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アフィリエイト無しにamazonの本を出す方法

Posted on 3月 9th, 2009 in 倉庫 by apj

 amazonのアフィリエイトがくっついてるリンクは、本の値段とか表紙の画像が出ていて見て楽しいのだけど、あれをアフィリエイト無しでやる方法ってあったかしら?
 大学内のサイトから参考図書としてリンクを張りたい、できれば画像や値段も自動で出て欲しい、だけど大学内サイトでアフィリエイトで儲けちゃったらまずい、という状況なので……。画像を手動でコピペしてこいという話は手間がかかるので、できればアフィリエイト無し広告とかできるとうれしいんだけど。

高校授業料取り立てのお値段

Posted on 3月 8th, 2009 in 倉庫 by apj

 高校の授業料を支払わない場合への対処方法を考えてみた。

 公立高校(全日制)の授業料:ここによると、月額9900円くらいらしい。東京都は10200円。自治体によって差があるが、目安としてはまあ1万円/月とすると、年間で12万円(教科書代別)。

【踏み倒し屋への対処】
 支払えというお手紙を何回か送ったとして、1年も滞納するようなら取り立ててもいいはず。ということで、12万円を取り立てることになったとする。この金額なら、簡易裁判所で少額訴訟でいける。請求金額20万円以下の場合は訴状に貼る印紙代2000円+予納郵券6400円(これも裁判所によって異なり、5000円くらいのところもあるはず)=8400円。ただしこの金額は、訴状で「訴訟費用は被告の負担とする」とやっておけば戻ってくるし、相手が不払いならまず確実に自治体の勝訴となるはず。
 これプラス訴状を書く人件費。訴状の内容については、ほとんど定型でいけるはず。少額訴訟では、会社の場合は裁判所の許可を得て従業員を代理人に選任できるから、自治体でも担当職員を代理人に選任するという方式で弁護士費用は節約できるはず。
 ほとんどの人は訴状が来た段階で慌てて払うだろうから(∵卒業証書を渡さない、という程度の対応でもほとんどが支払った)、自治体には122000円+使用した切手代が支払われる。まれに払わない人には強制執行して取り立てる。
 校長がとれる手段は、除籍か登学の停止だから、自治体が勝訴になってから支払われるまでの間「登学の停止」をやれば、支払うインセンティブにはなり、手間のかかる強制執行にたどり着くケースを減らせるかも。
 まあ、「○月○日までに支払わないと翌日から登学を停止とする」という書類が来ただけで支払う親も居るだろうが、これでバックレる親が居たら、本当に登学を停止するしかなくなり、するとまた子どもの権利をタテにした横やりが入る可能性がある。訴状を書いた方がスマートに行きそうな……。

【経済的困窮&親権者が授業料免除や奨学金の申請に難色を示す場合】
 民法5条1項によると、

(未成年者の法律行為)第五条  未成年者が法律行為をするには、その法定代理人の同意を得なければならない。ただし、単に権利を得、又は義務を免れる法律行為については、この限りでない。

 とあるので、生徒が親権者(代理人)の同意無しに授業料免除の申請をできるようにすることには、但し書部分にあてはまるので問題は無さそう(もうなってるかもしれないので、どなたかご存じだったらお教え下さい)。 もし、現実には親の同意が要るような書類になっていて、親が難色を示すことで救済されない生徒が居るなら、5条1項但し書をタテに、運用を変えさせるのが筋では。 奨学金については負債を背負うことになるので単独でできるようにしていいかどうかが微妙だが、高校の授業料の金額を考えると、金額に上限を設けるとか授業料に充当するという制限付きで、単独で申請できるようにしても良いのではないか。場合によっては立法が必要かも。
 必要な人に援助が行き渡るようにするには、予算の手当が必要となるので、政策の問題となる。まあ、民意が支持すれば実現は可能だろうから、しっかり行政や議会に要求しないと……。

【親の方針で最初から進学拒否の場合】
 親のポリシーで「高校なんか行かなくていい」とやっていて、子どもが高校に行きたい主張している場合。親権者に教育の義務はあるが、義務教育でもない高校進学について、社会の側が「子どもの望むようにさせろ」ということを強制できるかが問題。強制できることにしてしまったら、家庭の事情に応じて各自で教育するということが制限される。
 民法だと、

(監護及び教育の権利義務)
第八百二十条  親権を行う者は、子の監護及び教育をする権利を有し、義務を負う。

 があるが、意に反して義務教育ではない高校に行かせないことがこれに引っ掛かるのか?あるいは、高校に行かせないことが

(親権の喪失の宣告)第八百三十四条  父又は母が、親権を濫用し、又は著しく不行跡であるときは、家庭裁判所は、子の親族又は検察官の請求によって、その親権の喪失を宣告することができる。

 の親権の濫用または著しく不行跡にあてはまるのか? 親の反対を押し切って高校に通学する権利を法的に勝ち取った例、というのがあれば、対処法として使えそうなのだが、ちょっと探し出せていない。知っている人がいたら教えてほしい。

願書を出すのは誰?

