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くだらん、現場に降りてこい

Posted on 4月 17th, 2009 in 倉庫 by apj

 「イノセント」への言及。
poohさんのところの「スタンス」のコメント欄経由。

「ニセ科学批判」は科学の世界の一部に居続けるつもりなのか、
それとも言論の世界に足を踏み込みたいのか?

 このレイヤーで話をしている限り、話がかみ合うことは無いだろう。「ニセ科学批判」は「現実の社会で行われる品質管理」だ。言論は手段に過ぎない。

現実的には、「ニセ科学批判」は既に足を踏み入れている。
問題は、それを自覚しているのか、それともうっかり内輪のラインを踏み外してしまっただけなのか、という事。

 うっかりも何も、私は裁判所で争うことになったし、左巻さんだって「訴えてやる」の脅しなんかしょっちゅうだったはず。科学の側からニセを否定する論文を書いた途端、名前を騙って実験機材を注文されるという、業務妨害を喰らった人だって知っている。

 その上で、方々のニセ科学批判側のblogに「謝罪表明」と称してTBを送り、この顛末の周知に励みます。
 これが、ニセ科学批判に対するどういう印象を生むかは想像が付くでしょう。

 きっと、ニセ科学批判側は慌てて、もう一度議論のテーブルにつくよう説得を始めるでしょうし、あるいは、そのあてつけがましい行為に対し遺憾の意を表明し始めるでしょう。

 それに引っ掛かる人はその程度の読解力だということだろう。「言論の世界」で生きるなら、無意味な謝罪をすると、謝罪した側のダメージの方が大きい。なお、私は以前、finalventさんと議論したとき、finalventさんの謝罪発言を明文で却下したことがある。この手のやり方に対しては「理解を深めるための議論に謝罪は不要であり、謝罪することは論者として不誠実」と、はっきり却下すれば済む。

 でも、言論の世界なら「言論の自由の侵害、言論統制」はかなり強力なネガティブカードです。
 それを押し付けられ、上手く対処できなければ「負け」。
 『ニセ科学批判』は“独裁的な恐るべき思想形態”のレッテルを貼られ、捨てられるハメになります。

 詐欺に引っ掛かって経済的に損害を被ることを防ぐ、という実用部分があるので、思想形態云々という議論は意味を持たない。現実に発生する損害を議論でごまかすのは無理なのでね。

【追記】
 言論統制や言論の自由の侵害など、そのへんのblogに書いているだけじゃ不可能なのは誰が考えてもわかること。そういう言いがかりを付ける人は、法的センスの無さを笑われて終わるので問題無い。

【追記その2】
 「ニセ科学批判」そのものにレッテルを貼る試みは多分失敗するだろう。現実に存在するものは、個別の「水伝批判」「マイナスイオン批判」といったものでしかない。そこから共通に括り出せるものを、さしあたり「ニセ科学批判」と呼んでいる。だから、「ニセ科学批判」にどういうネガティブイメージが貼られようが、個別の「水伝批判」「マイナスイオン批判」等々にはほとんど影響しない。逆に、「ニセ科学批判」にいかにポジティブイメージがあろうが、個別の「水伝批判」「マイナスイオン批判」等々の中身がお粗末だったら、その批判は力を持たないし、逆に批判に晒されて終わる。個別の議論に踏み込めば、「思想形態」などという抽象的な部分での評価は役立たない。

 でも、『ニセ科学批判』の皆さんが踏み入れようとしている世界は、そういうところなんです。
 ついでに言えば、ネガティブカードやポジティブカードの価値ははっきりは決まっていません。
 その価値もまた、いわば「舌先三寸」で変動するのです。

 「ニセ科学批判」という、個別の事例を離れた抽象的な、あるいはメタな部分のみで議論するという範囲に限れば、舌先三寸の世界になるかもしれない。が、個別の批判の価値や意義は、個別の事例をどう取り扱うかで決まるので、個別事例を離れた「ニセ科学批判」がイメージダウンしようが、あまり関係が無い。

おそらくは、菊池先生や天羽先生は、そういうドロドロした世界である事を熟知した上で足を踏み入れていると私は感じています(特に天羽先生は、この世で一番ドロドロした所にまで攻め込んでいる)。
 また、教育者ですから、「合理的に判断する事」と、「合理的な判断に価値が有る事を教える事」が全く違うのも分かっているでしょう。

 しかるに、どうでしょう?
 他の皆さんは、そんな自覚があるでしょうか?

