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別の対策を強いられている件

Posted on 4月 30th, 2009 in 倉庫 by apj

 国立感染症研究所のページより。

「国立感染症研究所」を詐称したブタインフルエンザ関連メールにご注意ください

平成21年4月28日

ブタインフルエンザの流行に便乗して、「国立感染症研究所」を詐称したメールが送られているという情報が寄せられています。 当該メールは、yahooメールを使用しており、発信者欄には”国立感染症研究所 ”とあります。 発信元メールアドレスは、受信者のアドレスと同一である場合が多く、 明らかに発信者を詐称した不審なメールです。 メールには「ブタインフルエンザに関する知識.zip」等と題した添付ファイルが含まれています。 当方のウイルスチェックソフトウェアで、この添付ファイルが不正プログラム (ウイルス等)として認知されております。 添付ファイルを開くことで、メールを受けたパソコンへの不正侵入やシステム破壊のおそれがあり、 注意が必要です。 以下のような「詐称メール」を受信された方々におかれましては、添付ファイルを開かずにメールごと削除なさるようお願いいたします。

(中略)

添付ファイルは不正プログラムの可能性があり、警戒が必要です。
国立感染症研究所では、 メールはすべて “nih.go.jp” のドメインから発信することとしており、 yahooから発信されることはありません。 また、公的なお知らせはすべてWebサイト上に公開され、 メールを用いたサービスは行っておりません。

なお、国立感染症研究所では第三者中継(発信元を隠すために、関係のない第三者のサーバを中継して発信する)されないメールサーバの設定や、ウィルス感染メールを発信しないようウィルス対策をするなどセキュリティにも十分配慮しておりますが、引き続き対策を強化していく考えです。

 ヒトの感染症対策の研究をしてくれるところだと思っていたら、詐称メールによるコンピューターの感染症対策情報まで出すハメになってるとは。これからただでさえ忙しくなりそうな時に、中の人の仕事をこれ以上増やすなよな……。