Posted on 3月 8th, 2009 in 倉庫 by apj

 毎日jpの記事より。

都立小松川高:教員ミスで推薦願書出し忘れ 受験できず

2009年3月7日 15時00分 更新:3月8日 10時29分

 東京都江戸川区の都立小松川高校(江見悦子校長、844人)の教員が、都内の有名私立大学の推薦入試を受ける予定だった3年生の女子生徒の願書を出し忘れ、生徒は推薦入試を受験できなかった。この私大が第1志望だったため、同校は個別指導をして一般入試を受験させたが、不合格になった。

 同校によると、女子生徒は昨年10月24日、この私大の「指定校推薦」制度で受験するために願書を担当教員に提出した。締め切り日の2日前の11月4日、担当教員は他の2人の生徒から同じ大学の願書を受け取ったが、女子生徒の分だけ忘れて2人分を大学へ送った。

 11月末の試験日3日前になっても受験票が届かないため、女子生徒が学校側に確認して送付ミスが分かった。校長や担当教員、生徒の保護者らが大学側に事情を説明したが、受験は認められなかった。結果を聞いた女子生徒は涙を流したという。

 同校は大学入試センター試験の際には、校内のマニュアルに沿って複数の教員で願書の出し忘れがないかチェックしていた。だが、指定校推薦の願書についてはマニュアルがなく、担当教員が1人で作業をした。

 推薦入試は面接だけで、女子生徒は一般入試向けの特別な対策はしていなかった。このため同校は12月から、個別指導し、この私大の1~2月の一般入試を受験させたが合格できなかった。別の大学は合格しているという。

 指定校推薦は、過去に優秀な生徒を送り出してきた高校などを対象に、大学が推薦入試枠を与える制度。高校側が普段の成績や出席日数などを考慮し、校内選考を経て推薦するため合格率は高い。同校では今年度、指定校推薦制度で14大学を計18人が受験し、全員合格した。

 江見校長は「落ち度は完全に学校側にある。大変申し訳ない。マニュアルを作って今後は二度とこのようなことがないようにしたい」と話している。【三木陽介】

 根本的な疑問点がいくつか。

疑問1:なぜ受験生本人が願書を出さないのか?普通は各自で出すものだと思っていたがけど、「指定校」推薦だから、高校が推薦しましたという形をとるために、高校が出すのか?
疑問2:高校側が出願することを今後も続けるのは、要らぬリスクや手間が発生するだけでは。高校が、この生徒を指定校推薦枠に推薦します、といった推薦状を発行して生徒に配布し、生徒がそれを添付して願書を出す、といった方法に変えても良いのでは。生徒本人が見てまずい情報があるなら封をして渡し、開封したら無効ということにすれば良さそう。
疑問3:一般入試で不合格になるような生徒を指定校推薦で推薦していたのはまずいのではないか。まあ、試験は水物とは言うけれど……。

 学校があれこれ背負い込みすぎてる気がする。各自でやるべきことは各自でやる形にして、現場の仕事を減らすことを考えたらどうか。

法も条約も無限のサービスの実現を要求してはいない

Posted on 3月 7th, 2009 in 倉庫 by apj

【追記と注意】
 この件についての考察を進めた結果、このエントリーを書いた時とは異なった理解に至ったので、こちらを見て欲しい。

 こちらのblogのトラックバックの受付が、ソフトの不具合か設定ミスなのか、うまくできないようなので、重ねて書いておく。地下に眠るMさんが、児童の権利条約や教育基本法を持ち出してあれこれ言っているけど、議論の精度が悪いと思われるので、少し前提と論点を絞っておく。
 まず、
児童の権利に関する条約
教育基本法(文部科学省のサイト。ここから条文pdfファイルが読める)
が、地下に眠るMさんが主張の根拠としたものである。

 さて、条約の28条には、

第28条1 締約国は、教育についての児童の権利を認めるものとし、この権利を漸進的にかつ機会の平等を基礎として達成するため、特に、
(a) 初等教育を義務的なものとし、すべての者に対して無償のものとする。
(b) 種々の形態の中等教育(一般教育及び職業教育を含む。)の発展を奨励し、すべての児童に対し、これらの中等教育が利用可能であり、かつ、これらを利用する機会が与えられるものとし、例えば、無償教育の導入、必要な場合における財政的援助の提供のような適当な措置をとる。
(c) すべての適当な方法により、能力に応じ、すべての者に対して高等教育を利用する機会が与えられるものとする。
(d) すべての児童に対し、教育及び職業に関する情報及び指導が利用可能であり、かつ、これらを利用する機会が与えられるものとする。
(e) 定期的な登校及び中途退学率の減少を奨励するための措置をとる。

 とある。

 高校の教育を問題にしているので、(b)(【追記】及び (e))について考えればよい。
 日本では、既にかなりの数の、税金の補助で授業料を安くした公立高校が存在する。(b)の前半部分は既に実現している。
 さらに、どの地方自治体も、経済的に進学が困難な人に対する授業料免除を行っており、実際にそれなりの数の利用者が居る。その基準は、例えば、北海道教育委員会の例だと、

