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何か微妙に違う気がするので

Posted on 4月 29th, 2009 in 倉庫 by apj

 あらきけいすけさんの「「ニセ科学批判」批判のための覚書2、あるいはボクが「杜撰」と言ったわけ」について。
 「科学は自然の近似である」という主張についての議論。

科学をメタレベルから論じるときには語の用い方にもう少し慎重さがあっていい。

 科学をメタレベルから論じるための主張じゃなくて、「科学的じゃないからダメ」「科学だって書き換ってきたんだから、今の科学が真理とは言えないはず。だからこの(どう見てもインチキな)説だって今後科学的に正しいとされるかもしれない」「科学者は科学だけを絶対の真理だと思っている」といった言説へのカウンターとして、現実はこんなもんだということを説明しているのだから、そう突っ込まれても何とも言えない。「科学をメタレベルで論じる」ということが可能になるのは、「科学=真理」という思い込みを突き崩した後の話じゃないのかな。「科学は自然の近似である」がいささか荒っぽいのは認めるけど、これをわざわざ言わなければならない場面は、科学哲学として科学を論じるというのとはほど遠い状態なんだよなぁ。

もし「科学は自然を近似的に記述する」と書かれていたら、このセクションは無かったかもしれない。

 この表現が良ければそれでも置き換え可能だからかまわない。もう少し言葉を増やして「今の科学の成果は自然を近似的に記述したもので、それなりの精度がある」といった言い方でも別に問題はない。

この文章では「(近似された)自然」とは「科学が記述した対象」のことだよね。つまり論理的には科学的に扱ったものだけがここでの「自然」。
え?それって変、というか論理的にエラー。この文の範囲内でも「自然」の語は「科学が記述した対象」よりは広い範囲の対象を指しているはずだ。

 広い範囲の「自然」は存在していて、その中にはまだ科学が記述してないものもたくさん含まれている。「(近似された)自然」は、「自然」の一部分で、それが、これまでに科学が記述してきたものということだから、エラーでも矛盾でもない。この部分は、読んでいて、あらきけいすけさんが何を考えているのか全くわからなかった。

例えば「科学」を「ニセ科学」から区別する基準はこのステートメントからダイレクトには導けない。

 何を期待しているのかわからないけど、「ニセ科学」が「ニセ」である理由は、現状で(近似的に)得られている内容と大きく乖離した内容を根拠無しに述べているから、である。それなりの精度の高い記述方法が既にわかっているのに、著しく精度の悪い記述方法を持ってきて「こちらの方が精度が高い」などとやってるのがニセ科学なので、現実に得られている精度と、主張内容が持っている精度の違いから基準を導けば良いのではないか。もちろん、精度の差が連続分布(?)していたら、線引きはやっぱり難しいだろうけど、この線引き問題は、いわゆる従来の線引き問題とは違う種類ものじゃないかな。

だからボクは「間違っている」とは言わない。むしろ日常の感覚としては「正しい」。でも理解を深める役に立つとはとうてい思えないし、このステートメントのままでは応用も利かない。「ニセ科学」と戦う武器にならないのだ。

 ニセ科学かどうかは、主張と現実の間の乖離があるかどうかで決まるし、乖離の程度でどれだけニセかも決まる。科学の成果が自然を近似的に記述したものであれば、「今得られている科学の内容」と「そこから乖離した主張」の間で、自然を記述できる精度の違いを問題にすれば良いことになるので、それなりに使えるはずだけど。

 現状でそれなりの精度で記述できている部分について、著しく精度が悪い言説を、あたかも精度が高いように主張すると、ニセ科学だとはっきりわかる。科学の側が(科学哲学的にも)グレーゾーンで、精度がどれだけあるかはっきりしないものについて、精度が悪い乖離した主張が出された場合、びみょ~にニセというか、まあそんなにすっきりはっきりしないということになるだろう。科学の側がまだ精度を上げることができていない(グレーゾーン問題にひかかるようなものについて)すっきり精度よく記述できています、などとやった場合、やっぱりそれはニセ科学と判定することになる。

今回はかなり批判を遣り易い形で(たまたま lets_skeptic さんの)意見が出てきたんだけど、こんなことの積み重ねが「悪い印象」を与えてきたかもってことは、真剣に再検討してもいいんじゃないかな。

