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法も条約も無限のサービスの実現を要求してはいない

Posted on 3月 7th, 2009 in 倉庫 by apj

【追記と注意】
 この件についての考察を進めた結果、このエントリーを書いた時とは異なった理解に至ったので、こちらを見て欲しい。

 こちらのblogのトラックバックの受付が、ソフトの不具合か設定ミスなのか、うまくできないようなので、重ねて書いておく。地下に眠るMさんが、児童の権利条約や教育基本法を持ち出してあれこれ言っているけど、議論の精度が悪いと思われるので、少し前提と論点を絞っておく。
 まず、
児童の権利に関する条約
教育基本法(文部科学省のサイト。ここから条文pdfファイルが読める)
が、地下に眠るMさんが主張の根拠としたものである。

 さて、条約の28条には、

第28条1 締約国は、教育についての児童の権利を認めるものとし、この権利を漸進的にかつ機会の平等を基礎として達成するため、特に、
(a) 初等教育を義務的なものとし、すべての者に対して無償のものとする。
(b) 種々の形態の中等教育(一般教育及び職業教育を含む。)の発展を奨励し、すべての児童に対し、これらの中等教育が利用可能であり、かつ、これらを利用する機会が与えられるものとし、例えば、無償教育の導入、必要な場合における財政的援助の提供のような適当な措置をとる。
(c) すべての適当な方法により、能力に応じ、すべての者に対して高等教育を利用する機会が与えられるものとする。
(d) すべての児童に対し、教育及び職業に関する情報及び指導が利用可能であり、かつ、これらを利用する機会が与えられるものとする。
(e) 定期的な登校及び中途退学率の減少を奨励するための措置をとる。

 とある。

 高校の教育を問題にしているので、(b)(【追記】及び (e))について考えればよい。
 日本では、既にかなりの数の、税金の補助で授業料を安くした公立高校が存在する。(b)の前半部分は既に実現している。
 さらに、どの地方自治体も、経済的に進学が困難な人に対する授業料免除を行っており、実際にそれなりの数の利用者が居る。その基準は、例えば、北海道教育委員会の例だと、

生徒の家庭が次のいずれかに該当する場合、授業料や寄宿舎使用料の免除が受けられます。 (1) 災害や火災等に遭い、授業料等の納付が困難になった場合
 (2) 生活保護法による生活保護を受けている場合             
 (3) 生徒の保護者等が、交通事故により死亡又は後遺障害により、授業料等の納付が困難となった場合
 (4) その他特別な理由により、授業料等の納付が困難となった場合

 となっている。おそらく他の地方自治体も、類似の基準で運用しているはずである。これは、(b)の「例えば」以降の部分にあてはまる。
 従って、日本の公立高校の設置数・運営の状況と、金銭的な補助のあり方は、既に4条1項(b)を満たしていると考えられる。

 ところで、地下に眠るMさんが支持しているのは「授業料が払えるのに故意に払わない人にまで、高校生としての身分を保証すべき」ということらしいが、条約4条1項(b)からそこまでは導き出せない。
【追記】
 では、故意に授業料を払わない人に高校生の身分を保障すべきということが、4条1項(e)から導けるかどうかが、次の問題となる。
 貧困を理由に中途で退学しなくても良いように、経済的援助するしくみを作っているのだから、制度的には(e)も満たしていると言える。運用で(e)を満たすとしたら、登校については欠席しがちな生徒の事情を訊いて相談にのるとか、出席日数が卒業要件であることを徹底させるといったものになるだろう。これは、普通の高校ならやっているはずである。中途退学については、学費納入が滞っても直ちに登校を停止したり、除籍にしたりせず、穏当な方法で支払を求めるとか、経済的事情の相談に応じた上で授業料免除について教えるといった対応が考えられる。これも普通の高校ならやっているはずである。運用上考えられるフォローをした上で、なおかつ授業料を支払わない人に対してまで、高校生の身分を保障せよということは、(e)からも読み取ることはできない。
 なお、記事中の校長がやったことは、「授業料の支払が遅れたからさっさと除籍」というのものではなかった。むしろその逆で、最長2年もの滞納があるにも関わらず、在学を認め教育サービスを提供していたことが窺える。そして、一区切りとなる卒業式までには支払ってほしいという意味で、「卒業証書を渡さない」という、規則にない対応でもって支払を求めたのである。むしろ、問題とされた校長の行動は、条約の(e)に沿ったものであったと考えるべきではないだろうか。
 なお、「故意に払わない」という前提の根拠は、この話題のきっかけとなった新聞記事で、授業料を完納しないと卒業証書を出さないとやったところ、65人中64人までが支払ったという記載による。
 校長が規則上とれる手段が「除籍」「登学の停止」であったのに、より穏当なやり方として「卒業証書を渡さない」という規則にないことをしたから、話が捻れてしまった。規則上可能な手段を伝えて授業料の支払いを促すことに問題は無いはずだし、それでも支払わなければ、より穏当な手段から実行してもかまわないはずである。次からは、規則に定められた手段をとる旨の予告と一緒に滞納分の支払を求める方が、役人に突っ込まれなくて済むに違いない。