生徒の家庭が次のいずれかに該当する場合、授業料や寄宿舎使用料の免除が受けられます。 (1) 災害や火災等に遭い、授業料等の納付が困難になった場合
 (2) 生活保護法による生活保護を受けている場合             
 (3) 生徒の保護者等が、交通事故により死亡又は後遺障害により、授業料等の納付が困難となった場合
 (4) その他特別な理由により、授業料等の納付が困難となった場合

 となっている。おそらく他の地方自治体も、類似の基準で運用しているはずである。これは、(b)の「例えば」以降の部分にあてはまる。
 従って、日本の公立高校の設置数・運営の状況と、金銭的な補助のあり方は、既に4条1項(b)を満たしていると考えられる。

 ところで、地下に眠るMさんが支持しているのは「授業料が払えるのに故意に払わない人にまで、高校生としての身分を保証すべき」ということらしいが、条約4条1項(b)からそこまでは導き出せない。
【追記】
 では、故意に授業料を払わない人に高校生の身分を保障すべきということが、4条1項(e)から導けるかどうかが、次の問題となる。
 貧困を理由に中途で退学しなくても良いように、経済的援助するしくみを作っているのだから、制度的には(e)も満たしていると言える。運用で(e)を満たすとしたら、登校については欠席しがちな生徒の事情を訊いて相談にのるとか、出席日数が卒業要件であることを徹底させるといったものになるだろう。これは、普通の高校ならやっているはずである。中途退学については、学費納入が滞っても直ちに登校を停止したり、除籍にしたりせず、穏当な方法で支払を求めるとか、経済的事情の相談に応じた上で授業料免除について教えるといった対応が考えられる。これも普通の高校ならやっているはずである。運用上考えられるフォローをした上で、なおかつ授業料を支払わない人に対してまで、高校生の身分を保障せよということは、(e)からも読み取ることはできない。
 なお、記事中の校長がやったことは、「授業料の支払が遅れたからさっさと除籍」というのものではなかった。むしろその逆で、最長2年もの滞納があるにも関わらず、在学を認め教育サービスを提供していたことが窺える。そして、一区切りとなる卒業式までには支払ってほしいという意味で、「卒業証書を渡さない」という、規則にない対応でもって支払を求めたのである。むしろ、問題とされた校長の行動は、条約の(e)に沿ったものであったと考えるべきではないだろうか。
 なお、「故意に払わない」という前提の根拠は、この話題のきっかけとなった新聞記事で、授業料を完納しないと卒業証書を出さないとやったところ、65人中64人までが支払ったという記載による。
 校長が規則上とれる手段が「除籍」「登学の停止」であったのに、より穏当なやり方として「卒業証書を渡さない」という規則にないことをしたから、話が捻れてしまった。規則上可能な手段を伝えて授業料の支払いを促すことに問題は無いはずだし、それでも支払わなければ、より穏当な手段から実行してもかまわないはずである。次からは、規則に定められた手段をとる旨の予告と一緒に滞納分の支払を求める方が、役人に突っ込まれなくて済むに違いない。

 こういうトラブルを防ぎたいのであれば「授業料を完納するまで卒業を延期し、一定期間以上支払わなければ除籍とする」ことを校長がとれる手段として明文で入れれば良い。免除の申請を忘れたりためらったりした人への救済策としては、申請があった場合に経済状況もさかのぼって調査し、免除もさかのぼって認めることにすれば良い。

 いずれにしても卒業証書は、しなければならないことを全て終えた人のものである。

 次に、教育基本法について。
 既に示したような補助が存在するという前提で考えると、授業料が払えるのに故意に払わない人にまで高校生としての身分を保証すべき、という結論までは出てこない。

 補助が不十分で、必要な人に十分いきわたっていないということが問題なら、予算の手当と補助の基準を見直せば良い。ただ、これは別の議論である。仮に基準の見直しが行われた後であっても、故意に払わない人に対する対応を何らかの理念に基づいて変えることを考える必要は無いだろう。

 故意に授業料を払わない人まで普通に在学させ卒業させることを正当化したいのなら、高校を義務教育にせよと主張した方が、主張の筋としてはすっきりするように思う。
 税金で途中まで補助しておいて、途中から授業料を滞納したことで除籍にするのは、それまでの補助を無駄にするものだという意見もあるだろう。しかし、行政に要求されているのは、教育の機会の提供及び適切な援助をせよ、ということのみである。その先、途中で援助から外れる人が居るとそれまでに使った税金が無駄になるといった議論は、本筋ではなく別の話である。もし、無駄をなくせということを要求するのなら、「中途退学者はそれまでに受けた補助を返還せよ」という話だって出てくるだろう。返還話を拒否するのなら、義務化せよというしかなくなりそうに思う。

 理念を拡大解釈し、どこまでもサービスを求めるのが当然だとか、それが権利だという発想が、教育の破壊につながるのではないだろうか。

左巻さんblog移転

Posted on 3月 7th, 2009 in 倉庫 by apj

 左巻健男さんがblogをはてなで再開したようです→「左巻健男の今日もガハハ
 doblogが不調なので仕方ないでしょう。相変わらず、doblogは去年の8月までの内容で止まってしまっています。

