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独り言

Posted on 3月 2nd, 2009 in 倉庫 by apj

 昔は、教育の場には、「教師と生徒・学生の関係」というのがあった。教師が聖職者とされていたり、一定の権威を持っていたりといった一時期のことを指したかったので「」付きにしてみた。その頃、先生は一応は尊敬されることになっていた。まあ、教師の陰口を言うのは生徒の特権(?)だったけど、一応形式的には敬うことになっていた。この約束事が何を守っていたかというと、生徒や学生がある程度失敗をしても外に出さず、教師と生徒のウェットな関係のもとで許すとか教育するという仕組みを守っていたんじゃないかなぁ。

 だから、生徒・学生の側が法治主義的な手段でもって教師と対等な位置に立つ意思を示したら、一応教師側には職業倫理があるとして、残るは対等な(契約に基づく)人対人の関係になってしまう。これは生徒・学生にとってむしろ過酷な面があるんだけど、法治主義的な手段で最大限権利を認めさせる成功例が出てきてしまったら、多分もう昔の関係に後戻りはできない。なにがしかの職業倫理を前提にするとしても、倫理の枠組みでは法治主義的なルールを逸脱することはできないから、何かコトが起きたときになあなあで何とかするという解はとれなくなる。むしろ、なあなあで納めることが違法な行為になってしまったりする。

 最初に、法治主義的発想で教師や学校に対して要求を通すことを思いついた人、実行した人は、確かに斬新な発想を持っていたと思う。だけど、それを実現したら最後、全てを法治主義的発想で処理する仕組みを作らない限り全体の整合性がとれないし、制度としても機能しない。最初に思いついた人が、来るべき未来をどこまで想像していたかは知らないが、これまでウェットな関係で調整していた教育の場を法治主義的ルールでもって調整する世界を望んだということなんだろう。仮にそいつがそんなことは想像もしていなくて、気持ちの上では望んでいなかったとしても、行動でもって示してしまったわけで。オモテにコトを出さず、人の善意(一般用語の意味で)とか甘えを許しつつ問題解決をする制度に、一部分だけ(コトによっては都合の良い時だけ)権利義務関係を持ち込むというのは、制度の崩壊を引き起こすし、モンスタークレーマーにエサを与えるだけになってしまうだろう。どうやっても両立しないんだよね。

 社会の側は司法制度改革をやって法化社会に舵を切ったし、その社会の側の基準で教育現場にも要求が突きつけられるのだから、教育をする側も一貫した法化社会的対応をする以外に方法は無い。まだ、その気持ちの切り替えができない人達が居るから横やりが入るのだろうけど、もう昔の考え方ではやっていけないということは早晩わかるのではないかなぁ。多分、今は過渡期で、暫くは混乱するし、双方で奇妙だと思うこともいろいろ出てくるのだろうけれど。

【追記】
 過渡期の混乱としては、どこかで会社法がらみの裁判で混乱するものが多発中というのを読んだ覚えが……。自営業をやってて、親が亡くなって子供が事業を継ぐことになったが、兄貴に商才が無くて弟に商才がある場合の話。昔だったら、街のご隠居さんが出てきて、兄貴の生活が困らないように弟が面倒を見るかわりに、商売は弟が継ぐ、といったなあなあ解決で済んでいたのが、最近は会社法の枠組みでもって地方裁判所に揉め事が持ち込まれる。でも背後にあるのは、むしろ家庭裁判所でケリを付けた方がよい種類の身内のごたごただから、結果として裁判所もわけがわからん、と……。

【追記】
 教師を尊敬しろとか教師に権威を認めろ、というのは、教師に対して「生徒に対してパターナリズムを発揮せよ」という要求の別の表現だったんじゃないかな。教師を尊敬の対象にしないことにし、権威も認めないことにしたら、パターナリズムを発揮していい根拠は法なり規則なりに求める以外に無くなる→結局法治主義的ルールで教育を縛るしかなくなる。
 教師の権威を否定したり尊敬をやめたりすることは、教師によるパターナリスティックな対応も拒否する、つまり保護なんか無しで自己責任でいく、ということの表明になっている。

教育的配慮が暴走すると規範をぶちこわしにする

Posted on 3月 1st, 2009 in 倉庫 by apj

【追記と注意】
 この件についての考察を進めた結果、このエントリーを書いた時とは異なった理解に至ったので、こちらを見て欲しい。

 卒業証書問題をchem@uさんのところが取り上げたので引用。私の問題意識とほとんど重なっていると思う。

「ムラ社会型の教育機関への縛り」とはこの場合、「未期限までに全額納入がない場合は、卒業証書をお渡しできません」という法治社会型の契約に基づく対応を取ろうとしても、筋の通らない苦情や抗議が起きて、教育機関が追い込まれるということ。
メディアがニュースに取り上げ、「教育者像」との違いについて謝罪させられ、教育委員会あたりが、「未納を理由に卒業証書の授与を拒むことはできない」と横槍を入れざるを得なくなる。

