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権威、社会規範についての補足

Posted on 5月 1st, 2009 in 倉庫 by apj

 poohさんの「権威の取扱い」への補足。
 ニセ科学を問題としているときに、ニセ科学を批判している側に向かって科学の権威性を持ち出すのは全くのナンセンスであるだけでなく、不公平でもある。なぜなら、科学に権威があると思い込みあるいは権威があることを前提として、それを積極的に利用したのはニセ科学の方だからである。
 科学の権威性を是として権威を騙ることも是とするならば、それはニセ科学を支持することに他ならない。
 科学の権威性を否としておいて権威を騙ることを是とするのなら、それはニセ科学を支持する上に自己矛盾だろう。
 科学の権威性を否としておいて権威を騙ることを否とするのなら、ニセ科学を支持する側とそれを批判する側を同時に等しく批判するのが筋であるから、ニセ科学を批判する側のみに向かって何かを主張するのは偏った態度であり、実りのある議論が成り立つことは期待できない。
 残りは、科学の権威性を是としておいて権威を騙ることを否とする立場だが、これはニセ科学の定義に「科学を装う」が入っているので、ニセ科学を問題とする立場と矛盾しない。ただし、科学の権威性の程度についての認識は、最も権威があると見做した場合でも「科学は自然を近似的に記述しているだけ」という限度にとどまる。
 科学の権威がむやみに使われることについて警戒する立場をとるのであれば、科学の権威を利用して他人を欺すニセ科学こそが警戒し批判すべき対象となるはずで、権威が伴っていることを理由として科学の側に注意喚起をするのはお門違いであるし、議論の立ち位置とも矛盾している。

 社会規範についての補足。
 社会規範には、法規範、道徳規範、宗教規範、慣習規範がある(「サイエンス・オブ・ロー事始め」)。法規範は社会において強制力を伴う。「道徳規範は、個人の倫理観や道徳観が社会一般に共通するものに高められ、自然に社会規範として定着してくるもの」「宗教規範は、ある宗教上の教義が特定の信者に地してだけでなく一定の社会や地域に普及し、これが社会規範として尊重されるもの」「慣習規範は、社会のなかで長年にわたり繰り返し守られてきたことが社会的ルールとして意識され、遵守されるもの」とされている。
 ニセ科学の「ニセ」であることを問題とする理由の1つに、「人を騙してはいけない」「不確かなことを言いふらしてはいけない」という社会規範がある。このことについて、道徳を押しつけるといった見当外れの意見が出てくるが、それは社会規範の意味を知らないことから生じている。
 社会規範とは、法規範も含めた、社会生活を送る上で守った方がスムーズにいくルールで、破ると一定のペナルティ(強制力のあるものから、クレームをつけられるといった強制力のないものまで)を科されるものである。
 普通に考えて、法規範と道徳規範と宗教規範と慣習規範が相互に逆のことを主張するというのは、原則として有り得ない。たとえば、社会規範と正面から衝突する特定宗教の教義は、社会で受け容れられることが無いばかりか、制裁の対象になる(多くのカルト宗教が引き起こした事件など)。例外としては、異なる道徳規範のどちを優先するかという問題が生じた場合に、矛盾が生じることはある。また、社会の変化に規範の変化が追いついていない場合には不合理な結果になったり、一時的に矛盾したりすることが起こりうる。
 今のところ、法規範には、刑法や民法その他のに含まれている条文の内容(刑法の詐欺罪、名誉毀損の免責の条件となっている真実性や真実相当性、詐欺脅迫による意思表示の取消等々)や、信義誠実を要請していること(民訴法)などからみて「人を騙してはいけない」「不確かなことを言いふらしてはいけない」が、含まれていることは明らかである。裁判所で争われる場合も、法が含んでいるこれらの規範が道徳あるいは社会慣習に合わないという理由で、法の適用が問題になったりすることは起きていない。従って、法的ペナルティが科されない場合であっても守った方がよいこと、としてこれらの規範を位置づけるのは、強制でも押しつけでもない。既に我々の社会はこの立場をとっていると考えるしかない。
 逆に、社会規範にこれらの特定の規範が含まれていることを問題としたり、規範を押しつけるということを問題とするのなら、同時に法規範の一部も否定する立場を取っていることになる。このことを自覚されたい。
 慣習規範の性質から、ある規範が長年繰り返し守られなくなると、規範としての力は段々無くなっていくと考えるしかない。社会で規範として受け入れられていないものを法で強制するというのは無理があるから、行き着く先は、法規範まで含めてその規範が無くなるということになるのだろう。だから、本気でこれら2つの規範をなくすべきだと考えているのならば、今、道徳を押しつけるなという立場で否定するのも有りだが、そこまでの覚悟がないのにうわべで否定だけするのは、やはり思慮不足というものだろうし、無意味に社会を混乱させると非難されても仕方がないだろう。

そこまでいく前の話

Posted on 5月 1st, 2009 in 倉庫 by apj

 「不機嫌な茶飲み話:文脈」へのコメント。
(コメントの投稿の仕方がわからないので、ここに書いてトラックバックしておくことにする。向こうのコードがEUCだったので、こちらもそれに合わせてトラックバックしたら文字化けした。こちらでUTF-8を選ぶと大丈夫みたい。申し訳ありませんが1つ前のトラックバックは削除していただければと>kaqu11さん)

 apjさんの発言は、科学と宗教とを比較して「科学の限界の表明」をし、「科学の本質的な特徴」を説明したものだと読みましたが(鍵括弧内はTAKESANさんのエントリからの引用)、それは十分「科学とはなんぞや」という話につながっていく一般的な話ではないでしょうか。

 多分これは、「ヴィトンのバッグに置き換えろ」で書いたものが元ネタになったと思われるのだが、科学と宗教を比較したのは言及先のchnpkさんであって、私ではなかった。私は、科学についてのみ、限界があると主張しただけであって、宗教については何も述べていない。科学についての相当酷い誤解を解こうとしただけだった。
 私が「科学は自然の近似」とわざわざ言わなければならないのは、相手が「科学者は科学を真理だと思っている」とか「科学は真理だから云々(受け容れるor反発する)」と言い出した場合に限られている。大抵の場合、この手の誤解に続く主張はアサッテの方向にいってしまうからである。だから、まずその入り口を何とかしないと、本筋の話もできない。
 いまどき、科学哲学的な議論をしようとすれば、「科学=真理」という単純な主張は出発点にすらならないのでは。
 科学哲学の議論よりもはるか手前の誤解を解くための文言を、科学哲学の議論の出発点にするというのは、ナンセンスとは思わないけど荒っぽい議論にしかならないだろうなあとは思う。「科学とは何ぞや」という話がある程度精密に出来るような状況なら、「科学は自然の近似」なんてわざわざ言わなくても済むんじゃないかな。

 なお、「水からの伝言」を私が批判したときは、批判の相当初期の頃から、科学としては間違ってて道徳としても不適切な内容だからダメで国語も台無しにするからダメ、とやっていた。
 だから、

 基本的に。「水からの伝言」を科学的な観点から批判している人は、自分の発言を思わぬ文脈で読み取られて批判されたとしてもあまり文句は言えないと思うんですよね。

は、少なくとも私には当てはまらないはず。
 ごく初期の頃は、科学的に間違っているという理由のみで「水からの伝言」を批判していたけど、その頃は、「水からの伝言」は浄水器のインチキ検査法として使われていただけだったので、科学の議論だけで足りていた。