他人を騙してはいけないという規範
ニセ科学の定義の中に、人を騙してはいけない、という規範が含まれているということは既に書いた。
一方で、SFなどのフィクションも読者を騙すし、うまく騙したことが良く評価されることもある。また、善意でつく嘘というのもあったりする。このあたりを整理してみる。
なぜ「人を騙してはいけない」を規範にするべきかというと、人は万能ではないので、必ず誰かの行為を信頼して暮らしていて、それで社会が回っているからである。
八百屋や魚屋で買い物をする時は、商品の札と商品が一致していて、値段相応のものを売っていることを信用して買う。もし、八百屋や魚屋が騙し放題だということになったら、買う前に商品をいちいち消費者がチェックしないと安心して買えないということになる。野菜の新鮮さ程度だったら葉っぱの様子を見れば素人でもわかるが、怪しいルートで購入したものでこっそり使用禁止になった農薬が使われてて残留してます、なんてことになったら、見つけ出すには高価な分析装置とそのための知識が要る。魚の新鮮さは魚の目などを見ればわかるが、産地偽装をされていたら、仕入れ元までたどらないと説明通りの品かどうかがわからない。
人は騙してもいい、騙される方が悪いのだということになったら、各個人で、いちいち真偽を確認しなければならなくなって、判断のためのコストが跳ね上がることになる。それを怠ると、不当に財布の中身を奪われることになる。こんなことにならないためには、「人を騙してはいけない」という規範にみんなが従った方が良いだろう。
もちろん、人のすることだから、ついうっかり騙してしまった、ということは起こる。この場合でも、人を騙してはいけない、という規範が機能していれば、無料で野菜を取り替えるとか、次から間違った札を貼らないように気を付けるといった対応がなされるだろう。決して、「騙したっていいじゃないの、細かいこと言うなよ」とはならない。
こう考えると、SFの擬似科学が人を騙すのと、ニセ科学が人を騙すのは、全く別だということがわかる。SFの擬似科学に騙された場合には、騙される人が了解済みだというだけではなく、騙された結果他人の行為に対する信頼が壊れて真偽の判断のためのコストが上がるということは起きない。アイドルだって、姿形その他で観客を騙して楽しませているが、このことによって、真偽の判断のためのコストの上昇は起きたりはしない。一方、ニセ科学は、他人の行為に対する信頼を壊す原因となる。
「人を騙してはいけない」という規範の意味は、人を騙すことによって、他人の行為への信頼を前提にして回っている社会を壊すからまずいという意味である。逆に言うと、他人の行為への信頼を壊さない嘘に対してまで、杓子定規に「人を騙してはいけない」という規範を適用する必要はないだろう。たとえば、善意から出た個人間の嘘なんてのは、社会規範の問題というよりも文学で取り扱う主題である。
じゃあ、なぜ「ニセ科学」という括りを設けたのかというと、他の騙しについては既に別の括りで名前がつけられ社会的対応がなされていたけど、科学を騙った嘘についてはたまたま残っていたからではないか。産地偽装、消費期限偽装、耐震強度偽装等々と呼ぶよりはやや広い括りで、しかしこれらと並記される位置に、「ニセ科学」があるのだろう。
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