ソフトランディングさせる方法はあるのだろうか

Posted on 3月 7th, 2009 in 倉庫 by apj

 chem@uさんの「教育における法治と道徳」を読んで。

もっとも、私はすでに「否応もなく子どもたちに回されることになる」ところまで現状が進んでいると認識している、元記事にトラバいただいた、このリンク先では、まだ「現場に背負わせることができる」と考えている、そういったポイントオブノーリターンの判断点の違いと見ると、考え方にそれ程大きな違いはないのかもしれませんが。

教育はどうなるのか。「古きよき時代」を続けることがこの先不可能になるのか、もしなると考えるなら、どういった未来像を描けばいいのか、そういったことを考えています。

私もまだ、ドライに割り切って法的対処のみに進めていくべきなのか、ウェットな関係が継続していけるのか、自らの教育の場での姿勢を切り替えるほどには現状に悲観していませんが、楽観もできないと感じます。学生と築く信頼関係とそれに依存した教育、これは、信頼関係を築けないケースでは脆弱です。どうするのか?、この答えの一つは「ムラ社会型の教育機関への縛り」を排除することですが、信頼関係と両立しえるのかは難しい問題。「地雷」を踏む前には自分なりに決着させなくてはいけないのだけれど。

 chem@uさんはまだ逡巡しておられるようだが、昨年、私は既に「地雷を踏んだ」経験をしてしまった。だから、本当に困窮している人に手を差しのべる方法を盛り込みつつも、ドライに割り切る以外に方法はないだろうという感触を持っている。

 私が踏んだ地雷は、去年、キャンパスハラスメントの加害者にされかかったという件である。私が実際にしたことを、弁護士にも相談したら「あなたの件はこれまできいた話の中で一番何も(ハラスメントの実態が)ない」と言われたのだが。この時の経験で、「提訴の方が教員にとって安全」というエントリーを書いた。ためらわずに教師と学生の関係ではなく人対人の関係に移行せよ、という、つまりは法的対応のススメである。
 一方当事者の言い分であるということと、守秘義務故に詳細が出せないことを予めお断りしておく。端的に言えば、ムラ社会の論理(好き嫌いとか、多分に個人の価値観に依存する「教師はこうあるべきだ」という理想像や、ローカルな信頼関係を最優先したいといった発想)を全うするために、ドライな法的手法で処理することになっている手段(=ハラスメント処理手続)を利用して、他人(この場合は私とあともう一人)に攻撃が仕掛けられた、ということである。私の推察するところ、元々がムラ社会的発想の人々が仕掛けてきたものだから、ドライな法的センスによる反撃は予想していなかった節がある。むしろ、「教師の立場」「教師のあるべき姿」といった従来型の縛りの存在を当然の前提として、その縛りの範囲内で対処しようとすれば何一つできないだろうという発想で仕掛けてきたように見えた。それで、私は、その縛りから敢えて離れて法的センスによる対応に踏み切ったので、まあそれなりに何とか手を打つことができた。

 自己の欲求を通すためにドライな法的手法を利用してくる相手に対しては、ウェットな信頼関係の維持を優先するという縛りは邪魔どころかむしろ危険ですらある。従来型の縛りにとらわれていて反撃の機会を失ったことで不利な立場に立たされたら、ドライな方の法的手法は(それが法律ではなく、学内規則といったものであっても)この社会では何らかの実効性を伴うから、本当に抹殺されかねないのである。この危機感を肌で感じたから、私は、教育機関であっても法的対応を優先すべきだという立場をとることにした。

 それで、chem@uさんのコメントに対する私なりの現時点での回答をしてみる。
 従来型のムラ社会型の縛りから教育機関を解き放つしかない、ウェットな従来型の関係を継続するのはもはや不可能というのが私の結論である。だから、反対意見もあることを承知の上で、学費不払いの対処についても、法的に対処すべきという立場を支持し続けている。
 私だって、従来型の縛りのウェットな関係がまだ有効に機能している環境で、生徒としての時間を過ごしてきた。従来型の縛りはそれなりに快適だし機能していたことも体験している。それでも、残念だけどもう無理だろうという感触を持つに至ってしまった。
 この方向に進むと、必然的に敵対することになるのは、従来型の縛りを支持する人達ということになる。その中には、従来型の人間関係や「教師の立場」といったものを重んじる、個別に見れば教育者としては望ましい資質を持った人達が含まれる。「いい先生」(これは皮肉ではなくて本当の意味でいい先生)に向かって「善意(←一般用語)で問題は解決しない」という、身も蓋もないことを言わなければならない。これだけ見れば、ほとんど嫌がらせである。その一方で、アカデミックハラスメントをやってしまうような、教師としての権力で他人をコントロールしたがる人とも正面衝突することになる。ウェットな従来型の関係を否定することは、そういう人達が拠って立つものを否定することに他ならないからである。この道を行くなら、悪役になりきる覚悟はしておいた方がいいかもしれない。
 もちろん、信頼関係がまったくなければ、教育は成り立たない。おそらく、ムラ社会型の縛りを突き崩した後は、信頼関係の中身が違ってくる。従来型の「教師と学生の(情とか師弟関係とかなかなか明文化しにくいものに基づく)信頼関係」ではなくて、教師と学生の間で「相手が一定のルールを守るだろう」という、法化社会型信頼関係とでもいうものが共有されるという形になるのではないか。