 踏み込みの度合いに応じてそれぞれの人が覚悟を持っていればいいだけのこと。私はたまたま、社会できっちり争うところまでやっているけど、そうすることを、ニセ科学に批判的な意見を持つ人全員に求めるつもりはまったくない。また、若い人相手に話をするときは、「批判側に居ると提訴されて時間と金をかけなければならないリスクがあるから、経済的に耐えられるようになるまでは、やばいところまでは踏み込むな」と言っている。

 社会に何か「良くないこと」があったとして、良くないことを正面から解決しようとして紛争覚悟で行くのも1つの手だけど、「見て見ぬふりをしない」「小さい声でも、それは良くない、と言う」大勢の人達の存在は結構大事なのだ。そういう人達が大勢いれば、だんだん「良くないこと」をしづらくなる。そして、その方が、問題解決のコストは多分安い。

 進むも地獄、退くも地獄、こんな世界に足を踏み入れてた事、認識していましたか?

 勝手に問題設定をするな。
 見て見ぬ振りはしたくない、とか、小声しか出せない・出す勇気が無いけど抗議をしたい、という人に対して、行為と釣り合わない覚悟を求めても意味がない。

 「こんなスレまくった話、聞きたくもない」って思った人。
 そんなあなたは多分イノセントな人です。

 「そうだよね、そんな人いて実際困ってる」って思った人。
 そんなあなたも多分イノセントな人です。
 そういう人に限って、自分が見えてないものです。

 私にはJudgementさんの主張の方が、現実の社会を踏まえていないイノセントな発言に見えるのだけど。

【追記】
 最初の方に、言論は手段に過ぎない、と書いたけど、実際、言論だけで済むならその方が圧倒的に安上がりである。
 言論だけじゃ済まなかった神戸の裁判の例だとこんな感じ。実際に磁気活水器を購入し(19万8000円、師匠と折半)、通した水とそうでない水の表面張力や赤外吸収やラマン散乱を測定した(それぞれの測定器、数百万円から1千万円以上の値段)。実験のために、専門にやっている研究者やら院生やらが半日以上費やした。これ、裁判のうちで言論だけじゃなかった部分(作文した書証のやりとりを越えた部分)ね。これだけでもblogの維持費なんかより遙かにコストがかかっている。
 実験抜きで訴訟手続きを進めるのは、言論の世界っちゃー言論の世界だけど、blogであれこれ書いているだけよりは、圧倒的にコストもリスクも大きい。
 まあ、言論の世界だけを取り出して議論しようとするからおかしな話になるのだろう。ニセ科学に対する対抗策は、言論だけで閉じてはいない。言論で足りなきゃ手間とコストをかけて実証することになるのだけど、職業でやってる人以外はそこまではなかなかできないから(職業でやってたって不必要なリソースは投入したくないし)、言論で済む分は言論で済ませる方がいい。

【追記その3】
 TAKESANさんのところにもコメントしたのだけど、スポーツに例えると分かりやすいかも知れない。
 「スポーツをすることについて語り合いましょう」というエントリーとか掲示板スレがあって、みんな話題に参加しているのだけど、抽象的な概念である「スポーツ」をしている人は誰もいない。参加者は、それぞれ、野球とかテニスとかサッカーとかジョギングとか、その他たくさんある個別の種目のうちの1つ以上を楽しんでいる人達だ、という状況。
 個別の種目について、各自の練習法法や上達のコツについて語り合っている状態を指して「スポーツをすることを話題にしている」と言えるし、「スポーツ」という概念も確かにあるんだけど、でも実際には個別の種目の話だよ、という感じ。
 「ニセ科学批判が流行ってるよ」というのは多分「最近○○市ではスポーツが盛んだよ」というのと質的には同じなんだろう。詳しく聞いてみると「少年野球のチームの数が倍になった」「テニススクールの練習生が増えて前はがら空きだった市営コートはいつも満杯だ」「早朝ジョギングをしている人が増えている」といったことが起きていることがわかったりする。ニセ科学批判だと、「この三ヶ月で○○(個別のニセ科学)を取り上げる週刊誌が相次いだ」「はてブで目立つエントリーの半分位がニセ科学(のどれか)の話題だ」などということになるんだろう。

