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想定しているユーザーが違う

Posted on 1月 20th, 2009 in 倉庫 by apj

 chnpkさんの「「ニセ科学」と「ニセ科学批判」と「ニセ科学批判批判」について」を読んだ。
 「ニセ科学批判批判」と、私が実際にやってきた(今も進行中の)「ニセ科学批判」がかみ合わない理由として、批判批判側が藁人形を攻撃しているからではないかと思っていたのだが、ずれの中身が少しはっきりそうなので言及しておく。

 chnpkさんの指摘は次の通り。

「ニセ科学批判」と「ニセ科学批判のユーザー」ところで、ここまでの考察ですでに、<ニセ科学批判のユーザー>と<ニセ科学批判者>とを区別することは可能に思われる。ニセ科学批判のユーザーとは即ち、上述した「科学についてまったく無知であり無理解のまま、「ニセ科学批判」という枠組みのもとで、科学的な気分を満喫する」人々のことだ。一方で「ニセ科学」批判者とは、「ニセ科学批判」の枠組みを設けた人々、素人でも「ニセ科学」を批判することができるようなまさにその枠組みをこしらえた人々である。「ニセ科学批判のユーザー」に限った話であれば、その動機を想像することはたやすい。「ニセ科学批判」の尻馬に乗っかることで、知的な気分を味わうことが出来るからだ。

「ニセ科学批判」のユーザーは、「ニセ科学批判」を消費する。資本主義における消費は、労働者という被支配者層における決して満たされない支配欲を、貨幣の支払いによる財やサービスの獲得という形式で、お手軽に実現する。財やサービスの獲得はお手軽な支配であり、貨幣の活用は経済システムからの疎外感から人間を解放する。はてなブックマークのボンクラどもがネガコメの対象にリンクを提供しながらスターをもらってニヤついているのも一緒だ。同様に、「ニセ科学批判」のユーザーは、簡単なインターネット検索で入手した「ニセ科学批判」の枠組みに乗じて啓蒙活動に参加することで、つかの間の優越意識と科学による支配を脱したかのような錯覚を得る。これらはまったく同じだ。つまり「ニセ科学批判」の消費のレトリックと言える。

 この指摘が、「ニセ科学批判」と「ニセ科学批判批判」のある面を捉えているのだとしたら、そういう批判批判の人が何を言っても、私の主張とはかみ合わない。私のニセ科学批判のユーザーとして私が想定しているのは、「「ニセ科学批判」の尻馬に乗っかることで、知的な気分を味わうことが出来る」人ではなくて「ニセ科学によって現実の被害を受けている人」だからだ。例えば、ニセ科学宣伝に騙されて悪徳商法の被害者になりつつある人は、想定したユーザーの一部である。
 ニセ科学批判のユーザーが「現実の被害を受けている人」であるならば、ニセ科学批判をやった結果敵対することになるのは「ニセ科学のユーザーであることによって利益を得ている人」ということになる。だから、営業妨害だというクレームが来るのは想定の範囲内のことである。批判をする活動を維持するには、最終的には訴訟で勝てば良いのだから、訴訟で負けない範囲で批判を書く、ということを考えてきた。去年あたりから現実の訴訟をやって、誰かの利益に反するニセ科学批判をやってもそれなりに大丈夫だということを示すことを試みている。
 「素人でも「ニセ科学」を批判することができるようなまさにその枠組みをこしらえた人々」とあるが、その中に私が入るとは考えていない。誰かの利益に直結する批判は、迂闊にやれば、訴えられて負けるという形で足を掬われるからである。裁判所で主張を通すためには、個別の事例に即した徹底的にベタな批判でないと難しいし、批判の内容を支える根拠や批判のあり方が不法行為ではないことを裁判官に納得させられる状態を保っておかなければならない。枠組みをこしらえたから批判をどうぞ、というのはあまりに無責任である。
 私が敵対する相手として想定しているのは「私の批判で不利益を受ける人」なので、「ニセ科学批判批判」の人達に対しては「で、あなたの不利益は一体何?」と訊くしかなく、この問いに対して明確な答えが無いならば、「現実の被害を防ぐ活動を単なるお前の趣味で邪魔をするな」としか言いようがない。