場当たり的な対応によって周知される「授業料払わなくても卒業できる」という事実、これが将来どんなことをもたらすか、そんな想像力もでないのでしょうか。

(中略)

教育的配慮 法治社会では不要(個別の教員が配慮する事はあっても、配慮するよう他者が教育者に求めるのは筋違い)
説得力 「サービス業」は無限大のサービスを提供するわけではない。
教育と金 そもそも政治の問題、現場に負担を押し付けるな。

 この対応がまずいのは、場当たり的な対応で契約を無視してもかまわないということを公然と社会に知らしめてしまった、という点。これがどれだけ反社会的な対応か、当事者も認識していないらしいので、問題としてはより深刻だと考える。

 法治社会の原則の1つとして「契約は守らねばならない」というのがある。これは、より一般的な「約束したことは守りましょう」という倫理的規範の一部分である。原則だから、当然「例外」もあるけど、例外とは、例えば契約の前提となった条件が途中で著しく変わってしまって当事者にとって想定していなかった極端な不公平が生じた、とか、そもそも契約の内容自体が最初から公序良俗に違反していた、というような場合であって、「教育的配慮」などというものは、契約には基本的に何の関係もない。

 期限までに授業料の納付が無ければ卒業証書を渡せません、というのは、契約を守ることが前提の社会では至極当然の対応であるし、社会規範にも一致している。

【追記と訂正】
 理由無く授業料が納付されなかった場合に校長がとれる手段として許されているのは、「登校の停止」あるいは「除籍」とのこと。中途半端に「卒業式には来てもよいが卒業証書を渡さない」はむしろダメで、「卒業式の当日に登校を停止」であればOKのはず。お役所の指導としては、「卒業諸処を渡さないのは(規則にないから)不適切だが、代わりに登校を停止するといった、明文に書かれた措置をきちんととれ」が正しいのだろう。
 いずれにしても、授業料を払わない人に何もせずそのまま卒業証書を渡す、というのが制度を壊す方に働くことは確かではないかと。

「教育的配慮」「児童を護る」といった、契約と関係のないものを持ち出して、横やりを入れることで、規範を無視してサービスを要求し、それを当然と思っていることがおかしいのである。場当たり的にルールを破ってもかまわないということを、ルールを守ることを教えるべき教育現場で示すのは、してはいけないことである。これでは、いくら「ルールは守りましょう」と唱えたって、説得力が皆無である。

 「教育的配慮があれば規範は無視でよい」「学生は護られるべきだから契約を破っても護られて当然」といった倫理観を持った学生を育ててしまうことの方が、致命的にまずいと思う。社会にそういう価値観が蔓延することの方を、私は憂慮する。それに、何だか将来のモンスタークレーマー予備軍を養成しているようにも見える。

卒業論文はそれなりの多数にとって必要

Posted on 3月 1st, 2009 in 倉庫 by apj

 むやみに「学問」を強調しないという前提での話だが。

修士論文の代わりに退学願を提出してきた」より。

単位卒業がないから,僕のいたところみたいに大学院に行っても授業は 出席だけで済んでしまう様に,授業の価値が下がります.だって,結局 論文がほぼ全てなんだから.就職予備校の気分なのに,出席するだけの授業なんて なんの為に学費払ってるのか分からないし.わけのわからない論文を書かされるのも 苦痛です.逆に,学の府として卒業したい人にとって,論文が書けないなんてあり得ないので 論文が卒業に必須なのは当たり前です.文章が書けない人間は残念ながら「学」に 残ることはできないのですから.その人にとっても出席だけで終わる様な 授業はそりゃ出る意味がありません.

だから,卒業に必要な単位数は学生で一律にしつつ,卒業論文は「必修」から 外せばよいのです.卒業論文は現状でもかなり大きな単位数(10単位とか)を 持っているので,それを取るならば授業での単位は必要最低限取得すればいいし, 逆に卒業論文を取らない人にとっては,授業を必死で受けないと卒業できない ことになります.

