コミュニケーションのとり方を変えるつもりはないので戦おう
いくつか、参考になるエントリーをたどったのでメモ。
どうも、最近(ってか小学校以来、程度の差はあれ戦闘継続中だからそうそう最近でもないか)、剥き出しの個を立ち上げるために戦っている最中で、周りを焼け野原にしても戦った方が最終的にはいい結果になりそうな気がますますしてきたもんで……。
[スクールカースト][いじめ][コミュニケーション]閉鎖空間かつコミュニケーションの重要性が高い場所で、いじめは発生する
結論からいえば、いじめを無くすためには、クラスメイトとコミュニケーションを取れなくすれば良いんですよ、極端な話。閉鎖空間かつコミュニケーションの重要性が高い場所で、いじめは発生するので。
たとえば主婦の近所付き合いの世界では、陰湿ないじめが起きやすいとよく言われるけど、これも「コミュニティの閉鎖性」と「コミュニケーションの重要性」が共に高い空間であることが理由。コミュニケーションの重要性が低かったら、そもそも無視等の「コミュニケーション操作系」のいじめって、意味を持たないし。(中略)
いじめは、コミュニケーションの暗黒面そのものなので、コミュニケーションの重要性が下がるほど、いじめの危険性も下がる。極論をいえば、お互いにコミュニケーションをまったく取らなければ、いじめは絶対に発生しない。
「コミュニケーションしない自由」ってのを積極的かつ意識的にに認めてはどうか。人はいろんな集団に属するのだから、その集団のうちのどれかは密なコミュニケーションをとるけど別の集団ではコミュニケーションの重要度を下げるということがあっても良い。密なコミュニケーションをとる場所が学校や職場であるとする必要はどこにもないわけで、別のコミュニティで密にやって、学校や職場では密じゃない方向で、ってのも有りだろう。
[映画]閉鎖空間かつコミュニケーションの重要性が高い場所で、やおいは発生する
『御法度』の舞台は新選組、『戦場のメリークリスマス』は捕虜収容所なんですね。両方軍隊。実社会に比べると非常に閉鎖的。コミュニケーションの重要性が高い空間になっている。ここでコミュニケーションの重要性というのは、幹部のお気に入りになったほうが良い目が見られる、とか、仲間同士の連帯を強くなり組織を磐石になるということだ思います。逆に考えれば、そこに普通と異なるコミュニケーションを用いる存在が放り込まれると、連帯が弱まるということになりますね。最悪、集団は個に解体する。集団を維持したい、と思う者は、普通と異なるコミュニケーションを取ろうとするものを排除しようとする。(当然、それはいじめと呼ばれるものであって、そういった場面は両作品に何度も描かれる)
(中略)
集団を維持しようとするなら、異物は排除しなければならない。集団を解体したいなら、垣根を飛び越えたコミュニケーションをしなくてはならない。 どちらでもないなら、どうすればいいのか。どちらでもないってどういうことだろう?
というかむしろ拡声器と呼ばれることを目指した方が良いのかも。10年ほど前に、職場で実際にそういうあだ名をもらった女性を知ってます。その方は、やられたことを所構わず吹聴するから、結局誰もいじめのターゲットにできなかったという……。情報を閉じ込めておけると思うからいじめができると勘違いするわけで、やった瞬間全世界に晒されるとなると、やる方も考えるはず。この点からは、blogも2ちゃんねるも武器になる。3年ほど前に、私立大学の先生と話をしていたら、学生に説教したら30分以内に内容が2ちゃんねるに書かれるという話が出て、なかなか面白いと思った。
それはともかく、制度としての集団を一定の規則で維持するというのなら、技術的な話だから規則通りにやればいいだけのことだけど、趣味で集団を維持したいという人に付き合う義理なんかないわな。しくみとして集団を作ったということと、そのしくみに乗っかってより濃密なコミュニケーション空間を実装するということは別の話だし。
[ソーシャル・キャピタル][社会]ソーシャル・キャピタル論からみた「いじめ問題」
密なコミュニティ(ネットワーク)の良さは、暗黙知・規範の形成。全く知らない人と作業をするとき一々打ち合わせをしなければなりません。しかし密なコミュニティ内の人との作業であれば、既に暗黙知・規範が形成されており、スムーズに作業を進めることができるでしょう。いわゆる阿吽の呼吸です。