 ニセ科学が根絶できると思ったことはない。簡単に結果が得られることを期待する傾向を、弁護士の紀藤正紀は「インスタント指向」と名付けた。ニセ科学の多くは、現実のややこしいことから目を逸らさせ、結果が簡単に得られると煽るために使われている。これは、楽して結果を得たいという欲求と合致する。「インスタント指向」という、受け取る側の心情が、ニセ科学を受け入れやすくしている面があるともいえるので、そう簡単にニセ科学は根絶できないだろう。ニセ科学を根絶せよというのは、楽して結果を得たいという心情を捨て去れということに重なってくるからだ。「そんな都合の良い方法はありませんがそれが何か?」と身も蓋もない現実を提示する科学は人を甘やかしてはくれないので、ウケは悪いはずである。
 現実問題として、ニセ科学よりはよっぽど理屈の単純なオレオレ詐欺ですら、警察や銀行が頑張って啓蒙活動をしたり取り締まったりしても、根絶できていない。心情の部分を突いて騙す行為を根絶するのはほぼ不可能だということの証左ではないか。

 もし、「多大な効果を上げるニセ科学批判」なるものがあったとしたら、それはカルトによる洗脳と大差ないものになるだろう。却って危ない。だから「ニセ科学批判批判」側の人に言っておく。「多大な効果が無い」という設定で批判するんじゃなくて「多大な効果がない」から今のところ安全、と見るべきなのだ。

効果を度外視してなお、「ニセ科学批判」という活動に没入するのであれば、そこにはなにか別の動機があるのではないかと勘ぐりたくなるのは自然なことだろう。その別の動機が、「ニセ科学批判批判」の立場からは、「ニセ科学批判者」においては大衆を支配することであり、「ニセ科学批判のユーザー」においては「勝ち誇った自己肯定」の感覚を得ることであるように見えるというわけだ。であれば「ニセ科学批判批判」の動機についてはつまり、次のように言うことができるだろう。本来の動機や目的を隠蔽した、ニセ・ニセ科学批判に向けらる不快感であると。

 こう考えている人が「ニセ科学批判批判」側に居るのだとしたら、随分ケチな考え方をするものだと評価するしかない。そういう人達は、コピペの「ニセ科学批判」を見たどこかの誰かが、現実の被害者にならずに済むかもしれないことは想像もしていない。仮に「勝ち誇った自己肯定」に基づいて書かれた批判であっても、それを読んだことで、現実の悪徳商法の被害者になることを免れる人が一人でも二人でもいれば、その批判には意義がある。不快感で足を引っ張るだけの人よりはよっぽど他人の役に立っているはずだ。

 言論や表現は、そもそもの動機や目的とは違った形で、受け取った人に影響を与えることがある。自己肯定したいのなら、誰かを助けるとか誰かの役に立つということを目指したらどうだろう。優越感云々じゃなくて、お互いに助け合いましょう、で良いと思うのだけど。

【追記】
 楽して結果を得たいという心情には2つの意味がある。1つは、例えば「○○ダイエット」のように、これさえやれば苦しい運動や食餌制限無しにダイエットという結果が得られる、という、ただ単に安易に結果が得られる、というものを受け入れたいという心情。もう1つは、ニセ科学の内容自体がニセ故に単純で、学習の努力なしに解った気持ちになりやすいということ。ニセ科学が、ダイエット法のように目に見える利益とあからさまに結びついていなかったとしても、楽して理解できたという気持ちとは結びついている場合がある。


ここからは旧ブログのコメントです。


by zorori at 2009-01-05 05:11:05
Re:想定しているユーザーが違う

将棋の名人の解説を大衆である私は完全には理解出来ません。ですが、その解説が正しいことは、名人の戦歴やプロ同士での評価から間接的に推測出来ますし、名人を尊敬もします。

ところが、世の中にはイカサマ将棋指というのがいて、相手の目を盗んで盤上の駒を手駒に加えたりするんです。わたしもまんまと引っかかった事が有ります。当然のごとく、イカサマ将棋指は批判されるます。ところが、そんな批判なんかしても、効果が無いというイカサマ将棋指批判批判者もいます。
ヘぼ将棋指の私でもイカサマの手口を教えてもらえばそれは理解出来ます。それが正当な将棋でないこともわかります。そして、それ以後、同種のイカサマには引っかかりにくくなるという効果がありましたし、他の人にその手口を教える事も出来るようになりました。もちろん名人から見れば、私は将棋に関して無知のままであることには変わりはありません。イカサマの手口を一つ知っただけで、将棋的気分を満喫した大衆に過ぎません。