 こういうトラブルを防ぎたいのであれば「授業料を完納するまで卒業を延期し、一定期間以上支払わなければ除籍とする」ことを校長がとれる手段として明文で入れれば良い。免除の申請を忘れたりためらったりした人への救済策としては、申請があった場合に経済状況もさかのぼって調査し、免除もさかのぼって認めることにすれば良い。

 いずれにしても卒業証書は、しなければならないことを全て終えた人のものである。

 次に、教育基本法について。
 既に示したような補助が存在するという前提で考えると、授業料が払えるのに故意に払わない人にまで高校生としての身分を保証すべき、という結論までは出てこない。

 補助が不十分で、必要な人に十分いきわたっていないということが問題なら、予算の手当と補助の基準を見直せば良い。ただ、これは別の議論である。仮に基準の見直しが行われた後であっても、故意に払わない人に対する対応を何らかの理念に基づいて変えることを考える必要は無いだろう。

 故意に授業料を払わない人まで普通に在学させ卒業させることを正当化したいのなら、高校を義務教育にせよと主張した方が、主張の筋としてはすっきりするように思う。
 税金で途中まで補助しておいて、途中から授業料を滞納したことで除籍にするのは、それまでの補助を無駄にするものだという意見もあるだろう。しかし、行政に要求されているのは、教育の機会の提供及び適切な援助をせよ、ということのみである。その先、途中で援助から外れる人が居るとそれまでに使った税金が無駄になるといった議論は、本筋ではなく別の話である。もし、無駄をなくせということを要求するのなら、「中途退学者はそれまでに受けた補助を返還せよ」という話だって出てくるだろう。返還話を拒否するのなら、義務化せよというしかなくなりそうに思う。

 理念を拡大解釈し、どこまでもサービスを求めるのが当然だとか、それが権利だという発想が、教育の破壊につながるのではないだろうか。

左巻さんblog移転

Posted on 3月 7th, 2009 in 倉庫 by apj

 左巻健男さんがblogをはてなで再開したようです→「左巻健男の今日もガハハ
 doblogが不調なので仕方ないでしょう。相変わらず、doblogは去年の8月までの内容で止まってしまっています。

ソフトランディングさせる方法はあるのだろうか

Posted on 3月 7th, 2009 in 倉庫 by apj

 chem@uさんの「教育における法治と道徳」を読んで。

もっとも、私はすでに「否応もなく子どもたちに回されることになる」ところまで現状が進んでいると認識している、元記事にトラバいただいた、このリンク先では、まだ「現場に背負わせることができる」と考えている、そういったポイントオブノーリターンの判断点の違いと見ると、考え方にそれ程大きな違いはないのかもしれませんが。

教育はどうなるのか。「古きよき時代」を続けることがこの先不可能になるのか、もしなると考えるなら、どういった未来像を描けばいいのか、そういったことを考えています。

私もまだ、ドライに割り切って法的対処のみに進めていくべきなのか、ウェットな関係が継続していけるのか、自らの教育の場での姿勢を切り替えるほどには現状に悲観していませんが、楽観もできないと感じます。学生と築く信頼関係とそれに依存した教育、これは、信頼関係を築けないケースでは脆弱です。どうするのか?、この答えの一つは「ムラ社会型の教育機関への縛り」を排除することですが、信頼関係と両立しえるのかは難しい問題。「地雷」を踏む前には自分なりに決着させなくてはいけないのだけれど。

 chem@uさんはまだ逡巡しておられるようだが、昨年、私は既に「地雷を踏んだ」経験をしてしまった。だから、本当に困窮している人に手を差しのべる方法を盛り込みつつも、ドライに割り切る以外に方法はないだろうという感触を持っている。

