Feed

【愚痴】全弾命中(泣)

Posted on 4月 21st, 2009 in 倉庫 by apj

 昨日の夕方。普段より早い帰宅途中で、信号待ちをしていたら、電線にとまっていた鳥がフンを落とした。電線が入り組んでて姿がよく見えなかったのだが、結構でかい鳥(カラスかなぁ)だったみたいで。私の右腕から右足にかけて白っぽいのが大量にべっとり(泣)。
 情けないったらありゃしない。家に帰って上着やらズボンやらをせっせと洗濯するハメに。

 ここ5年以上自転車通勤してるけど、何ちゅうクリーンヒット[:つかれた顔:] 。

 ちょうど冬用のジャケットから春用の上着に替える時期だったとはいえ、背中にしょってるノートパソコン運搬対応のデイパックのベルトにも一部くっついて、拭いても臭うし。

 デイパックも6年くらい使って古びてきたのでそろそろ次のを買おうかと思っていた私の気持ちは、思いっきり後押しされますた。

被害発生が予見できる場合に対策が必要ということなのか

Posted on 4月 21st, 2009 in 倉庫 by apj

 ニセ科学として言説を取り上げる時に、どういう基準でやっているのかについてのメモ。
こういう基準で取り上げるべき、という議論につながるかもしれないので列挙してみる。

【被害発生の態様による分類】
・(財産被害型、不当表示型)宣伝通りの効果のないインチキ商品を買わされる場合
例:健康グッズ、浄水器関連、節電器その他のエコグッズなど
  永久機関モドキの装置(投資詐欺御用達物品)
  ホメオパシー
・(権利侵害型)権利侵害が行われたり差別が行われたりする場合
例:血液型性格診断(血液型による就職差別をもたらした)※1
・(公益侵害型)ひろく不利益をもたらす場合
例:ホメオパシー(予防接種拒否を言い出したりすると社会にとってまずい)
  EM菌(宣伝通りの効果が無いことがわかっている上、ばらまくと環境負荷が増える)

 「水からの伝言」は、上記の分類では問題の種類としては理科を教える一方で非科学を教育現場に持ち込むという公益侵害型と、浄水器のインチキ評価法に使われるという不当表示型の両方に該当する。道徳教育・国語教育としても問題だけど、それは上記の分類には含まれてこない。

 複数の被害を同時にもたらす場合もある。

 インチキ治療法(ガンに効く、などといって効果のない薬モドキを売りつけるなど)は、それが原因で治療が遅れると、個人にとっては財産侵害型(命を金に換算するのでこの分類には抵抗があるかもしれないが、損害賠償請求の根拠になるかどうかということを意識した分類なのでここに入れる)、社会で広まりすぎて公衆衛生上問題になると公益侵害型になる。

 七田式教育は……教育内容に客観的根拠を伴わないニューエイジ系ネタが含まれているので、不当表示型に分類。波動やテレパシーといったものを価値判断の基準が確立していない子どもに教えるという部分が、子どもに対する権利侵害となる可能性がある。

 逆に、被害発生が軽微なケースとしては、本人だけが私財を投じて永久機関など怪しい装置の開発や理論にはまっているけど、それを他人に売ったり出資者を集めたりはしていない場合なんてのがある。問題にしなきゃいけない必要はそんなに無さそう。

 「相対性理論は間違っている」「量子力学熱・統計力学は間違っている」系は……其の手の本の値段以上の被害はない。それを信じると相対論の正しい理解はできなくなるだろうけど、相対論を理解していない人は世の中にいっぱいいるし、それが社会生活上の不利益をもたらすとも思えない。相対論を理解してなかったためにインチキ商品を買いましたとか、差別を受けましたという展開も想定しがたい。直接インチキ商品の購入を促す「バイブル本」とは違う。

 霊験あらたかと称する壷を高額で売りつけてぼったくる、といった霊感商法は、悪徳商法・詐欺的商法の一種であり、ニセ科学による被害発生分類には入らない(ネタがオカルトなので)が、非合理に対する対策とか消費者保護といった別の枠組みでの対処になる。

 神社に初詣、といったものは、長い間に社会での位置づけが定まっている。初詣して交通安全のお札を貰ってきた帰り道で交通事故に遭ったからといって神社を訴える人は居ない。賽銭は任意だし、お守りその他の値段や販売形態を考慮すれば、効果の如何を問わず被害発生の実体がないし、因果関係のはっきりした効果を求める人も居ないだろう。ニセ科学の判定基準にも引っ掛かってこないし、非合理として取り上げる対象にもならない。