※文中で法的センスによる対応とか、法的対応と書いたが、これは必ずしも訴訟法を使っての手続を意味しないことをお断りしておく。規則や制度の利用等の発想というか心構えのような部分が「法化」したという意味である。

アホと貧乏は別の話

Posted on 3月 6th, 2009 in 倉庫 by apj

【追記と注意】
 この件についての考察を進めた結果、このエントリーを書いた時とは異なった理解に至ったので、こちらを見て欲しい。

 PSJ渋谷研究所Xさんのところの「「親がアホ」のツケは子どもに回って当然なのか」について。
 先日から話題になっている、授業料を完納しないと卒業証書を出さない、とやった高校の話に関連して。

 心情はわかるんだけど、議論の筋があまりにわけがわからないので改めてエントリーを書く気になった。

なんの責任もないうえに責任を取る能力もない未成年のところに責めを及ぼすことを容認していては、規範もへったくれもないだろう。「未成年者・年少者(18歳未満)は保護される」「犯罪や誤りを犯した行為者本人だけが罰せられるべきで、特段の理由もなく家族等が代わりに責めを負うべきではない」といった前提こそが間違っていて正されるべきだというのでない限り。

 その前提を授業料未払いの例に適用するのが変なのだが。 まず、「保護」の意味が曖昧すぎるので、何が言いたいのかがよくわからない。具体的な保護規定としては、たとえば
・契約関係:法定代理人の同意を得ない契約は取り消し可能。
・刑事責任:刑法の適用ではなく少年法が適用される、家庭裁判所を通して保護処分か刑事処分相当かの審判を受ける。
といったものはある。保護すべしという理念があったとしても、際限なく保護せよという話ではないはず。何だか、保護の意味を無制限に拡大解釈しているように見える。言及先のエントリーを読んでも、「保護を与えるべき→親が授業料未納でも卒業証書を出すべき」の間が埋まらない。

 また、刑事的責任の話を契約関係に持ち出すのは間違っていると思う。
 学費未納の話はむしろ、親が定期的に金を払って購入したサービスを子どもに与える約束をしていたが、金を払わなかったので購入されなくなった、というのに近い。上の理屈を適用するなら「一旦子どもにサービスを与えるという契約したら最後、親が金を払わなくなっても、子どもは保護しなければならないからサービスを与えるべき」という話になってしまうが、これは明らかにおかしいだろう。

でも、入学時に学生が未成年や年少者だった場合、法的には単独で契約の当事者になることができないのではないか。

 単独で契約の当事者になれないこと自体が未成年者に対する保護である。法定代理人(大抵は親)の同意があれば契約の当事者になることは可能である。それ以上、契約の相手方に対して、対価を受け取っていないのに債務の履行を求めているわけでもない。

未成年者が単独では契約の当事者になれないのならば、基本的には保護者が支払いをするという契約のはずで、そうなると未納が生じた際にも子どもは「善意の第三者」ということになるのではないか(親が学費の支払いをやめると言っていて、学生も「それでいいよ」と承知していたとか、そんな事情でもあるのならともかく)。

 「善意」というのは、「ある事実を知らないこと」を言う。 当事者が作り出したり放置したりすることでできた法律関係を信じて取引に入った人を「第三者」と呼び、当事者間に存在する特別な事情を知らない人を「善意の第三者」と呼ぶ。 仮に、親と学校間の契約で、契約関係にない子どもがなにがしかの権利を得るという形になっているのであれば、それは「第三者のためにする契約」(民573)に分類されるのでは。で、子どもがある期間普通に高校に通っていたのなら契約したこと、何の給付を受けるかも含めた契約内容を知っているはずだから、支払が滞った場合に子どもを「善意の第三者」と呼べるような状況が発生するとは思えない。

 子どもが契約の当事者で親が法定代理人として同意する、という形なら、子どもは最初から当事者だからやっぱり「第三者」ではあり得ない。

でも、たとえばカード詐欺(保護者)に偽造カードで買い物をされちゃった(学費を払うのをやめられちゃったとき)時は、直接の債務はカード詐欺たる保護者が負うわけで、消費者たる子どもは善意の第三者じゃないのか。消費者がカード詐欺の尻を持たなきゃいかんってのはおかしいだろう。

 偽造カードで買い物をされた被害者は、立場を騙られただけであって「第三者」とは呼べないのでは。むしろこの場合第三者と呼べるとしたら、騙られた人ではなくて、実は別人が取引していることを知らずに契約関係に入った人に対してだろう。喩えとして成り立っていないように見える。