品質管理に哲学や思想性を求められても困る

Posted on 4月 17th, 2009 in 倉庫 by apj

 疑似科学批判批判批判批判への言及。
 poohさんのところでも「スタンス」というエントリーが上がっている。これ経由で少し考えてみた。

 言及先は、mzsmsの雑記「疑似科学批判・批判」をきっかけにして起きた議論について、mzsmsさんの立場からの意見である。

 mizusumashiさんの主張を端的に言えば、「ニセ科学批判は論理実証主義者に志の高さを感じる自分にとって物足りなく感じられる」という事を言っているだけだ(詳細は本文を読んでください)。

 それはわかるのだけど、論理実証主義と比べるような内容がニセ科学批判に含まれているか?というと多分無いだろう。ニセ科学批判は、科学の側からのちょっと広い意味での品質管理の1つだから。
 供給側(=科学者)以外がニセ科学批判をするケースについては、消費者側が生活の知恵として粗悪品に注意という情報を共有する活動をしている、というのと同じになる。以下、供給サイドについて書いたけど、消費者側が自発的に同じ行動をとることもあるので、それも含めてほしい。

 例えば、きちんと火をつけられるマッチと、ろくに火がつかない粗悪品のマッチが両方市場に出回っていたら、まともな製品を作っている企業は、粗悪品が出回っていることに対して何らかの対策をとるだろう。最後まで使えるエンピツと、使っていると芯が折れやすくて大部分が無駄になるエンピツの両方が市場に出回っていたら、いい製品を作っている側が、消費者に対して注意喚起をしたりするんじゃないかな。
 ニセ科学批判って、いい方の製品を作っている会社が、「業界団体を作って品質向上に努め、業界として品質検査の基準を決め、検査に合格した品質保証のある製品にはこのマークやシールを貼ることにしました」とか「よく似た粗悪品に注意!ココが違います」といった宣伝をするのと同じ事をしているだけだろう。そういう行為って、かなり実用的なところから出てきたもので、そもそも論理実証主義者の主張や姿勢と比較する対象になるとは思えないのだけど。

 「ニセ科学批判」という先鋭的な概念に、あえて古典のような「論理実証主義者」を比較し、しかも「論理実証主義者」が勝っている、と評価するのは非常に面白い観点だし、話の組み立ても筋が通っていると思う。

 そんな比較が成立可能な内容がニセ科学批判に含まれていたっけか?と、ポカーンなんだけど。TQCに取り組んでたら、論理実証主義者と比べて劣っている、と批判されたというか。
 粗悪品が出回ってて放置しておくと業界の信用が落ちそうだから何とかしましょう、ってな話は、尖鋭でも何でもない、昔からあった話ではないかと。たまたま、「商品」の内容が科学だから目新しいというだけであって。

 「排斥しようとしている側が、排斥の対象を決める線を自分で引いている」と言うのは一つの事実であり、それをしてmizusumashiさんのように「セクショナリズム」を感じる人がいて当然だと思う。
 何より“そこだけを見れば”まさに「セクショナリズム」そのものだったりするし、“どこを見れば”「セクショナリズム」でない事が分かるのか、分からないのだ。

 粗悪品に注意、という宣伝をする供給側の行為って「セクショナリズム」なのか?あるいは、消費者側が「この製品は要注意」とお互いに注意しあう行為は?私には、この状況で「セクショナリズム」を持ち出すことそのものが理解できない。

 ...疑似科学批判の方々は、「何くだらんことをネチネチ問題にしているんだ」と思うかもしれないが、私だって重箱のスミをほじってまでケチ付けたいのではなく、私も本気でどう捉えて良いのかわからなくて迷っているのである。

 私の方は、「セクショナリズム」が成立するための条件がわからなくて困っている。誰か教えてほしい。確かに、「セクショナリズム」というのは、お役所の縦割り行政の弊害とかタコツボ化みたいなネガティブイメージを伴う言葉だけど、そう言われて不快を感じる以前に、理解ができない。
 折れまくるエンピツや火の付かないマッチが出回っていることに供給側からクレームを付ける行為を「セクショナリズム」と呼ぶ、という主張なのだろうか。私には、こういう場合の供給側の粗悪品排除の対応が「セクショナリズム」と呼ぶべきものとは思えない(が、これは私の言葉の理解が不足しているからかもしれない)。消費者側から「粗悪品が混じっている」と指摘することについても、やっぱりセクショナリズムとは呼ばないと思う。ともかく、今は、一体何をやると「セクショナリズム」になるのかがわからない。

 もしかして、mizusumashiさんは、ニセ科学批判には枠組みがあるという壮大な誤解に基づいて、論理実証主義と比較可能だという前提のもとに論じてしまったということではないの?