不当表示・不実告知・ニセ科学

Posted on 4月 30th, 2009 in 倉庫 by apj

議論と考察のためのメモ。

○他人を騙すことに対する明文化されたペナルティ。はっきり嘘をつくことから、あいまいなことを確かであるように言いふらす、まで含まれている。
 刑法の詐欺罪、民法の意思表示を定めた部分、不法行為。取引に特化したものとしては景表法・特商法あたり。
○社会規範として「人を騙すな」があり、そのうちの一部を法で処理している。法にひかからない部分は放置ではなく、周囲の人に批判されるとか信用されなくなるといった法によらないペナルティでもって規律する(しかない)。法によるよりはゆるやかな規律である。
○一般論として、社会を規律するやり方は法だけではないが、そうでないものも連続的に法につながっている。
○社会法的制約でもって、私権を制限するのが現代法の流れである。弱肉強食にならないため、秩序維持のため。
○法の領域のむやみな拡張は弊害が大きい。合理的かつ必要な範囲でのみ法で規律する。
○特商法・景表法では、ある特定の商品の表示(宣伝)について、表示通りの効果があることの根拠が無かった場合にペナルティを与える。
○現実に取締が行われるのは、不当表示や不実告知のうちのごく一部である。特に悪質なものとか目立つものとか。全てが処罰されるわけではないし、そうするだけのリソースも社会には無い。
○個別の表示に実態が伴わない場合で、表示が消費者にとってその製品を選ぶ動機となる場合に規制がかかる。このときの理由は、ニセ科学だからという理由ではない。
○不当表示や不実告知の個別の判断をするときの運用指針は、現状の科学技術の存在をあきらかに前提とし、基準として用いている。
○表示がニセ科学であった場合、ほとんどの場合、表示を裏付ける事実はないと推定することができる(∵科学の精度がそれなりに高いから)。しかし、表示が客観的にニセ科学であるということを直接の理由とする形での法規制は行われていない。
○ニセ科学であることの立証が、取締に利用できる(利用された)場合もある。
○「ニセ科学」で括ると、法規制にはひっかからないが(法規制のハードルを越えていない・まだそこまで目立っていないなど)裏付けのない表示を行っているものを、それなりの精度で拾い出すことができる。
○法規制ではないので、「ニセ科学」であるという指摘を行うことには、何ら強制力はない。評判が落ちるとか警戒されるといった、ゆるやかなペナルティでしかない。
○強制力はないので、情報を共有してお互い気を付けましょう、似た物にも注意しましょう、間違いを広めないようにしましょう、といった、個人で対応できる範囲以上のものは出てこない。ただ、そういう意見が増えると、結果的に嘘をつきにくい社会になるかもしれない。(疑う姿勢を身に付けよう、というきくちさんの意見はこのあたりにつながってくるのだろう。)
○科学として正しいかどうか、という基準を一律に適用することは、法規制にはなじまない。法はあくまでも個別の宣伝の個別の文言について判断するという形にしかならない。∵文言を特定しないと裁判で争えない。取り締まりの行き着く先は裁判所で決着、がこの社会におけるルールである。
○裏付けのない表示を推定し、情報を共有して注意喚起することができれば、法の適用に到達する(=それなりの被害が発生する)前に被害を防ぐことができるかもしれない。
○「ニセ科学」であるということを指摘しなければならない対象の多くは、違法とされるものを取り巻いている。このため、実際に判定をした場合、それなりにはっきりニセとわかるものが多くなる。批判しやすいものだけ批判しているという意見は誤解で、たまたまターゲットの多くが明白に違法となるものの周りに分布しているから結果としてそうなるだけ。
○ニセ科学判定のグレーゾーン問題は、科学非科学のグレーゾーン問題とはほとんど関係がない。偽っていることがどれだけ明白かによって決まる。科学の方がグレーゾーンなのに「白です」「黒です」と言い張ったりするとニセ科学、科学で白なのにグレーですと言い張ってもニセ科学。表示と実態の乖離を問題にする不当表示や不実告知と同じ構造になっている。
○ニセ科学を問題にするということは、法規制には到達していない或いは法規制になじまない部分について、単に指摘や議論をすることで対応しようということでもあるので、ニセかどうかわからんような曖昧なものを無理に判断してニセとしてしまうことは、間違った情報を広めてしまうことになり、それ自体が「ニセ科学」の定義が前提としている規範にひっかかる。これによって、ニセ科学として問題にする対象がむやみに広がることに歯止めをかけている。
○産地はこう表示せよ、とか、耐震基準はこうだ、という法規制はあるが、科学的な基準はこうだ(或いは、科学についてはこう表示せよ)、という法規制はない(そんなものがもしあったら、越境もいいところだ)。科学の側からニセ物が広がらないようにするには、広く議論するしかない。ニセ物のうちの一部が不当表示や不実告知の要件を満たして法規制にひっかかる。
○社会規範を他人に強制するなといった議論は認識不足。「ニセ科学」の議論は、既に法に抵触しているものから、一歩踏み越えたら違法(現実の強制執行があることまで考えなければならないもの)というもの、直ぐには違法じゃないけどやっぱり誰かを騙してるよね、というあたりのものまでを含めて扱っている。
○「ニセ科学」の議論は、科学そのものの議論じゃなくて、科学が社会で使われる場合の議論。だから社会法学とは馴染みやすいが、科学哲学とは馴染まない(多分)。

※法律は代表的だと思ったものを例示した。バイブル本を取り締まる健康増進法は省いた。今後の立法で他にも出てくるかもしれない。
※ニセ科学の判定問題は、科学哲学とはかけ離れた、もっとテクニカルな問題になりそうだという感触を私は得ている。
※「ニセ科学」の社会規範についての議論をする場合は、現行法の立法趣旨あたり(つまりそれなりに社会の基準となっていて運用実績もあるもの)から出発すればよい。倫理のもっと深い議論はそっちの専門家に任せた方が、当面は余計なことに力を注がなくても済む。
※エントリーのタイトル通り、不当表示・不実告知・ニセ科学は、ほぼ並置されるものだというのが私の認識である。科学の表示は社会においてこうあるべき、といった法がない(法規制になじまない)から、景表法や特商法に相当するものが、科学限定では存在しないというだけ。表示と実態の乖離を問題にするという括りをすると、並んでしまう。
※この先「ニセ科学」の定義がどうなるかは私にもわからないが、どう変わろうと、上で列挙した内容は含んだ状態で、かつそれを拡張したものになっててくれないと使えないものになることは確かだろう。消費生活センターに持ち込まれるようなネタは将来にわたってカバーできるようになってないと使えない。科学哲学の方からあれこれ議論するのは自由だけど、その結果、もし使えない結論や現実と乖離した結論が出てきた場合には、その結論は捨てるしかない。
※私の立場に割と近いかもしれないのが技術開発者さんかも。きくちさんはこの手の議論はほとんどしていないはず。多分、現実の悪徳商法に向き合った経験があるかどうかの違いが出てるのかもしれない。