債権者のはずの子どもが、その債権を放棄するとでもいうのであればともかく、法廷に出たら適法性のない内規として無効と判断されるのではないかとさえ思う。

 債権者の権利がどこからきているかというと、授業料を支払うという親と学校の契約によって発生しているわけだから、元の契約が「授業料を払わなくてもサービスを提供します」とでもなっていない限り、こんな理屈は通らないのでは。

 言及先のエントリーは、「責任」「保護」「第三者」といった言葉の使われ方に違和感がありまくる。

しかし、今回のケースはどっちかというと「いったんかけたハシゴが、親の不心得ではずされる。そういうことに公教育が加担するようなことがあってよいのか」というような問題ではないのか。

 「公教育」といっても、一定の人的金銭的補助のもとに、ある程度決まった内容の、有限のサービスを提供するものに過ぎない。社会の側には、「高校に通わせる義務」はない。 「いったんかけたハシゴは親の不心得があってもはずせない」ことになったら、分割払いで子どもにサービスを提供する契約自体が危なくてできなくなる。「子供の保護」をタテにしての踏み倒し放題を認めるということになる。それならいっそ、契約の安全のためには、授業料3年分を入学時に納付してもらい、休学の期間は納付不要(つまり納めた授業料が減ることはない)とし、退学の時には残りの期間の分を返却する、というシステムにしてしまえばよい。不払い問題は解決するはずだ。授業料を強制的に徴収するための手段が現実的なコストで実現できるなら、どんどん不払い分を回収することにすればよいのだろうけど、授業料程度の金額を人手をかけて回収するのがコストに見合わないというのなら、先払いにするしかないのでは。支払う相手が自治体なら、某家庭教師センターや英会話塾みたいな倒産はないだろうから、退学時に返却されなくなるおそれは殆どないはずである。
 そのかわり、金を貯めてからでないと進学が不可能、ということになってしまうだろうが……。

 親が貧乏であることのツケを子どもに回すのはよくない(社会的格差が固定する方に働くから)。だから、奨学金や授業料免除といった手当てが必要だし、実際に授業料免除になっている生徒もそれなりの数存在する。でも、親がアホであることのツケについては、明らかな虐待で保護が必要といった場合以外にまで社会の側が面倒を見るのはやり過ぎではないだろうか。

【追記】
言及先のエントリーで、地下に眠るMさんの勘違いコメントを見たので、こっちでも言及しておく。

「親の因果が子に報い」を肯定するバカ科学者と、その妄言を支持する寝言垂れ流しの諸君に聞いておく。■学校と生徒の関係において、重視されるべきは民法かね? それとも教育基本法かね?

チミら、恥を知れ。
Posted by 地下に眠るM at 2009年03月06日 23:42

「因果」じゃないので、議論自体がミスリーディング。強いて言うなら親の身勝手、といったところ。
 義務教育ではない高等学校では、授業料を払わなければ学校と生徒の関係自体が消滅するので、民法が先(∵授業料を払わない生徒に対しては除籍という手段をとることが可能である)。学校と生徒の関係が維持されている間は教育基本法。
 前提となる学校と生徒の関係を発生させるものと、関係が発生してからその内容を規定するものの優先準位を、同列に比べることの方がナンセンスではないか。

AirMacの外側のプリンタを使う

Posted on 3月 5th, 2009 in 倉庫 by apj

 研究室のパソコンをAirMac Extremeにつなぎ、Air Mac Extremeを学内LANに行ってるHUBに接続。
ネットワークプリンタ(Phaser 6201J)をHUBにつないだ状態で、パソコンから印刷するときは、システム環境設定→プリントとファクス→ウィンドウ左側リスト下の「+」ボタンをクリック→タブからIPを選び、プロトコルをLPD,アドレスをプリンタの固定IPアドレスにすると印刷できる。プリンタはIPPにも対応しているはずだが、IPPを選んでから印刷すると、プリンタがビジーだという表示が出たまま止まってしまう。

大学から教員個人が情報発信する時の責任は大学ではなく教員個人が負うべき

Posted on 3月 4th, 2009 in 倉庫 by apj

 神戸の裁判の第1審判決の、独立当事者参加の意味について少し書いておく。

 都合の悪い情報を出させないための「口封じ」として、あるいは、気に入らない情報を発信した人に対する感情的制裁として、発信者の所属組織にクレームをつけるというのは、常套手段である。

 水商売ウォッチングを始めた時から、大学にクレームが来るであろうことは予想していたし、そのための対策も考えていた。

 最初のクレームの時は、お茶の水大学のウェブ運用規則が十分整備されていなかったので、大学の方が混乱して、ウェブサイトを公開停止にしてしまったので、阪大の菊地先生のグループに居候していた。その後、ウェブ運用規則を整備することになった。そこで、冨永教授に「大学が直接編集責任を負う公式ページと、研究室単位で運営されるページの管理を分けないと、研究室からの情報発信ができなくなる」といった議論をし、規則の内容を現行法にすりあわせるという提案をした。このとき、私が冨永教授に伝え、冨永教授も大学に伝えたことは、研究室ページから発信する情報についての責任は、大学ではなくて冨永教授か、文章を書いた天羽が直接負うべきである、ということだった。大学が、プロバイダ責任制限法にのっとった規則を準備したので、手続通りに動けば、大学がかなり安全な状態になった。このあと、コンテンツをお茶の水大に戻して今に至る。
 ただ、規則が決まった時、「大学はかなり安全にはなったが、それでも、嫌がらせの提訴までは防げないだろう」というコメントが出ていた。私もその通りだと思い、嫌がらせの提訴をされた場合にどうやって防衛するかが次の課題だと認識していた。これが、2002年の後半から2003年の前半にかけてのことである。