 文章が書けない人間は、残念ながら企業でも残ることはできないので、在学中に卒業論文を書く経験をすることに意味はある。但し、学問の業績として専門誌にのるような論文ということではなく、やったことをきちんとレポートにして他人に分かるように書き残せる、ということなのだけど。

 理系の学部の多くで必修とされている学生実験では、やるべき内容が書かれたテキストがあり、機材や試薬も全部揃った状態で実験をしてレポートを書く。レポートの書き方も、実験の目的、使用した試薬や装置、実験方法、結果、考察、といった一定のフォーマットが要求される。この場合は、説明の部分はほとんどテキスト通りに書けば仕上がるので、「型にはめる」効果はあっても、他人を意識して書くというところにはなかなか到達しづらい(それを知ってしまう学生もいるが、一部だろう)。

 卒業研究になると、テーマが個別に与えられ、必要なものが最初から揃っているわけでもないし、決まり切ったテキストがあるわけでもない。大抵は、指導教員や先輩に訊いたりしながら進めていく。
 卒業研究のテーマを出す側としては、4年生にとって敷居が高すぎず、即投稿論文になるほどのオリジナリティまでは要求しない(追試+αでもよい)が、1年でできて、本人が中身を理解できて、それなりのレポートが書けるようなテーマを毎年考えている。1年終わると、既製のテキスト通りでない手順と方法で何かをやった結果が学生の手元に残ることになる。そこで卒業論文を書くことになる。
 多くの学生にとって、既に分かりやすく説明してある本などが無い状態で自分が何をどうしたかについてまとまったものを書くという最初の訓練をするのが、卒業論文ということになる。そこで、私がいつも学生(実は博士前期の院生も含む)に言っていることは、「学部の勉強をしてきただけの今の3年生が、来年ここにきて、あなたの実験の追試をしようとしたときに、あなたが書いたものをみて、実験の意味がわかってちゃんと操作などができるように書け」ということである。推敲の時も、「学部の勉強しかしてなくて、これを読んで実験しろと言われたらあなたはできるか?何をどうしていいかわからないというのなら、それは説明が不足している」と言っている。
 学問的な意義とか価値とかにこだわる前に、他人が読んで使えるものでないと意味がない。オリジナリティ溢れるテーマを卒研でやらせる先生もいるかもしれないし、4年生で既にレベルの高い研究をやってしまう優秀な学生も居るかもしれない。しかし、多くの学生は極端に学問に秀でているわけではなく、普通に知識を身に付け、普通に企業に就職して、そこでやっていく。それに合わせた指導ということになると、泥臭いことでもいいから現場がわかるように、かっこよくなくてもいいから何も知らない人が後から来てたどれるように書け、ということになる。プロ向けの投稿論文では通常は省略されるコツやノウハウも、卒論や修論にはどんどん盛り込んでかまわない。

 会社に就職して技術系の仕事をすることになったら、どんな仕事をしてどんな結果になったかを残していくことになる。たとえ、自分が「こんなちゃちな簡単な仕事、他の出来る人達は当然わかっているはずだから残さなくてもいいだろう」と主観的に思ったとしても、レポートにして残さなければならない。会社では、部署が変わったりして、自分がやっていた仕事を全く別の人が続けることもある。その時に、使えるレポートをきちんと残してあって新しく来た人がそのレポートを元にして仕事を進めていけるようになっているか、ろくにまとめてなくて新しく来た人がまた同じ手間をかけないと状況が把握できなくなっているかで、前任者に対する会社の中の評価だって分かれる。学問的に価値のあるものでないとダメとか、レベルが高いものしか書きたくないといった、変なプライドはむしろ邪魔である。日々の仕事の区切りごとの、ちょっとずつ進んでいる部分を確実に残す方が、後の誰かの役に立つ。

 教員が4年生の研究内容を十分把握しているのは当たり前だから、教員に対しては省略した説明でも通じてしまう。しかし、それでは他の人には伝わらない。だから、4年生と大差ない知識を持っているはずの、これから卒研を始めようとする3年生を対象読者として、知っている範囲の知識やらコツやらを文章で伝達せよ、というのが、卒業論文の真の課題だと私は考えている。これができれば、会社に行って、どこかの部署で仕事をし、レポートを残し、社内の別の人に仕事を引き継ぐということもうまくできると思うからである。

 社会とのつながりに関する問題点としては、卒研や修士論文を仕上げる過程では、チームワークを教えづらいということがある。これは、大学や大学院の評価が、あくまでも学生個人に対する評価であり、研究テーマは1人1テーマで、基本的に個人で仕上げることが要求されるからである。大学は、単位認定の制度上、学生が個人で問題を解決するように仕向けているのだけど、社会では、他人の助けを借りてはいけないというルールはないということを心に留めておいてほしい。