝したりしない」というものがあり、これがかなり共通の認識となっているから。

科学的態度とは、たぶん「正しい」ということを見つけ出すために推奨される方法論だと私は思っているのですが、そこの認識は間違ってないでしょうか?そうだとすると、一方で「正しい」ということが、生き物としての人間にどれだけの効用があるかということが、人間としての私にとって非常に興味があるところです。要するに、「科学的態度を訓練して身につけると、人間として幸せになれるの?」ってことは、科学的態度を広く啓蒙していく上で重要だと思うんですが、そのあたりについては最近はどういう議論になってるんでしょうか?

 例えば、ある魚を食べたら具合が悪くなったとしよう。科学的態度によらずにこのことから体験談的教訓を得るならば、「その魚は今後は食べない」という結論になる。科学的態度をとるならば、例えば、(1)魚に毒があるのか、(2)調理法が悪かったのか、(3)魚が古かったのか、(4)具合が悪くなったのはその魚とは無関係の原因なのか、を突き止めることになる。(1)であるならば、さらに原因を調べ、その魚のうち食べられる部分とそうでない部分を分けて、安全な食べ方を見つけることができるかもしれない。魚の毒が、魚がエサにしている別の何かに由来するとわかったら、同じものをエサにしている別の魚を食べる時は、その前に十分調べることになるだろう。これによって危険を避けることができる(2)であれば、十分火を通すといった対策で、安全に食べることができるだろう。(3)であるなら、古くなったものは食べない、という経験を積むことになる。また、古くなるのを遅らせて保存することを考えるようになるだろう。(4)であれば、今後もこれまで通りその魚を食べても良いことになる。
 科学的態度をとった方が、より選択の幅が広がるし、食べて大丈夫なものを却下してしまう可能性も減る。人間として、どちらがより楽しいことになるかは、明らかではないか。

むしろ最近「ニセ科学」とはてなでは喝破されているような本が売れて=日本社会では効用が高くて、何らかの「人間的幸福」に事実として寄与しているように見えるのですが、そのあたりについてはいかがでしょうか?

 楽して痩せられるとか、音楽を聴かせるだけで簡単に作物や醸造製品の品質が良くなるといった言説のことだろうか。だとすると、「ステキに欺されている間は幸せ」としか言いようがない。マルチの被害者だって、欺されている間は、「この製品を売れば、社会にも貢献できる上、儲けもどんどん増える」というバラ色の未来を信じているものだ。自分がカモであり、負債しか残らないことに気付くまでの間は。 「人間的幸福」が持続するタイムスケールを考慮すべきだろう。まあ、一生欺されたままで幸せならいいという人には、かける言葉が見つからないが。

それに対して、ニセ科学批判は「科学的正しさ」こそが真・善・美であるっ!と主張しているのはわかるのですが、「だからそれで幸せになれるの?」ってところが見えないのがなんかちょっと、という違和感があるのです。

 科学的正しさを、「真・善・美」と結びつけている人を見かけたことはない。また、「真」「善」「美」は全く別の概念であり、価値判断の基準であるので、ひとくくりにするのは間違いだろう。科学的正しさが結びつくとしたら「真」だけで、道徳的な意味での「善」も、芸術的な意味での「美」も無関係である。また、「善」と「美」が無関係だからこそ、道徳では、「人を見かけで判断するな」と教えている。

返品

Posted on 8月 7th, 2008 in 未分類 by apj

 今日の話題として、先日amazon.comで注文して届いた、NUMERICAL RECIPES 3rd editionについて書こうと思った。本のページをめくってみたら……なんか最初の方で、妙に白紙が多い。きちんと確認したら、8ページばかり何も印刷されていないページが入っていた。どう見ても印刷ミスなので、amazon.comのヘルプメニューをたどって、交換申し込みをした。バーコードが割り振られるので、書類を印刷して中に入れ、バーコード付きのラベルを貼り付けて、郵便局に持っていった。
 古本を買ってとんでもない状態だったことが1回だけあったが、新品を買って印刷ミスに遭遇したのは今回が初めてである。