何か微妙に違う気がするので

Posted on 4月 29th, 2009 in 倉庫 by apj

 あらきけいすけさんの「「ニセ科学批判」批判のための覚書2、あるいはボクが「杜撰」と言ったわけ」について。
 「科学は自然の近似である」という主張についての議論。

科学をメタレベルから論じるときには語の用い方にもう少し慎重さがあっていい。

 科学をメタレベルから論じるための主張じゃなくて、「科学的じゃないからダメ」「科学だって書き換ってきたんだから、今の科学が真理とは言えないはず。だからこの(どう見てもインチキな)説だって今後科学的に正しいとされるかもしれない」「科学者は科学だけを絶対の真理だと思っている」といった言説へのカウンターとして、現実はこんなもんだということを説明しているのだから、そう突っ込まれても何とも言えない。「科学をメタレベルで論じる」ということが可能になるのは、「科学=真理」という思い込みを突き崩した後の話じゃないのかな。「科学は自然の近似である」がいささか荒っぽいのは認めるけど、これをわざわざ言わなければならない場面は、科学哲学として科学を論じるというのとはほど遠い状態なんだよなぁ。

もし「科学は自然を近似的に記述する」と書かれていたら、このセクションは無かったかもしれない。

 この表現が良ければそれでも置き換え可能だからかまわない。もう少し言葉を増やして「今の科学の成果は自然を近似的に記述したもので、それなりの精度がある」といった言い方でも別に問題はない。

この文章では「(近似された)自然」とは「科学が記述した対象」のことだよね。つまり論理的には科学的に扱ったものだけがここでの「自然」。
え?それって変、というか論理的にエラー。この文の範囲内でも「自然」の語は「科学が記述した対象」よりは広い範囲の対象を指しているはずだ。

 広い範囲の「自然」は存在していて、その中にはまだ科学が記述してないものもたくさん含まれている。「(近似された)自然」は、「自然」の一部分で、それが、これまでに科学が記述してきたものということだから、エラーでも矛盾でもない。この部分は、読んでいて、あらきけいすけさんが何を考えているのか全くわからなかった。

例えば「科学」を「ニセ科学」から区別する基準はこのステートメントからダイレクトには導けない。

 何を期待しているのかわからないけど、「ニセ科学」が「ニセ」である理由は、現状で(近似的に)得られている内容と大きく乖離した内容を根拠無しに述べているから、である。それなりの精度の高い記述方法が既にわかっているのに、著しく精度の悪い記述方法を持ってきて「こちらの方が精度が高い」などとやってるのがニセ科学なので、現実に得られている精度と、主張内容が持っている精度の違いから基準を導けば良いのではないか。もちろん、精度の差が連続分布(?)していたら、線引きはやっぱり難しいだろうけど、この線引き問題は、いわゆる従来の線引き問題とは違う種類ものじゃないかな。

だからボクは「間違っている」とは言わない。むしろ日常の感覚としては「正しい」。でも理解を深める役に立つとはとうてい思えないし、このステートメントのままでは応用も利かない。「ニセ科学」と戦う武器にならないのだ。

 ニセ科学かどうかは、主張と現実の間の乖離があるかどうかで決まるし、乖離の程度でどれだけニセかも決まる。科学の成果が自然を近似的に記述したものであれば、「今得られている科学の内容」と「そこから乖離した主張」の間で、自然を記述できる精度の違いを問題にすれば良いことになるので、それなりに使えるはずだけど。

 現状でそれなりの精度で記述できている部分について、著しく精度が悪い言説を、あたかも精度が高いように主張すると、ニセ科学だとはっきりわかる。科学の側が(科学哲学的にも)グレーゾーンで、精度がどれだけあるかはっきりしないものについて、精度が悪い乖離した主張が出された場合、びみょ~にニセというか、まあそんなにすっきりはっきりしないということになるだろう。科学の側がまだ精度を上げることができていない(グレーゾーン問題にひかかるようなものについて)すっきり精度よく記述できています、などとやった場合、やっぱりそれはニセ科学と判定することになる。

今回はかなり批判を遣り易い形で(たまたま lets_skeptic さんの)意見が出てきたんだけど、こんなことの積み重ねが「悪い印象」を与えてきたかもってことは、真剣に再検討してもいいんじゃないかな。

 「科学は真理だから」と非科学言説をやみくもに攻撃したり、「科学は真理だから」を勝手に想定してそれにむやみに反発したり科学に不信感を持ったりするよりは、「近似だ」と言ったことで起きる不利益の方がまだマシなんじゃないか。

 また、上で書いたびみょ~にニセのケースを無理に判定しようとすると、多分混乱するだけで、得られるものはない。むしろニセ科学かどうかを判定すべきじゃないんじゃないかな。間違える可能性が高そうだし。
 精度の問題にしておくと、判定しない方が良いものを判定してしまうという失敗を避けられるし、グレーゾーン問題に引きずり込まれて、実際に発生するニセ科学の被害と切り離されることも減らせるんじゃないか。