 吉岡氏によって大学が提訴されたことを知ったとき、私が最初に考えたのは、私が原告となって債務不存在確認の訴えを吉岡氏に対して提起し、審理を併合してもらうように裁判所にお願いする、という案だった。この案を持って、絵里タンの所に行ったところ、「別訴の提起では元の訴訟を止められないから、民訴47条によって独立当事者参加をしてはどうか」というアドバイスをうけた。そこで、そのアイデアに従って、独立当事者参加をして、弁論することにした。

※裁判所に対して矛盾しない判決を出せという要請があるので、別訴提起&併合審理でも、独立当事者参加と似たような展開になるのでは?という疑問はまだ残っている。これは、私の民事訴訟法に対する理解が不足しているからだろう。

 これまで(例の瀬尾准教授の騒動の時も含めて)、私は、情報発信の内容についての法的責任は大学ではなく教員個人が負うべき、と主張してきた。瀬尾准教授の方は学外blogで表現もトンデモだったが、本件訴訟の掲示板は大学内で弁護士が見てもどこが名誉毀損だと首をかしげていたりした。本件訴訟の原因となった書き込みのある掲示板は大学内のドメインにあるので、大学の責任の割合が高くなりそうではあるが、それでもまずは発信者が責任を負うべきだというのが私の考えである。今回の裁判所の判断は、「本件論評が原告に対する名誉段損行為であるとすれば,不法行為責任(損害賠償義務及び本件文書削除義務の双方が含まれる。)を負うのは原則的に情報発信者側の参加人らであり」というものなので、私の主張に近いものとなっている。

 教員の情報発信の内容にそれなりに正当性がある場合であっても、事情を知らない大学が対応したのでは、十分な攻撃防御ができるとは思えない。不十分な訴訟活動が原因で大学が敗訴したら、情報発信は相当に阻害される。このことは、今回の判決の理由の中で、裁判所も触れていた。所属組織を脅して口封じをするようなやり方を容認してはならないのである。
 仮に、教員の情報発信に関わる法的紛争を大学が一手に引き受けるということになったら、現実問題としてリソースが足りず、結果として、大学からの教員による情報発信を制限せざるを得なくなる。逆に、教員の側が、大学が応訴してくれるから、と、安易に不法行為認定されるような情報発信をするようでも困る。結局、発信者本人が責任を負うことが、情報発信の自由を確保すると同時に、不法行為となるような情報発信をむやみに行うことに対する歯止めにもなる。

 判決の理由に書かれた説明により、大学の責任については、プロバイダ責任制限法に基づき、「他人の権利が侵害されていることを知ることができたと認めるに足りる相当の理由」というハードルを越えない限り、免責されるということがよりはっきりした。つまり、発信者の不法行為責任が認められたとしても、それが直ちに大学にも責任が生じることを意味しないということである。

 大学が免責されるかどうかは、「認めるに足りる相当の理由」をどう判断するかによって変わってくる。元の表現が、誰が見ても直ちに名誉毀損だろうという内容ならば「認めるに足りる相当の理由」ありと判断される可能性が高い。しかし、当事者が、証拠を提出し弁論したものに基づいて裁判所が免責理由等について判断する、ということになると、話が違ってくる。裁判所がそれなりの手間をかけて争点整理をしてからでないと結論が出ないようなものについて、大学に対し、プロバイダ責任制限法にのっとった書類のやりとりを見ただけで同じ結論を出すことを求めるのは無理がある。すると、発信者の不法行為は認められたがそれは審理を行い入り組んだ判断をした結果であるので、大学にとって「認めるに足りる相当の理由がある」とはいえなかった、となり、大学が免責される可能性がかなり出てくる。

 今回の訴訟で、「発信する内容についての責任は発信者が負うつもりであったし、その責任とは、法的責任のことである」と弁論した。実際、法的責任を負うために訴訟参加し、攻撃防御を行った。学内規則を決めた時に、お茶の水大学内の関係者に対して主張した「発信者が責任を負う」という約束を、今回の訴訟参加によって、守ることができたと考えている。この点は、冨永教授にとっても同じだろう。

 実は、昨年、吉岡氏から勤務先に来たクレームについて、私の方から、削除義務が存在しないことを確認する、という請求を立てて、私が原告となって提訴した。こちらは、吉岡氏がろくに弁論しなかったため、認容判決が出ることになった(つまり削除は必要無し)。勤務先に削除要求が来た段階で、発信者が直接法的手段をとって防衛するということを試してみたのだが、一応この方法も使えそうだという感触を得ている。