 Judgementさんの質問に対する私の答えを書いてみる。

「ニセ科学批判」とは何か?

 上に例として出した、火の付かないマッチや芯が折れまくるエンピツが市場に出回っているのを、良質な製品を供給できるメーカーが改善しようとする行為である。あるいは、消費者が粗悪品をつかまされないよう自衛するために情報を共有しようとする行為である。但し、この場合の製品は、マッチやエンピツではなく科学である。

何か目的があるのか?誰を対象にアナウンスしているのか?

 供給側の市場における品質の管理を全うする目的。健全な市場を生み出すために、品質管理能力のあるメーカーが他社製の粗悪品を排除するための活動をするのと同じ。消費者が自発的にやることもある。アナウンスの対象は、商品のユーザー。

ニセ科学批判者が「ニセ科学批判では」と語る文脈において、何を想定しているのか?

 個別の人達がそれぞれ想定している「ニセ科学」と「批判」。

「ニセ科学批判」として包括して捉える事がいいのか悪いのか?

「ニセ科学」は「科学を装うが科学でないもの」という定義で大体足りているので、包括は可能。「批判」の方は行為を指すから、包括できるとしても「単に批判的な言論がある」という以上のことは言えない。「批判」という単語が最初から含んでいる意味よりも絞るのは多分無理。

【追加分】

 「一派とみなすのは全くの間違い“という事にしたい”」というニセ科学批判側の欲求を察する事はできるけれど、これはあまりにも一方的ではないだろうか。

 というよりも、「ニセ科学批判批判」側が書いている内容を見て、「私にはあてはまらない」と思う度に、毎回毎回毎回毎回「違うスタンスの人がここに居ますよ」と議論しにいくのは、はっきり言って手間がかかるし面倒くさい。説明しにいくことが必要ならばサボるつもりはないけれど、「ニセ科学批判まとめ」を見た結果、ニセ科学批判一派の存在を仮定した議論は無意味だとわかってくれる人が出てくれば、それだけでも、「違うスタンスの人がここに居ますよ」をやる回数が減る。その分、他のことに労力を使える。

 また、主な「動機」として、「ウソはいけない」、「結局損をするからやめよう」、「科学の発展を妨げる」、「社会が住み難くなるのは嫌だ」、「間違いが広まっているので,間違いを指摘しましたが何か?」等が挙げられている。

 確かに動機は人それぞれだ、しかし、その動機と「ニセ科学批判」を組み合わせなくてはならない理由が、私には見えない。
 挙げられた動機の幾つかは私だって持っている。その上でやっているのが、「ABOFAN批判」だ。同じように、「水伝批判」、「マイナスイオン批判」でいいんじゃないのだろうか?

 何故「ニセ科学批判」としなくてはならないのだろう?

 というよりも、個別の人達がやっているのはどこまでいっても、「水伝批判」「マイナスイオン批判」に過ぎない。1つだけをやる人もいるし、複数やっている人もいる。もろもろの個別の批判に共通する部分を括りだすための用語が「ニセ科学批判」なので、「ニセ科学批判」を実行できる人なんかどこにもいない。実際にやっているのは「ニセ科学批判」の一部でしかなく「ニセ科学批判」に含まれる個別の批判のどれか、になる。
 もっと言うなら、メタな意味での「ニセ科学批判」の実施例も成功例も実は無い。個別事例の「○○批判」は、小さいけれども効果を上げているかもしれないが。
 だから、

 勝手に「自分はどちらかといえばニセ科学批判側だろう」と思っていて、それを確信したくて「ニセ科学批判」を追いかけてみたら、突然どこにあるのか分からなくなってしまって途方にくれている感じ。

 は当たり前ではないかと。「ニセ科学批判」がどこかにあるわけじゃなくて、「ABOFAN批判」が「ニセ科学批判」として括り出せる要素を含んでいるということなので。