再び感想文コピペネタ
msn産経ニュースの記事より。
【すくむ社会第1部】子供にも広がるコピペ症候群~『考える』の空洞化(2)
2009.4.10 18:56学生が書くリポートからインターネット上の文書をコピーしただけの「コピペ」を根絶しようとする動きが広がっている。背景にあるのは「考える」営みを奪うコピペが、知の衰退を招きかねないという危惧だ。
金沢工業大学大学院知的財産科学研究センター長の杉光一成教授(42)が民間と開発中の「コピペ発見ソフト」はまだ試作段階だが、調べたい文書のなかにネットからのコピペが何%含まれるかを一瞬のうちに判断してくれる。コピペした部分を多少変えても追跡可能な優れものだ。
きっかけは2年前、学生が提出した課題リポートで読み覚えのある文章に出くわしたこと。別の学生のリポートの一部と一字一句同じで、ネットで検索すると、彼らのリポートの“元ネタ”とおぼしきページがすぐに見つかった。
杉光教授は、他人の論文を引用しても明示さえすれば問題ないと思っていたが、教員を欺く行為は見過ごせなかった。それにもまして気分を陰鬱(いんうつ)にさせたのは不正を問いただしたときの学生の態度だった。
「返ってきた答えは『引用表示を忘れました』。文章の構成からして明らかなうそ。悪いことをした自覚がまったくなかった」
なぜ、あっけらかんとしているのか、杉光教授は考えた。「情報は図書館へ行き、一生懸命本を読んで仕入れるものだったのが、今の学生は、物心ついたころからネットがあった。蛇口をひねればじゃぶじゃぶ出てくる水のような情報なら、ありがたみを感じられない。だから使って何が悪いのか、ということになる」
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コピペ発見ソフトがニュースで取り上げられると、その反響は予想以上だった。杉光教授のもとにはコピペに悩む東大、京大、東北大などの教員から問い合わせがあったばかりか、思わぬところから引き合いがきた。中央官庁や地方自治体の監査部門だ。
海外の道路事情をめぐって、国土交通省所管の公益法人「国際建設技術協会」が平成19年、コピペで作った3冊の報告書に道路特定財源から約9200万円が充てられていたことが国会でも取り上げられ、各地の地方議会でも議員の海外視察報告書が他人のホームページなどのコピペで作られていたことが次々と発覚。行政の現場にも不正が広がっていたためだ。
自ら考え文章を書き上げることを放棄し、安直にネットに頼る“コピペ症候群”が社会に蔓延(まんえん)している実態。それは子供たちも例外ではない。
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「あなたは私の救世主です!」「全国の子供たちを宿題から救ってください」
全国の児童から大量に送られる感謝のメール。16年8月の開設以来、289万アクセスを記録する人気サイト「自由に使える読書感想文」=写真=に寄せられたものだ。「読書感想文」でネット検索すると“本家”の「青少年読書感想文全国コンクール」よりも上位に表示される。
これは、夏目漱石の「こころ」や芥川龍之介の「羅生門」など17冊の読書感想文を公開、学校提出用に限り丸写しを公然と認めるいわばコピペ推奨サイトだ。
サイト管理人でフリーライター、恩田ひさとしさん(44)は読書嫌いになった子供のころの教育に対する反発から4年前にサイトを立ち上げた。「書き方も分からない子供に、教員が指導もせずに『書け』と言うのは無責任だから」と開設した理由を説明する。
それに対し、大人からは辛辣(しんらつ)な批判が続々と届く。「日本の子供たちを抜け殻にしてしまう」「自分で本も読めないガキを作るな!」。
そもそも読書感想文は、子供たちが本に接することで思考をはぐくむきっかけにしてもらうのが狙いだが、読書の実態をみると憂慮すべき点が浮かび上がる。
読書の振興を図る全国学校図書館協議会などの調査では、一見すると子供の読書量は増えている。昨年5月の1カ月の読破冊数は、小学4~6年生で11・4冊、中学生が3・9冊と、ともに昭和30年に調査を始めて以来、最高となった。
だが、問題はその中身だ。同じ調査で中3女子に読まれている上位11冊のうち、実に9冊が恋愛などを扱った「ケータイ小説」。こうした作品は従来の文学作品に比べて表現が簡素との指摘もある。
同協議会の森田盛行理事長(59)は、現場の教師から「いくら指導してもケータイ小説から脱皮できない」との悩みをよく耳にするだけに、深刻に受け止めている。「考えるには読書はぴったりだが、歯応えのあるものを避けてやすきに流れる風潮が、子供を含めた社会全体に広がっているようにみえる」
どうも、共通するのが「コピペ」という現象だけであって、種類の違う問題が一緒くたにされているように見える。
まず、引用元を示さないパクリを社会に出てからやったのが発覚したら、社会からは排除されることもあるので(記事中の監査部門のチェックに引っ掛かるケースなど)、危険だという認識をさせる教育が必要である。昔と情報の与えられ方の質と量が激変していることも確かだから、昔と同じ苦労をせよと言っても、ピンと来ないだろう。「明示して引用する」を徹底させるしかない。
後半の読書感想文の部分はは手段と目的が入れ替わっている。「そもそも読書感想文は、子供たちが本に接することで思考をはぐくむきっかけにしてもらうのが狙いだが、読書の実態をみると憂慮すべき点が浮かび上がる。」とあるが、感想文を書かなければならないとなると読むのが逆におっくうになるのではないだろうか。また、読むという活動と書くという活動は全く別なので、本当に読書好きなら、感想文を書く労力を次の1冊を読むために使いたいと思うのではないか。私は、本好きの感想文嫌いだったことを白状しておく。
小説を読んで共感を覚えるかどうかは、想像力が及ぶ範囲の話かどうかにもよるはずである。今、明治時代の文豪の小説を出されて読んでしっくり来る中学生がそんなに多かったとしたら、その方が不思議だ。ケータイ小説の次はキャラクター小説を読むようになり、続いては売れ筋の新刊文芸書を読む、というのでもかまわないはずだ。途中から夏目漱石や芥川竜之介を読まそうとするから、無理が生じているのではないか。
第一、そんなに本を読んで何かを考えさせたいのなら、小説じゃなくて哲学書でも読ませればいい。なぜそこで文学限定なのか。数学じゃダメなのか。科学じゃダメなのか。社会科学じゃダメなのか。教える側の視野が狭いことが、意識されないままに当然の前提とされているようで、記事を読んでいて引っ掛かった。
関連の話題として作文の思い出を。
そういえば、読書感想文は大嫌いで、夏休みの最後の日あたりに涙目で書くことになってたし、ただ単に読書量が多いからという理由でクラス代表で私に感想文書きを振った担任には殺意を覚えた。当然ろくなものは書けなかった。遠足に行ったという作文(ジャンルとしてはルポルタージュ?)は書きやすかったし、先生からもそれなりに良い点がもらえた。一番、ノリにノって書いたのは、「この物語の続きを書け」というのが宿題に出たときだった。何か、無人島に何人かで取り残されたというシチュエーションの小説が教科書に出ていて、続きを作れと言われたので、架空冒険&探検記を原稿用紙何十枚か一気に書いた記憶が。その時はもうそればっかり考えていた。いずれも小学生の時の話だけど。
ということで、読書量と感想文の得手不得手はあんまり関係がないし、読書感想文とそれ以外の作文の得手不得手にもあんまり関係がないと思うのだけど、どうだろう。
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