 あと、あらきけいすけさんが問題にしたlets_skepticさんの2009年4月24日 (金) 09:30のコメントを私がスルーした理由は、科学哲学の問題としてこの問題を考えるつもりが最初から無かったからである。だから、一緒になって科学哲学批判をやろうともせず放置しておいた。なお、私のコメントは、私の立場の表明や背景の説明だったり、現実に何が可能であるかを述べただけであって、科学哲学についての議論はしていない。

 なお、ニセ科学に関する議論は科学哲学からは当面は切り離しておいた方が良さそうに思う。定義を試みたら、科学哲学じゃなくて社会規範とか法学が混じってきそうだという理解に至ったし、ニセの程度は現状の科学の状況とニセ科学言説の内容の間の乖離の程度で判定すればよさそうだし。科学の現状の方がグレーゾーン問題も含めて将来どうなるかは、今やった方がいい判定とはさしあたり関係が無さそうだし。

豚インフルエンザにホメオパシーは効果無し

Posted on 4月 29th, 2009 in 倉庫 by apj

 ホメオパシー体験談紹介より。

まず免疫を低下させるワクチンを接種しないこと、急性の発熱症状などを薬剤で抑圧しないことが大切です。
YOBOキットから、インフルエンザに合うレメディー、インフルエンザイナム、オスシロシコナイナム、ユーパトリューム、ジェルセミュームなどで予防プログラムを実行すること、Rx Chroni-inf、ウィンターセット、サポートHaiなども、万一に備え用意されておくとよいでしょう。
またインフルエンザの特効薬になるのではないかと昨年秋に沖縄の新聞や週刊誌で取り上げられ話題になった沖縄の栴檀(センダン)から作られたレメディーがあります。豚インフルへの効果のほどは、わかりませんが、ご希望の方は、ホメオパシージャパンまでご注文ください。

 ホメオパシーの効果は「気のせい」であって、豚インフルエンザだけではなく、他のインフルエンザにも感染症にも効果はない。ホメオパシーに頼るのは、「何もしない」を選んだのと同じことである。

 「まず免疫を低下させるワクチンを接種しないこと、急性の発熱症状などを薬剤で抑圧しないことが大切です。」というのは、「何もしないほうが望ましい」という「デマ」を広めていることに他ならず、公衆衛生にとって大きな問題がある。

 それ以前に、効果があるかないか分からないと自分で言っておきながら売りつけようとしているあたりが、商道徳としてどうなんだ、とも思うが……。

 ともかく、感染症対策にはこれまで十分な蓄積があって、ホメオパシーはその中には含まれていない。微生物学の標準的な教科書を見たって、微生物に影響を及ぼす方法としてホメオパシーは全く登場していない。

○豚インフルエンザについての信頼できる情報はCDCのサイトを参照。
○日本語での信頼できる情報は、厚生労働省のトップページを参照。

 これまでの報道の様子からみて、今後、マスコミの報道が危険を煽る方向にいくかもしれないし、センセーショナルな内容ばっかりが選ばれて報道されるかもしれないので、上記2つを確認する方が良さそう。

【追記】
 効果無し、どころじゃなかった。New York Timesの記事

But one important factor may be the eclectic approach to health care in Mexico, where large numbers of people self-prescribe antibiotics, take only homeopathic medicine, or seek out mysterious vitamin injections. For many, only when all else fails do they go to a doctor, who may or may not be well prepared.

 メキシコで新型インフルエンザの死者が増えている理由の1つとして、ホメオパシーに頼って治療が遅れたことが示唆されている。

「教育的配慮」を叩き潰せ

Posted on 4月 29th, 2009 in 倉庫 by apj

 ちょっと参考になる記事が出てきたので。

教育現場の指導に指針 体罰めぐる最高裁判決
4月28日11時59分配信 産経新聞
 男子児童の胸元をつかんで叱る行為を体罰にあたらないとした28日の最高裁判決は、教員が萎縮(いしゅく)するあまり、厳しい生徒指導をためらう傾向がある教育現場の実情に配慮した判断といえ、影響を与えそうだ。

 授業中に騒いだ児童を廊下に立たせるといった指導は体罰や人権侵害だと批判され、授業中にメールをしていた生徒から携帯電話を取り上げただけで保護者らから抗議を受けることもあるという。こうした状況から、“モンスターペアレント”という言葉すら生まれた。