しかしながら密なコミュニティはダークサイドに陥りやすいのです。新規者を拒んだり、外の情報を受け入れず、コミュニティ内での序列化がされてしまいます。規範が実態にそぐわない悪いものだったとしても、それに逆らうとコミュニティを壊すものとして白い目でみられてしまうのです。コミュニティのルールに逆らいづらい空気ができてしまうのですね。
そしてそのようなルールに違反してしまったものがいじめに会ってしまうのではないでしょうか。一つのコミュニティにしか参加していない人にとって、そこから外れることは恐ろしいことです。外れたら孤独に陥ってしまうからです。だからこそおかしな規範であっても、無理して守ってしまう。そしてそれを侵した人には、徹底的に攻撃を加えることで自分のコミュニティへの所属をコミュニティの人々に再確認してもらうわけですね。
阿吽の呼吸の押しつけは暴力、と大声上げて主張してみるとか。
コミュニティの流動性と学校環境におけるいじめ問題:集団活動の本来の目的からの逸脱と優越欲求
みんなが気持ちよく働ける(勉強できる)環境が整っていなかったり、集団成員の目的意識やパーソナリティのばらつきが大き過ぎたり、無理やりに帰属させられているような集団成員(いやいや働いて不満を溜め込んでいる成員)の比率が大きかったりする場合には、いじめの発生リスクは高くなると思います。その大きな理由の一つとしては、『集団本来の目的(仕事・勉強)』に強いモチベーションが持てなくなっている個人・グループが、集団本来の目的とは無関係な『対人コミュニケーションを通した階層的な上下関係(自分たちの優位性)』を確認する示威行動に走るからではないかということが推測されます。
進学校や優良企業においていじめが少ないというのが事実であると仮定すれば、集団内の自分の役割・評価を抵抗なく受け容れていること(現状の自己アイデンティティに不満が少ないこと)と自分がやるべき『本来の目的(本務)』である勉学や仕事に専念しているからではないかと考えることができます。勉強・仕事など本業における優劣関係を競い合ったり目的達成のために協力し合うというのが集団活動の一側面ですが、本来の目的にモチベーションを持てない集団成員が増えてくると、『攻撃的・排除的コミュニケーションによる優越感(端的には嫌がらせ・過度の干渉)』のほうに重点が置かれるようになり、その逸脱の度合いが大きくなるといじめやパワーハラスメントなどの問題に発展してくることになります。
要するに暇ってことか。小人閑居して不善を為す、って昔から言うし。
[心理]「成熟」という名の妥協の正当化と、ネットみのもんたの「抑圧移譲」
人々の「妥協」は、社会が成り立っていく上で不可欠な要素。それに「成熟」という呼び名を与えることで正当化を図ることは、社会にとって必要なシステムなのだろう。
しかし、いくら社会から正当化されたとしても、個人に「妥協」の「痛み」は残る。そしてその「痛み」は時として、「成熟を拒否する者」への嫉妬や暴力、説教といった形で現れる。「俺が苦しんだのだから、同じようにお前も苦しめ」というわけだ。
こうした説教を通じ、「成熟した人間」は自らの正当性を確認し、優越感を得る。そして多くの場合、社会から「成熟」という名の正当性を与えられている本人は、それが嫉妬であることに気付かず、「正義」だと思い込んでいる。こうした心理メカニズムを、「抑圧移譲」と呼ぶ。
妥協のエンドポイントが違うもの同志だと、最後まで争う以外に方法は無いし、せいぜい非武装地帯を間において接触を減らすくらいしか解決策は無さそうな。
最初に紹介したエントリーへの異議。コミュニケーションなくともイジメは起きる
明らかに間違いなり。
その代表例が「ホームレス狩り」なり。
ホームレスが寝たる段ボールハウスに火を付けたる行為の前提にコミュニケーションなどあるはずなし。
少し考えば分からむものなり。
黙示のコミュニケーション(いや、コミュニケーションの意味に反する修飾語であることは承知の上で)まで考えると、最初に紹介したエントリーの枠組みに入る話じゃないかと思ったり。存在が気に入らないというのは、その人の「こうあるべきだ」から外れているから気に入らないのだろうし、この例ではその人に「こうあるべきだ」を押しつけたのはホームレスじゃない別の人達なんだろうけど、押しつけられた側が押しつけの範囲にホームレスも含まれると勘違いしたら、排除に走る可能性はあるんじゃないかと。
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