 「科学は真理だから」と非科学言説をやみくもに攻撃したり、「科学は真理だから」を勝手に想定してそれにむやみに反発したり科学に不信感を持ったりするよりは、「近似だ」と言ったことで起きる不利益の方がまだマシなんじゃないか。

 また、上で書いたびみょ~にニセのケースを無理に判定しようとすると、多分混乱するだけで、得られるものはない。むしろニセ科学かどうかを判定すべきじゃないんじゃないかな。間違える可能性が高そうだし。
 精度の問題にしておくと、判定しない方が良いものを判定してしまうという失敗を避けられるし、グレーゾーン問題に引きずり込まれて、実際に発生するニセ科学の被害と切り離されることも減らせるんじゃないか。

 あと、あらきけいすけさんが問題にしたlets_skepticさんの2009年4月24日 (金) 09:30のコメントを私がスルーした理由は、科学哲学の問題としてこの問題を考えるつもりが最初から無かったからである。だから、一緒になって科学哲学批判をやろうともせず放置しておいた。なお、私のコメントは、私の立場の表明や背景の説明だったり、現実に何が可能であるかを述べただけであって、科学哲学についての議論はしていない。

 なお、ニセ科学に関する議論は科学哲学からは当面は切り離しておいた方が良さそうに思う。定義を試みたら、科学哲学じゃなくて社会規範とか法学が混じってきそうだという理解に至ったし、ニセの程度は現状の科学の状況とニセ科学言説の内容の間の乖離の程度で判定すればよさそうだし。科学の現状の方がグレーゾーン問題も含めて将来どうなるかは、今やった方がいい判定とはさしあたり関係が無さそうだし。

豚インフルエンザにホメオパシーは効果無し

Posted on 4月 29th, 2009 in 倉庫 by apj

 ホメオパシー体験談紹介より。

まず免疫を低下させるワクチンを接種しないこと、急性の発熱症状などを薬剤で抑圧しないことが大切です。
YOBOキットから、インフルエンザに合うレメディー、インフルエンザイナム、オスシロシコナイナム、ユーパトリューム、ジェルセミュームなどで予防プログラムを実行すること、Rx Chroni-inf、ウィンターセット、サポートHaiなども、万一に備え用意されておくとよいでしょう。
またインフルエンザの特効薬になるのではないかと昨年秋に沖縄の新聞や週刊誌で取り上げられ話題になった沖縄の栴檀(センダン)から作られたレメディーがあります。豚インフルへの効果のほどは、わかりませんが、ご希望の方は、ホメオパシージャパンまでご注文ください。

 ホメオパシーの効果は「気のせい」であって、豚インフルエンザだけではなく、他のインフルエンザにも感染症にも効果はない。ホメオパシーに頼るのは、「何もしない」を選んだのと同じことである。

 「まず免疫を低下させるワクチンを接種しないこと、急性の発熱症状などを薬剤で抑圧しないことが大切です。」というのは、「何もしないほうが望ましい」という「デマ」を広めていることに他ならず、公衆衛生にとって大きな問題がある。

 それ以前に、効果があるかないか分からないと自分で言っておきながら売りつけようとしているあたりが、商道徳としてどうなんだ、とも思うが……。

 ともかく、感染症対策にはこれまで十分な蓄積があって、ホメオパシーはその中には含まれていない。微生物学の標準的な教科書を見たって、微生物に影響を及ぼす方法としてホメオパシーは全く登場していない。

○豚インフルエンザについての信頼できる情報はCDCのサイトを参照。
○日本語での信頼できる情報は、厚生労働省のトップページを参照。

 これまでの報道の様子からみて、今後、マスコミの報道が危険を煽る方向にいくかもしれないし、センセーショナルな内容ばっかりが選ばれて報道されるかもしれないので、上記2つを確認する方が良さそう。

【追記】
 効果無し、どころじゃなかった。New York Timesの記事

But one important factor may be the eclectic approach to health care in Mexico, where large numbers of people self-prescribe antibiotics, take only homeopathic medicine, or seek out mysterious vitamin injections. For many, only when all else fails do they go to a doctor, who may or may not be well prepared.