 学校教育法11条には「児童に懲戒を加えることはできる。ただし、体罰を加えることはできない」とある。しかし、「ただし書き」の「体罰」の基準は不明確だった。基本的な考え方は、昭和23年の法務庁長官回答にさかのぼる。体罰を「懲戒の内容が身体的性質のものである場合」と定義。「身体に対する侵害を内容とする懲戒(殴る、けるの類)が該当することはいうまでもないが、被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒もまたこれに該当する」としていた。

 政府の教育再生会議は平成19年1月、体罰の基準見直しを求め、これに呼応して文部科学省は同年2月、肉体的苦痛を与えるものでない限り放課後の居残り指導や授業中の教室内での起立命令を体罰としない、と全国の都道府県教委などに通知した。しかし、基本的には昭和23年の枠を出ていない。

 もちろん最高裁判決は「殴る、ける」や「肉体的苦痛」を容認したものではなく、体罰の定義も示していない。しかし、許される行為を明示し、体罰か否かを判断する要素として「目的、態様、継続時間」を挙げたことは、指導に戸惑う教育現場にひとつの指針を与えるものになりそうだ。

 生徒側が教育現場で実社会並の権利主張をするのなら、ペナルティの与え方も実社会並にしないとバランスが取れない。大人の社会で同じことをすれば、民事なり刑事なりの事件になるようなことでも、これまでは、教育的配慮の名の下に教師が叱って済ませてきたのではないか。生徒側が権利主張でもって教師の与える罰を排除するなら、あとは、問題を起こした生徒をどんどん通報して警察の手に委ねるしかなくなる。教育的配慮を理由に甘い措置をせよと言うのは、学校を無法地帯にせよと言っているのと同じことになるだろう。実社会並、つまり学外の基準を適用することにしても、家庭裁判所があったり少年法があったりするので、社会の側の配慮は既に存在する。

 体罰に関する回答があったのが昭和23年で、最近になって体罰を法的問題とするようになってきたということは、法に現場を合わせようとし始めたということではないか。それならば、他の部分も全部合わせないと一貫性を欠く。

 最高裁が教師の叱り方を決める時代になったのだから、ペナルティを与える場合に「教育的配慮」で教師を縛るのはもはや時代後れではないか。教師が従うのは「法」のみでいいし、そうでなければ身を守れない。教育現場での徹底的な権利主張は、教育現場を徹底的に法で規律せよという主張に他ならないのだから。

※いじめの問題にしても、学校側が口頭で注意するとか当事者を引き離す(可能なら)という措置をした後は、どんどん当事者に証拠開示して、後は当事者で損害賠償請求でも何でもやってくれ(学校側は知っていることを全部述べる)、とした方が、学校も余計な責任を問われなくてすっきりするかもしれない。これまでは、その手の事件を不祥事と考えて隠したがっているように見えるが、隠すと却って危険だろう。また、下手に調査をしたら、今度は生徒に対する配慮を欠いたと苦情を言われかねない。

【追記】
 酔うぞさんのコメントによると、今回のケースは、
(1)学校の業務が停滞する、猛烈なクレーム
(2)教師に対する刑事告発
とセットだったという話である。コメント欄にも書いたが、私の主張は、(1)については業務妨害を理由に刑事や民事の手続を親に対してとれ、ということで、(2)については誣告を理由に逆告訴してついでに民事で損害賠償もとれ、ということ。こういうことをためらわずにやらなければならない時代になっているし、また、そうすることに対して教育現場だからという理由で横やりを入れるのはまずい、ということも同時に主張していかなければならないんだろうなぁ、と考えている。

目の前にあるのはな~に?

Posted on 4月 28th, 2009 in 倉庫 by apj

 学生実験の季節。

学生「(教科書を開いて)スクロースの旋光度ってこの値でいいんですか」
私「アタシゃスクロースじゃないからその値でいいかどうかなんぞ知らん。で、キミの目の前にあるのは旋光計であそこにあるのは自由に使える実験用スクロースだ」

 ……まあ、一度測定してみて教科書通りの値になるかどうかをチェックすれば、実験操作が適切かとか装置がちゃんと動いてるかとかもチェックできるよ、と。

他人を騙してはいけないという規範

Posted on 4月 24th, 2009 in 倉庫 by apj

 ニセ科学の定義の中に、人を騙してはいけない、という規範が含まれているということは既に書いた。
一方で、SFなどのフィクションも読者を騙すし、うまく騙したことが良く評価されることもある。また、善意でつく嘘というのもあったりする。このあたりを整理してみる。