 被害発生が予見できるものを取り上げる理由について。
 被害発生が具体的に予見できるものは、ニセ科学として取り上げた場合に、どういう被害を防ぐことになるのかの説明ができる。被害発生が具体的でなくなるほど、「価値判断の問題」の論争になってしまいがちである。
 被害発生がはっきりしないような非合理まで、ニセ科学をとりあげる枠組みでどうにかすべきということについては、合意を得られないだろう。
 リストの方には明文で書かなかったが、被害発生との因果関係の立証をしやすいもの、というのが基準に含まれているかもしれない。ちょっと間接的になるが、因果関係の立証ができるということは、ニセをはっきり指摘できるものであるということでもある。これは、取り上げる側の訴訟リスクを減らす。

 こういう基準を出しておくことの意味。
 ネット等で議論するときの取り上げ方が恣意的だとか、一方的で不公平という言いがかりをつけられることを防ぐ。金に換算できる被害は積算可能である。不公平云々の議論は、被害金額に見合った取り上げ方かという議論に落とし込める。だから、不公平云々の裏側に「情緒」を隠しておくことができなくなる。

【追記】
 「ゲーム脳」は、公益侵害型かな。デマを振りまくことで他人の行動を変えよう、ということをしているので。

【追記】
※1 血液型性格診断は2つの問題を含んでいる。内容が間違っているにもかかわらず広く受け入れられて差別の原因となる、あるいは差別を助長しているということ。
 もう1つは、仮に内容が正しくても、遺伝的要因(だけでなく、本人の努力では対応できない要因)を理由として社会的差別をしてはいけないという別の規範があり、そちらにも抵触すること。こちらは、倫理や法学の方から論じなければならなないので、ニセ科学としての対策というよりは、より広い社会的差別対策の枠組みで捉える必要がある。

「ニセ科学批判」の問題点

Posted on 4月 21st, 2009 in 倉庫 by apj

 「ニセ科学批判」なる呼び方をすることに対する問題点について、引き続き考えてみる。こちらに言及してくださったpoohさんの「用語」へのコメントも含む。

「ニセ科学批判」に対する一般的な理解を求めるのはそもそも無理があるなぁ、とは以前から考えていたのだけれど(それでも「ニセ科学批判」と云う用語に思考がひきずられてそのあたりあいまいなままだったようにも思うけれど)、「ニセ科学」と云う概念とそれに対して批判すると云う行為(apjさんの列挙するうちの(1)個別の言説のどこがウソかを指摘して、みんなが読める状態にする。と云う部分)に対しての理解は求めたい、と云うのはあったり。

 この部分は、「どんな社会に住みたいか」「そのためにはどんな社会規範が必要か」というところから立ち上げなければならない。

 科学が関係しようがしまいが、健全な社会を維持するためには、
(1)ウソをついて人を欺してはいけない。欺して金儲けするのはもっといけない。
(2)はっきりしないことを確かなことのように言いふらしてはいけない。
(3)専門家(研究者だけじゃなくて事業者も消費者との関係では専門家になる)は専門家としてのレベルを満たしていないといけないし、期待される役割(専門性を正しく使う)を果たすべきである。
(4)(1)(2)(3)に反した人が、世の中で広く批判されたり非難されたりしても仕方がない。
といったものが、社会規範として効果を発揮してくれていないと困る。表現の仕方は他にもあるだろうけれど。
 それぞれにあてはまる例は、別に科学じゃなくてもいくらでもある。詐欺をはたらくと(1)にあてはまるし、刑事罰もある。マルチ商法の勧誘のほとんどは(1)に違反している。(2)はデマを振りまいて批判されるケース。(3)は、不良品を作って売ってしまったら企業の責任が問われるというものになる。
 おそらく、普通の人なら、ここに例示した規範が不要だとは考えないだろう。「そんなことはない、金儲けが正義だ」という人は、多分、既に悪徳商法や詐欺に手を染めている。

 「個別の言説のどこがウソかを指摘して、みんなが読める状態にする。と云う部分)に対しての理解は求めたい」というのは、列挙した規範が機能していれば、ごく自然に理解される話である。それが理解されないのであれば、「こういう社会規範が無かったら困るよね」というところから話を始めないといけない。