 メキシコで新型インフルエンザの死者が増えている理由の1つとして、ホメオパシーに頼って治療が遅れたことが示唆されている。

「教育的配慮」を叩き潰せ

Posted on 4月 29th, 2009 in 倉庫 by apj

 ちょっと参考になる記事が出てきたので。

教育現場の指導に指針 体罰めぐる最高裁判決
4月28日11時59分配信 産経新聞
 男子児童の胸元をつかんで叱る行為を体罰にあたらないとした28日の最高裁判決は、教員が萎縮(いしゅく)するあまり、厳しい生徒指導をためらう傾向がある教育現場の実情に配慮した判断といえ、影響を与えそうだ。

 授業中に騒いだ児童を廊下に立たせるといった指導は体罰や人権侵害だと批判され、授業中にメールをしていた生徒から携帯電話を取り上げただけで保護者らから抗議を受けることもあるという。こうした状況から、“モンスターペアレント”という言葉すら生まれた。

 学校教育法11条には「児童に懲戒を加えることはできる。ただし、体罰を加えることはできない」とある。しかし、「ただし書き」の「体罰」の基準は不明確だった。基本的な考え方は、昭和23年の法務庁長官回答にさかのぼる。体罰を「懲戒の内容が身体的性質のものである場合」と定義。「身体に対する侵害を内容とする懲戒(殴る、けるの類)が該当することはいうまでもないが、被罰者に肉体的苦痛を与えるような懲戒もまたこれに該当する」としていた。

 政府の教育再生会議は平成19年1月、体罰の基準見直しを求め、これに呼応して文部科学省は同年2月、肉体的苦痛を与えるものでない限り放課後の居残り指導や授業中の教室内での起立命令を体罰としない、と全国の都道府県教委などに通知した。しかし、基本的には昭和23年の枠を出ていない。

 もちろん最高裁判決は「殴る、ける」や「肉体的苦痛」を容認したものではなく、体罰の定義も示していない。しかし、許される行為を明示し、体罰か否かを判断する要素として「目的、態様、継続時間」を挙げたことは、指導に戸惑う教育現場にひとつの指針を与えるものになりそうだ。

 生徒側が教育現場で実社会並の権利主張をするのなら、ペナルティの与え方も実社会並にしないとバランスが取れない。大人の社会で同じことをすれば、民事なり刑事なりの事件になるようなことでも、これまでは、教育的配慮の名の下に教師が叱って済ませてきたのではないか。生徒側が権利主張でもって教師の与える罰を排除するなら、あとは、問題を起こした生徒をどんどん通報して警察の手に委ねるしかなくなる。教育的配慮を理由に甘い措置をせよと言うのは、学校を無法地帯にせよと言っているのと同じことになるだろう。実社会並、つまり学外の基準を適用することにしても、家庭裁判所があったり少年法があったりするので、社会の側の配慮は既に存在する。

 体罰に関する回答があったのが昭和23年で、最近になって体罰を法的問題とするようになってきたということは、法に現場を合わせようとし始めたということではないか。それならば、他の部分も全部合わせないと一貫性を欠く。

 最高裁が教師の叱り方を決める時代になったのだから、ペナルティを与える場合に「教育的配慮」で教師を縛るのはもはや時代後れではないか。教師が従うのは「法」のみでいいし、そうでなければ身を守れない。教育現場での徹底的な権利主張は、教育現場を徹底的に法で規律せよという主張に他ならないのだから。

※いじめの問題にしても、学校側が口頭で注意するとか当事者を引き離す(可能なら)という措置をした後は、どんどん当事者に証拠開示して、後は当事者で損害賠償請求でも何でもやってくれ(学校側は知っていることを全部述べる)、とした方が、学校も余計な責任を問われなくてすっきりするかもしれない。これまでは、その手の事件を不祥事と考えて隠したがっているように見えるが、隠すと却って危険だろう。また、下手に調査をしたら、今度は生徒に対する配慮を欠いたと苦情を言われかねない。

【追記】
 酔うぞさんのコメントによると、今回のケースは、
(1)学校の業務が停滞する、猛烈なクレーム
(2)教師に対する刑事告発
とセットだったという話である。コメント欄にも書いたが、私の主張は、(1)については業務妨害を理由に刑事や民事の手続を親に対してとれ、ということで、(2)については誣告を理由に逆告訴してついでに民事で損害賠償もとれ、ということ。こういうことをためらわずにやらなければならない時代になっているし、また、そうすることに対して教育現場だからという理由で横やりを入れるのはまずい、ということも同時に主張していかなければならないんだろうなぁ、と考えている。