 なぜ「人を騙してはいけない」を規範にするべきかというと、人は万能ではないので、必ず誰かの行為を信頼して暮らしていて、それで社会が回っているからである。
 八百屋や魚屋で買い物をする時は、商品の札と商品が一致していて、値段相応のものを売っていることを信用して買う。もし、八百屋や魚屋が騙し放題だということになったら、買う前に商品をいちいち消費者がチェックしないと安心して買えないということになる。野菜の新鮮さ程度だったら葉っぱの様子を見れば素人でもわかるが、怪しいルートで購入したものでこっそり使用禁止になった農薬が使われてて残留してます、なんてことになったら、見つけ出すには高価な分析装置とそのための知識が要る。魚の新鮮さは魚の目などを見ればわかるが、産地偽装をされていたら、仕入れ元までたどらないと説明通りの品かどうかがわからない。
 人は騙してもいい、騙される方が悪いのだということになったら、各個人で、いちいち真偽を確認しなければならなくなって、判断のためのコストが跳ね上がることになる。それを怠ると、不当に財布の中身を奪われることになる。こんなことにならないためには、「人を騙してはいけない」という規範にみんなが従った方が良いだろう。

 もちろん、人のすることだから、ついうっかり騙してしまった、ということは起こる。この場合でも、人を騙してはいけない、という規範が機能していれば、無料で野菜を取り替えるとか、次から間違った札を貼らないように気を付けるといった対応がなされるだろう。決して、「騙したっていいじゃないの、細かいこと言うなよ」とはならない。

 こう考えると、SFの擬似科学が人を騙すのと、ニセ科学が人を騙すのは、全く別だということがわかる。SFの擬似科学に騙された場合には、騙される人が了解済みだというだけではなく、騙された結果他人の行為に対する信頼が壊れて真偽の判断のためのコストが上がるということは起きない。アイドルだって、姿形その他で観客を騙して楽しませているが、このことによって、真偽の判断のためのコストの上昇は起きたりはしない。一方、ニセ科学は、他人の行為に対する信頼を壊す原因となる。

 「人を騙してはいけない」という規範の意味は、人を騙すことによって、他人の行為への信頼を前提にして回っている社会を壊すからまずいという意味である。逆に言うと、他人の行為への信頼を壊さない嘘に対してまで、杓子定規に「人を騙してはいけない」という規範を適用する必要はないだろう。たとえば、善意から出た個人間の嘘なんてのは、社会規範の問題というよりも文学で取り扱う主題である。

 じゃあ、なぜ「ニセ科学」という括りを設けたのかというと、他の騙しについては既に別の括りで名前がつけられ社会的対応がなされていたけど、科学を騙った嘘についてはたまたま残っていたからではないか。産地偽装、消費期限偽装、耐震強度偽装等々と呼ぶよりはやや広い括りで、しかしこれらと並記される位置に、「ニセ科学」があるのだろう。

七田眞氏逝去

Posted on 4月 23rd, 2009 in 倉庫 by apj

http://blog.livedoor.jp/shichida1112/archives/1253907.html

 お元気そうな印象があったので、ちょっと驚いた。七田式は今後どういう展開になるのだろう。
後継者は居るだろうか……。
 4月17日のエントリーが最終ということなのか。

社会規範の部分でひっかかっただけでは

Posted on 4月 23rd, 2009 in 倉庫 by apj

 「こんな説明ではいかが?」へのコメント。

 また、「ニセ科学批判」が、ニセ科学を批判する事を目的とするならば、「ニセ科学批判批判に対する対処」はその範疇に無いはずである。
 しかし、ニセ科学に対する態度と同様(もしくはそれ以上に)皆鋭敏に反応する。その有様が他者に与える印象の問題は先に述べたものと同様である。

 ニセ科学の定義の中に「科学を装う」が入っていて、これは「ウソをついてはいけない」「不確かなことを言いふらしてはいけない」といった社会規範を含んでいる。ニセ科学を問題にするということは、他の多くの人達が「ウソでもまあいいのでは」「不確かに対して細かいこと言うなよ」と、ニセ科学を抵抗なく受け容れているときに「いや、それはやっぱり問題だ」と言わなければならないということである。であるならば、ニセ科学を問題とする人達は、そうでない人達よりも「ウソをついてはいけない」「不確かなことを言いふらしてはいけない」といった社会規範に対して敏感、あるいは規範を重んじる事が多いのだろうと考えられる。
 「ニセ科学批判批判」は、批判対象が具体的でなかったり、実際にニセ科学を問題にしている特定の人にあてはまらない内容を含んでいたりすることがほとんどだったので、特に、「ウソをついてはいけない」「不確かなことを言いふらしてはいけない」という社会規範に触れていることが目に付きやすかったというだけの話じゃないだろうか。