 私が踏んだ地雷は、去年、キャンパスハラスメントの加害者にされかかったという件である。私が実際にしたことを、弁護士にも相談したら「あなたの件はこれまできいた話の中で一番何も(ハラスメントの実態が)ない」と言われたのだが。この時の経験で、「提訴の方が教員にとって安全」というエントリーを書いた。ためらわずに教師と学生の関係ではなく人対人の関係に移行せよ、という、つまりは法的対応のススメである。
 一方当事者の言い分であるということと、守秘義務故に詳細が出せないことを予めお断りしておく。端的に言えば、ムラ社会の論理(好き嫌いとか、多分に個人の価値観に依存する「教師はこうあるべきだ」という理想像や、ローカルな信頼関係を最優先したいといった発想)を全うするために、ドライな法的手法で処理することになっている手段(=ハラスメント処理手続)を利用して、他人(この場合は私とあともう一人)に攻撃が仕掛けられた、ということである。私の推察するところ、元々がムラ社会的発想の人々が仕掛けてきたものだから、ドライな法的センスによる反撃は予想していなかった節がある。むしろ、「教師の立場」「教師のあるべき姿」といった従来型の縛りの存在を当然の前提として、その縛りの範囲内で対処しようとすれば何一つできないだろうという発想で仕掛けてきたように見えた。それで、私は、その縛りから敢えて離れて法的センスによる対応に踏み切ったので、まあそれなりに何とか手を打つことができた。

 自己の欲求を通すためにドライな法的手法を利用してくる相手に対しては、ウェットな信頼関係の維持を優先するという縛りは邪魔どころかむしろ危険ですらある。従来型の縛りにとらわれていて反撃の機会を失ったことで不利な立場に立たされたら、ドライな方の法的手法は(それが法律ではなく、学内規則といったものであっても)この社会では何らかの実効性を伴うから、本当に抹殺されかねないのである。この危機感を肌で感じたから、私は、教育機関であっても法的対応を優先すべきだという立場をとることにした。

 それで、chem@uさんのコメントに対する私なりの現時点での回答をしてみる。
 従来型のムラ社会型の縛りから教育機関を解き放つしかない、ウェットな従来型の関係を継続するのはもはや不可能というのが私の結論である。だから、反対意見もあることを承知の上で、学費不払いの対処についても、法的に対処すべきという立場を支持し続けている。
 私だって、従来型の縛りのウェットな関係がまだ有効に機能している環境で、生徒としての時間を過ごしてきた。従来型の縛りはそれなりに快適だし機能していたことも体験している。それでも、残念だけどもう無理だろうという感触を持つに至ってしまった。
 この方向に進むと、必然的に敵対することになるのは、従来型の縛りを支持する人達ということになる。その中には、従来型の人間関係や「教師の立場」といったものを重んじる、個別に見れば教育者としては望ましい資質を持った人達が含まれる。「いい先生」(これは皮肉ではなくて本当の意味でいい先生)に向かって「善意(←一般用語)で問題は解決しない」という、身も蓋もないことを言わなければならない。これだけ見れば、ほとんど嫌がらせである。その一方で、アカデミックハラスメントをやってしまうような、教師としての権力で他人をコントロールしたがる人とも正面衝突することになる。ウェットな従来型の関係を否定することは、そういう人達が拠って立つものを否定することに他ならないからである。この道を行くなら、悪役になりきる覚悟はしておいた方がいいかもしれない。
 もちろん、信頼関係がまったくなければ、教育は成り立たない。おそらく、ムラ社会型の縛りを突き崩した後は、信頼関係の中身が違ってくる。従来型の「教師と学生の(情とか師弟関係とかなかなか明文化しにくいものに基づく)信頼関係」ではなくて、教師と学生の間で「相手が一定のルールを守るだろう」という、法化社会型信頼関係とでもいうものが共有されるという形になるのではないか。

※文中で法的センスによる対応とか、法的対応と書いたが、これは必ずしも訴訟法を使っての手続を意味しないことをお断りしておく。規則や制度の利用等の発想というか心構えのような部分が「法化」したという意味である。