尋ねられたんで答えてみる
わかった気がする……なぜ疑似科学批判の連中にイラッとするのか……に言及。
「鰯の頭も信心から」という諺である。
プラシーボ効果を許さないのか、と言い換えても良い。
実際に信心を持って、偽薬を薬と成した人に、
それは「薬ではない」と宣言して、その効果を打ち消すことが
果たして本当に正義なのだろうか?
疑似科学は、本当に悲劇しか齎さないのであろうか?
その人個人が治ったのはそれでいいけど、他人に対して「信心で偽薬を薬と為しましょう」と誘うのはまずい。信心の仕方というか強さは人それぞれだし、偽薬で済む状態の人もいれば、信心+偽薬ではどうにもならない、それどころかできるだけ早く医者の手当てを受けないといけない人だっている。その人が偽薬を信じているなら、それは内心の問題にとどめておくべきである。誰かに向かってそのことを言えば、それに影響を受ける人が出る可能性があるから、その話はまずいよ、と言わなければならなくなる。
今、批判されている人達は、blogに書いたとか、新聞や雑誌などのメディアに登場したとか、水伝のように他人に向かって授業をしたとか、少なくとも、「外から見てわかる」形で「ニセ科学を広める」行為をしている。
逆にききたいのだけど、信心で偽薬を薬と為し、かつ、その信心を内心のみにとどめている人に対して、批判が行われると本気で思ってるのかなぁ。第三者から認識されない信じ方であれば、批判の対象にはならないはずなんだけど。
マイナスイオンのドライヤーを買って、髪の毛がサラサラになって少しかわいくなった気がする、勇気を出して家から出てあの人をデートに誘ってみよう!とキラキラした目をしている女性に向かって「いや、それ錯覚ですから! あなた不細工のままですから! 残念!」
と一刀両断することは本当に絶対的な正義なのか?
「マイナスイオンは無関係の可能性が高いけど、髪の毛がさらさらになったのなら、いいドライヤーなんだね。良い買い物をしたね。行ってらっしゃい」
また、例えば、飲み会の席などで気になる異性に話しかけたいとしよう。うわべの会話でなく、相手の性格をもっと知りたい。そんな時に会話の端緒として「血液型、何型?」と訊くのは、これだけ血液型に対するコンセンサスがある日本では、実際にかなり有用なことである。
「○○ちゃん、何型? そうなんだ、××な性格って言われない?」
「えー、うち、そんなことあらへんよう……けっこう、落ち込みやすい性格やと思ってるんやけど……」(ぼくが萌えるので便宜的に関西弁風女子とさせて頂いた。意味はない)
そこからフォローするなりアドバイスするなり裸で向き合い本当の性格をキャストオフさせてあげるなりワンナイトカーニバルを決めるなりはあなたの腕の見せ所だ。
少なくとも「血液型何型?」と訊かれて「そんなのは疑似科学なんだ。それよりアインシュタインがどうやってブラウン運動からアボガドロ定数を求めたか知ってる?」と返すよりは仲良くなれるだろう。
私は女だけど、で、飲み屋で口説かれる可能性はまずないけど、男性から「血液型、何型?」と訊かれたら、コイツ大丈夫かいな、と思うだけだが。まあ、これだけ血液型に対するコンセンサスがあるし、その場で喧嘩をするのも大人げないと思ったら、「社会性」の範囲で適当に合わせるだろうが……。
「嘘も方便」こういう諺もある。
差別に使われるかもしれない。でも人を救うこともあるかもしれない。実際、血液型云々は、会話の潤滑剤として現代の社会ではまだ充分に有益なものなのである。
それ、血液型が原因で会社に採用されなかった人の前で口に出せるの?現実に差別されている人の前で「社会ではまだ充分に有益」などと主張するなら、科学云々以前に、人間性を疑う。
「嘘も方便」の意味を激しく間違ってるのでは。
普通の人はまず「言葉」から理解しようとする。
人を説得するなら説得するなりの、言葉や態度というものがあるのだ。
で、血液型で差別された人が「社会ではまだ充分に有益」で納得するか?私には、「おまえが言うな」としかコメントのしようがない。
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