 「ニセ科学」の定義の「科学を装うが、科学でないもの」の前半部分の「装う」には、「ウソついちゃいかんよね」という社会規範がきっちり含まれている。

 不幸なことに、「科学的」とか「科学」には、既に余分なイメージがくっついてしまっている。「科学でわかっていることだけで物事は解決しない」とか「科学的でないからそんなの却下」とか、とにかく「科学的」云々を巡って議論が始まった途端、この社会での話じゃなくて、どこか別の「科学ワールド」での閉じた話だと思ってしまう人が少なからず存在する。おそらく、これまでに、「科学」「非科学」「擬似科学」等々をめぐって、理解の浅い人同士の感情的対立みたいなものが積み重ねられてしまったからだろう。非科学を理由に対話もなしに一方的になじられるといったこともあったに違いない。「科学(教)信者」などという呼び方も、そういった対立から発生したのだろう。
 このため、「ニセ科学批判」というものを出すと、言葉に引きずられて、捻れたツッコミが入ることになる。例えば、「ニセ科学の批判なのだから科学の範囲だけでやっていればいいのではないか」「個人でニセ科学言説を信じているだけのblogを批判するのは周囲が引くし反感を買う」といったものが出てきてしまう。「科学者は科学だけやってろ、社会のことにまで知ったふうな口を挟むな」というものもあったりする。
 ニセ科学の定義が社会規範を含んでいる上に、「科学」の話を社会と切り離すことで個人の情緒を優先させたい(あるいはこれまでそうしてきた)という人達がいるわけだから、「ニセ科学批判」というエサをぶら下げたら、「個人をいじめるな」「空気を読め」という形での攻撃の対象になるのは、まあ当たり前ではあるし、「ニセ科学批判批判」が派生したのもわかる。
 「ニセ科学批判」というときの”ニセ科学”は個別のニセ科学にマッチするワイルドカードのようなものであり、「ニセ科学批判」そのものに実体はない。個別の「マイナスイオン批判」「血液型性格診断批判」等々であれば、批判対象が特定されていて、何がどうウソかもはっきりわかるから、「情緒を優先させます」とやったとたんに「インチキの方を受け容れた」ということが自分にも他人にもあらわになってしまう。批判する側が何かを間違えた場合も、何をどう間違えたのかがはっきりわかる。一方、最初から実体のない「ニセ科学批判」であれば、批判批判側が好きなように設定していじくり回せるし、メタな議論もできる。しかし、実体のない「ニセ科学批判」について何をどう議論したところで、現実に起きている個別のニセ科学の被害を防ぐことには全く役立たないし、もう少し根本に立ち戻って社会規範をどう考えるのかという議論が深まることもない。批判の仕方についての議論が必要であったとしても、個別の批判について検討するのでないと意味がない。
 結局、「ニセ科学批判批判」も含め、「ニセ科学批判」について議論することには何の意味もない。「ニセ科学批判」についての議論が出たときに、個別の議論でないと話が進まないと指摘し、わざわざ、個別の何とか批判にマッチさせた上で説明する手間をかけるのは、実は無駄なんじゃないか。

 同意してくれる人がどれだけ居るかわからないが、「ニセ科学批判」には実体がないのだということを共通認識にしてもいいのではないか。それだけでも、使えないニセ科学批判批判は意味を失うし、真面目な批判対象として「ニセ科学批判」なるものが存在するというミスリーディングを防ぐことができる。

 その上で、「どういう社会に住みたいですか」というところから問い直すというのはどうだろう。たとえばこんな具合に。

「ウソをつくのは良くないですよね。いつ誰にかつがれるかわからない社会じゃ、安心して過ごせませんよね。ニセ科学は、他人を欺すためのウソとして使われているから、ウソであることをはっきりさせた方がよろしいかと」
「あやふやなことを言いふらすと人心を惑わしますよね。この目的で使われたニセ科学は、これ以上惑わされる人が増えないように、何が本当かはっきりさせておきましょう」
「なぜニセ科学を取り上げるのかって?そりゃ、誰かの財布を狙ったり、誰かの権利を侵害したりするのに使われている上、ウソであることを示すのも比較的容易だからですよ」
「ニセ科学を個人で受け容れているblogを批判するのはいじめ?いやいや、ニセ科学の蔓延に手を貸すことは、結果として悪徳商法や詐欺の片棒を担ぐことになります。blogに何を書こうが個人の自由ですけど、加害者になることもあるのだという想像力も持っておいてくださいね。他人の尻馬にのったり、マスコミに踊らされたりして結果としてウソをつくと、いいことはないと思いますよ」
「科学者は批判なんかせず科学だけやってろ?ニセが蔓延すると、こっちが提供するホンモノも信じてもらえなくなるんですよ。誰かがニセをばらまいたりしなければ批判も不要なんですが。ということで、クレームは、ニセをばらまいてる方に言ってくださいね」
「誰かさんと一緒になってニセ科学を叩いている人達は野次馬?本当の野次馬はニセ科学をおもしろおかしく取り上げて普及に努めている人達の方ですよ。その結果社会がどうなるか何も考えていない無責任さときたら、ねぇ……」
「ウソも方便?いや、あなたのその場はそれでよくても、後で訂正するコストは誰が負担するんですか。ウソのまま終わるってわけにもいかないでしょう?」

 ……身も蓋もないな(汗)。

 詐欺師と悪徳商法業者あたりを除けば、(1)~(4)程度の内容なら、他の主義主張を問わずに共有することは、不可能じゃないと思うのだけどね。

 この方向に進むなら、科学哲学とは関わりを持ちそうにない。別にかまわないのだけど。むしろ、法哲学や法社会学と関わってきそうな気がする。どうなんだろう。