神戸の裁判、判決確定
先ほど、代理人の弘中絵里弁護士からメールが届いた。相手方代理人の藤原弁護士と連絡がついたとこと。
神戸の裁判は判決確定。控訴審は無い。
残るは、東京地裁でやっている、私が原告で吉岡氏が被告の名誉毀損訴訟のみ。
掲示板の方でこなみさんが指摘していた
判決でもうひとつ重要な意義をもつポイントは,原告の訴えが管理者の大学ではなく,参加人の批判的言論に対して行われているという認識で書かれていて,参加人の言論について論じた上で訴えを退けているということにあると思います。天羽さんも最初からそのことに興味をもっていたのですが,この意味は実質的にもとても大きく,当事者とまっとうに議論しても勝てないから管理責任者に文句を付けて間接的に止めさせようとする,嫌がらせに近い作戦を封じているわけです。敵将をやっつけるために馬を狙う作戦がとれない。多くの場合,管理責任者は当事者雇用者であったりもするわけで,気に入らないネットの言論に対してトップにねじこんでいく作戦はあり得るのですが,それは相手が違うだろ!というわけですからね。
ということを、下級審とはいえはっきりさせることができた意味は大きいと考えている。
気軽に大学にクレームをつけて、都合の悪い情報発信を止めさせるといった方法をとる、つまり「圧力をかける」という方法は、法廷までいけば通用しないということだからである。トップにねじこんでも、話が裁判所までいけばそんなのは通用しない、ということがはっきりしただけでも、将来に向けて、情報発信の自由を多少は確保できたのではないかと思う。逆に言うと、組織側が訴訟を嫌がって事なかれ主義に走っても、個人の側にとことん争う気がある場合は無意味ということでもある。
また、大学に対ての訴訟という手段を使っての妨害については、独立当事者参加という方法で個々に防衛可能でだということがわかったことも大きい。
もちろん、誰が見ても名誉毀損ということをやってしまったらダメだから、気を付けなくてはいけないのだけど。
【追記】
kikulogにもコメントしたのだが。
実質的には、今回私がやったことは、大学が教員の情報発信を積極的に保障せよという話とは逆に向かっている。大学が保障なんかしたら、大学が責任を負わなければならなくなる。そうならないために発信者本人が裁判所に出向いた。大学に保障なんかさせたらまずいというのが私の考えで、今もこれは変わっていない。つまり、大学を法的に免責するように動くことによって、情報発信の自由を確保しようということである。この手の情報発信において、大学を当事者にしてはいけない。大学が当事者になると、大学としては事前の管理をしなければならなくなり、実質的に大学からの批判的な内容の情報発信はほとんど不可能となる。
今回の件で大学からの情報発信が気軽にできるようになったと勘違いしないでほしい。大学からの情報発信の内容について責任を問われたときには、なあなあで引っ込める方が圧倒的に「楽」なのだ。当事者参加して争うというのは、敗訴のリスクも伴うし、時間も金もかかる。
じゃあなぜここまでやったのかというと、言論と表現の自由なんてのは、黙っていたって守られるものではないし、じっとしていても与えられるというものではない、それなりの手間をかけて闘って勝ち取るものだというのが、ごく当たり前のことだと考えていたからである。逆に言うなら、表現する側に闘う意思がない限り、大学からの情報発信であっても守れないよ、ということで、むしろ表現する側にとって覚悟を要求するものだと理解してほしい。
弁論に通いながら、イェーリングの「権利のための闘争は、権利者の自分自身に対する義務である」という言葉の意味をずっと考えていた。法を実現するためには闘争(つまり訴訟)が必要ということを実感している。同時に、法的紛争は法の世界を豊かにするのだろうとも思う。
以前にも「法的紛争は近代社会における個人の自立の証」という言葉を引用したが、封建的ムラ社会的ルールしかなかったら、今回のような紛争はできなかっただろう。
最初に「権利のための闘争」という言葉を知ったのは、高校の現代社会の授業だった。意味がわかるまでに(わかったと感じるまでに、か?)長くかかった言葉の一つである。
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