 今回の判決で、所属組織が提訴された場合には、独立当事者参加を行い攻撃防御に参加することで情報発信の自由を確保することが可能であるとわかった。十分弁論すれば、不法行為ではないと判定されることもあるし、判定が難しかったので「認めるに足りる相当の理由」無しという形に持っていくことで組織を免責するということもできる場合がある。訴訟を厭わない姿勢が発信者に必要なので、それなりに過酷だし面倒でもあるが、表現の自由の確保がタダでできるわけはない。権利は戦って得るものだということなのだろう。

 なお、当事者参加には補助参加というのもある。しかし、被参加人の訴訟行為と抵触する行為は効力を有しない(民訴45条)し、当事者が異議を申し立てる(民訴44条)ことができたりするため、参加人の立場は弱い。独立当事者参加であれば、異議申立ての手続はないし、被参加人とは関係無く独立に攻撃防御をすることができる。
 所属組織と参加人の利害が必ずしも一致しない場合があること(たとえば、訴訟費用節約のため所属組織が早々に和解を考えていて、参加人は判決がほしいと考えている場合など)を考えると、独立当事者参加の方がより良い選択肢だろう。

 もちろん、これらの方法で結果を出すには、もとの表現が防衛的に書かれている必要がある。誰が見ても名誉毀損だという内容を書いてしまったのでは、争うだけ無駄となる。真実性(争いになったときどこまで証拠を出して真実であることを裁判官に示せるか)と、表現内容の公益性については、常に意識しておくべきだろう。

判決書公開

Posted on 3月 3rd, 2009 in 倉庫 by apj

 神戸の裁判の判決書を公開した。私の方から控訴する必要はないが、相手方の控訴はあり得るので、確定していないことを前提に読んでほしい。

 当事者参加の可否については、「第2 5」で

5 独立当事者参加の要件に関する当裁判所の判断(1) 本件論評が原告に対する名誉段損行為であるとすれば,不法行為責任(損害賠償義務及び本件文書削除義務の双方が含まれる。)を負うのは原則的に情報発信者側の参加人らであり,参加人らの原告に対する不浩行為責任が存在しないとなれば,必然的に被告の原告に対する不法行為責任も発生しない。 すなわち,原告の請求の当否を判断するためには,参加人らの不法行為責任の存否を判断する必要がある。
(2) ところで,参加人らの不法行為責任の存否を判断するためには,本件論評につき,後記平成9年最高裁判決のいう違法性又は責任阻却事由があるのかどうかを判断しなければならない。ところが,この点に関する被告による主張立証が極めて困難であることは,弁論の全趣旨に照らして明らかである。
(3) したがって,被告に応訴を委ねたままでは,その点に関する被告の主張立証が貧弱なものとなるおそれが強いが,その結果として,被告が本件訴訟で敗訴した場合,参加人らは,冨永サイトや天羽サイトでの表現活動の一部を物理的に制限されることになる。
 そうすると,参加人らを当事者として訴訟に参加させ,本件訴訟の審理の対象(判決主文における判断の対象)を拡張し,参加人らの不法行為責任の存否の問題を正面から取り上げることが必要であり,そうすることが民事訴訟法47条1項前段の趣旨に合致するというべきである。
(4) 以上のとおりであるから,参加人らは「訴訟の結果によって権利が害される」として,民事訴訟法47条1項前段により,当事者として本件訴訟に参加することができると解され,本判決では参加人らの請求の当否も判断すべきことになる。

 という判断になった。名誉毀損行為があった場合の責任は発信者である掲示板管理人や書き込んだ本人にあり、直ちに大学にあるわけではないという判断である。これで、参加の目的のかなりの部分は達成できたといえそう。
 共同不法行為というのがあるので、大学を完全に免責するのは不可能だけど、少なくとも、教員の表現について大学が常に全面的に責任を負うという話でもない。

 教員の所属組織である大学を訴えて、言論と表現を萎縮させようとしても、情報発信者である教員が当事者として攻撃防御できる可能性があることがわかった。

 ただ、吉岡氏のビジネスにまで踏み込んだ判決になったのがちょっと意外。もうちょっと文言の争いのレベルで判断して、「名誉を全く毀損しないとまでは言えないが、不法行為と呼べる程度でもない」あるいは絵里タンの主張の通りに「名誉が毀損されるとしても不特定のダウンの人々であり原告ではない」という判断をしても、主文の通りの判決は出せるはずである。吉岡氏のビジネスの姿勢についての判断まで出したかったから敢えて入り口で判断しなかったというふうにも見えるし、裁判所がマルチ商法に怒りを覚えているようにも見える。

 ある意味凄まじい判決なので、こんなん出して大丈夫かと逆に心配になってみたり。

 私の予想では、文言の争いで終わり、吉岡氏のビジネスには言及しないという判決を予想していたわけで……ただ、弁論では真実性や公益性まできちんと主張しておいたので、その部分が裁判所の判断に使われたことになる。逆に言うと、いくら文言の争いで終わりそうだよな、と思っても、とりあえず名誉毀損訴訟の枠組みに沿った内容を全部埋めた弁論をしないと危ないということでもある。本当に教訓その1というか何というか。