まあ、こういう事が有って、大衆の私はますますプロ将棋士を支持することになるわけですが、プロ将棋士がそのことに優越感を抱いているのかどうかは知りません。別に抱いていてもかまわないとも思います。ただ、イカサマ将棋指批判批判者は有るか無いかわからない優越感が許せないらしいのです。優越感を隠して、イカサマ手口を暴くことに、不快感を感じるのだそうです。

chnpkさんの指摘は、「慢心するな」という戒め程度の意味は有るかと思いますが、随分、ニセ科学批判側にハンディを要求する意見だなと思います。配慮が足りなくて、逆恨みを買うことがあるかもしれないので注意しなさいというのはわかりますけど、逆恨みが正当化されるわけではないですね。

批判批判者というのは批判されているのがイカサマであることは十分承知しているわけです。だけれども、本物とイカサマを良く区別出来ない大衆にプロが区別を教えてあげて優越感に浸っているかもしれないことに不快感を感じるらしいです。圧倒的に優位な立場に立つプロがその不快感まで配慮してあげるというパターナリズムはあり得るかもしれません。しかし、批判批判者が配慮してちょうだいねと要求するのは随分甘えたひがみ根性かと。


by apj at 2009-01-03 11:38:03
いまいち理解できない……

 モノが何であっても、プロが素人より詳しいとか上手だとかいうのは当たり前だから、プロが素人よりも専門についてうまくできたからといって、優越感に浸るなど有り得ないと思うんですけどねぇ……。
 むしろ、素人がプロに勝ったら優越感に浸れるかもしれないけど。

 例えば私が体育の先生より物理を知っていても、そのことで優越感なんか全く持たないです。あまりに当たり前なので優越感なんか持ちようがない。でも、私が体育の先生相手に、競走したり、格闘技の組み手をやったりといったことをして、もし勝ったら優越感を持つか、そこまでいかなくてもかなり嬉しい気持ちになるかもです。


by zorori at 2009-01-46 16:05:46
優越感に浸っているように見てしまうということかな?

他者が成功していたり、仕事を達成して満足している姿という本来は喜ばしい情景をみても、優越感に浸っていると不快感を感じるということかもしれません。

自分の感情を他者に投射することがありますが、優越感に浸りたいという願望ゆえに、他者が優越感を感じているようにみえるのかも。簡単にいうと「ひがみ」ってことでは。


by OCEAN at 2009-01-46 13:54:46
こうゆうの、釣られるって言うんですかね?

chnpkさんの言う「ニセ科学批判のユーザー」って私のことかぁ~?「科学的な気分を満喫」したり「知的な気分を味わ」ったりして何が悪いんじゃ。よーわからんエライ人の引用しまくっとる方にその言葉、百倍にしてお返しするわ。
あのね、気の弱い自信のない、あまり論争みたいなもに慣れてない人が「ニセ科学批判批判」みたいなのを見ちゃうと動揺するんです。「批判批判」の方々が「知的な気分を味わう」のは自由ですが、それがapjさんの想定されている本来の「ニセ科学批判のユーザー」を追い詰めることになるのを自覚しとるんか、おりゃあ!と問いたいです。
なんか議論が難しい方向に行ってるので、アホの子の意見も出してみました。


by apj at 2009-01-01 11:27:01
論争できない立場の人もいる

OCEANさん、
 個人で論争慣れしてなくて、ニセ科学宣伝に反論できなくて、ろくでもないものを買わされるケースというのはあります。私の「批判」は、そういう人達をユーザーとして想定しています。
 また、「怪しいとわかっていても人間関係を考えると論争できない」人も居るんですよ。取引先の社長がニセにはまって商品を薦められる場合とか、自分の意思で断ると「角が立つ」ため商売に差し障る、ということもあります。ニセ科学批判が出ていると、「こんなものが出ているのでちょっと……」と、角を立てずに断ることができたりするんですよ。

 で、まあ、私みたいに大学で教員やら研究者やらをやっている人間は、論争が商売みたいな部分がありますから、自分で論争するといろいろまずくなる人のかわりに論争を提供して、使いたい人に使ってもらうというサービスをする、というので良いのかな、と。

 ニセ科学批判批判の人達は、多分、こういう個別の事例は想定もしてないんじゃないですかね。