 「ニセ科学批判批判」をするのなら、最低でもニセ科学の定義は知っていないとできないし、知っていれば定義の中に「ウソをついてはいけない」「不確かなことを言いふらしてはいけない」という規範が含まれていることもわかるはずである。これらの規範を重んじている人達について論じる際に、これらの規範に触れる或いはこれらの規範を軽視する内容を書いて公表したら、内容について糺されるのは当然の帰結だろう。これまで見た限り「ニセ科学批判批判」は、批判対象にしている人達が尊重しているであろう社会規範を最初から無視するという態度に出ている。熟慮の上でその社会規範に反対の立場をとった、というのではなくて、ただ単に考慮していないように見える。

 なお、「批判の仕方が他人からどう見えるか」という論点を取り上げる人はこれまでにもたくさんいた。しかし、ニセ科学蔓延の原因の1つが規範意識の低下であることまで考えれば、「ニセ科学を問題にするときは他人の視線を考慮せよ」と主張するということは、情報伝達の技術の問題として論じたのでなければ、「社会規範を重んじるよりも、その場の空気を重視すべきである」と主張しているのだということになる。世間の「空気」が「不確かでもまあいいか」であることは、ニセ科学が広く流通していることから明らかである。そして、ネットでの議論の殆どは、空気を重視することも大事な顔見知りの間でなされたものではない。「ニセ科学批判批判」で、他人の視線を気にせよと言った人は、純粋に表現技術の問題として議論したのでない限り、「社会規範よりもその場の雰囲気が大事」という価値観の持ち主であったと考えざるを得ない。このことを自覚してもらいたい。

 もし、「社会規範よりもその場の雰囲気が大事」という自らの価値観を正面から認めず、心の奥底に隠したままで、「ニセ科学批判」なるものを想定し、自己正当化のために「ニセ科学批判批判」をしているのだとしたら、意識的であろうと無意識的であろうと、醜悪だと思う。ニセ科学の定義が含んでいる社会規範は既にある程度明らかになっているのだから、「ニセ科学批判批判」をすると自称するのなら、まずはその背景となっている価値観を明らかにされたい。

【追記2009/05/02】
 このエントリーは後日、一部撤回するかも。
 社会規範の側が「騙してもかまわない」となっても、ニセ科学の定義で引っ掛かるものに違いはないだろうということをPseuDoctorさんが指摘しておられて、私もその通りだと思ったので。
 近日中にニセ科学まとめでも書こうかと思っているので、その時に反映させるつもり。

二十七?それとも三十三?

Posted on 4月 23rd, 2009 in 倉庫 by apj

 日本海新聞の記事より。

琴桜像の顔に下着 市長が発見、カンカン 倉吉
2009年04月21日
 鳥取県倉吉市東仲町の琴桜赤瓦観光駐車場に建立されている、同市名誉市民で第五十三代横綱琴桜関(前佐渡ケ嶽親方)の銅像の顔に女性用下着がかぶせられているのを二十日、長谷川稔市長が発見した。銅像は市の観光の顔と言える場所にあり、二十六日には琴桜関を顕彰する桜杯争奪相撲選手権大会(桜ずもう)も予定されていることから、長谷川市長は「市の誇りをばかにされた」とカンカンだ。

 銅像は琴桜関の不知火型土俵入り姿で、高さは約二・二メートル、台座も含めると三・七メートルにもなる。佐渡ケ嶽親方時代の一九九九年四月に市民有志らの手で建てられた。

 登庁途中の長谷川市長が二十日午前八時二十分ごろ、像に下着がかぶせられているのを見つけた。十九日午後五時半ごろに近くの観光案内所の職員が前を通った際は異常に気付いておらず、十九日夜から二十日朝にかけての犯行とみられる。

 二十六日に桜ずもうの開催を控えたタイミングでの悪質ないたずらに、長谷川市長は「いたずらの範囲を超えている。許されないこと」と激怒している。

 通報を受けた倉吉署では軽犯罪法に当たるとみて調べるとともに、市などと連携して再発を防止することにしている。

 画像はこれ。
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 軽犯罪法第一条は、

第一条
 左の各号の一に該当する者は、これを拘留又は科料に処する。
一 人が住んでおらず、且つ、看守していない邸宅、建物又は船舶の内に正当な理由がなくてひそんでいた者
二 正当な理由がなくて刃物、鉄棒その他人の生命を害し、又は人の身体に重大な害を加えるのに使用されるような器具を隠して携帯していた者
三 正当な理由がなくて合かぎ、のみ、ガラス切りその他他人の邸宅又は建物に侵入するのに使用されるような器具を隠して携帯していた者
四 生計の途がないのに、働く能力がありながら職業に就く意思を有せず、且つ、一定の住居を持たない者で諸方をうろついたもの
五 公共の会堂、劇場、飲食店、ダンスホールその他公共の娯楽場において、入場者に対して、又は汽車、電車、乗合自動車、船舶、飛行機その他公共の乗物の中で乗客に対して著しく粗野又は乱暴な言動で迷惑をかけた者
六 正当な理由がなくて他人の標灯又は街路その他公衆の通行し、若しくは集合する場所に設けられた灯火を消した者
七 みだりに船又はいかだを水路に放置し、その他水路の交通を妨げるような行為をした者
八 風水害、地震、火事、交通事故、犯罪の発生その他の変事に際し、正当な理由がなく、現場に出入するについて公務員若しくはこれを援助する者の指示に従うことを拒み、又は公務員から援助を求められたのにかかわらずこれに応じなかつた者
九 相当の注意をしないで、建物、森林その他燃えるような物の附近で火をたき、又はガソリンその他引火し易い物の附近で火気を用いた者
十 相当の注意をしないで、銃砲又は火薬類、ボイラーその他の爆発する物を使用し、又はもてあそんだ者
十一 相当の注意をしないで、他人の身体又は物件に害を及ぼす虞のある場所に物を投げ、注ぎ、又は発射した者
十二 人畜に害を加える性癖のあることの明らかな犬その他の鳥獣類を正当な理由がなくて解放し、又はその監守を怠つてこれを逃がした者
十三 公共の場所において多数の人に対して著しく粗野若しくは乱暴な言動で迷惑をかけ、又は威勢を示して汽車、電車、乗合自動車、船舶その他の公共の乗物、演劇その他の催し若しくは割当物資の配給を待ち、若しくはこれらの乗物若しくは催しの切符を買い、若しくは割当物資の配給に関する証票を得るため待つている公衆の列に割り込み、若しくはその列を乱した者
十四 公務員の制止をきかずに、人声、楽器、ラジオなどの音を異常に大きく出して静穏を害し近隣に迷惑をかけた者
十五 官公職、位階勲等、学位その他法令により定められた称号若しくは外国におけるこれらに準ずるものを詐称し、又は資格がないのにかかわらず、法令により定められた制服若しくは勲章、記章その他の標章若しくはこれらに似せて作つた物を用いた者
十六 虚構の犯罪又は災害の事実を公務員に申し出た者
十七 質入又は古物の売買若しくは交換に関する帳簿に、法令により記載すべき氏名、住居、職業その他の事項につき虚偽の申立をして不実の記載をさせた者
十八 自己の占有する場所内に、老幼、不具若しくは傷病のため扶助を必要とする者又は人の死体若しくは死胎のあることを知りながら、速やかにこれを公務員に申し出なかつた者
十九 正当な理由がなくて変死体又は死胎の現場を変えた者
二十 公衆の目に触れるような場所で公衆にけん悪の情を催させるような仕方でしり、ももその他身体の一部をみだりに露出した者
二十一 削除
二十二 こじきをし、又はこじきをさせた者
二十三 正当な理由がなくて人の住居、浴場、更衣場、便所その他人が通常衣服をつけないでいるような場所をひそかにのぞき見た者
二十四 公私の儀式に対して悪戯などでこれを妨害した者
二十五 川、みぞその他の水路の流通を妨げるような行為をした者
二十六 街路又は公園その他公衆の集合する場所で、たんつばを吐き、又は大小便をし、若しくはこれをさせた者
二十七 公共の利益に反してみだりにごみ、鳥獣の死体その他の汚物又は廃物を棄てた者
二十八 他人の進路に立ちふさがつて、若しくはその身辺に群がつて立ち退こうとせず、又は不安若しくは迷惑を覚えさせるような仕方で他人につきまとつた者
二十九 他人の身体に対して害を加えることを共謀した者の誰かがその共謀に係る行為の予備行為をした場合における共謀者
三十 人畜に対して犬その他の動物をけしかけ、又は馬若しくは牛を驚かせて逃げ走らせた者
三十一 他人の業務に対して悪戯などでこれを妨害した者
三十二 入ることを禁じた場所又は他人の田畑に正当な理由がなくて入つた者
三十三 みだりに他人の家屋その他の工作物にはり札をし、若しくは他人の看板、禁札その他の標示物を取り除き、又はこれらの工作物若しくは標示物を汚した者
三十四 公衆に対して物を販売し、若しくは頒布し、又は役務を提供するにあたり、人を欺き、又は誤解させるような事実を挙げて広告をした者

 女性用下着を銅像にかぶせたことを「公共の利益に反してみだりにごみを捨てた」と解釈するのか。それとも、「はり札」と解釈するのか。この場合はどっちなんだろう?