「ニセ科学批判」総括、あるいは私の「ニセ科学批判批判」:批判は足りていたが非難が足りなかった
ここ最近、技術開発者さんの書き込みなどを読みつつ、ニセ科学まとめを作りつつ考えていた。このエントリーを書くことになったきっかけは、poohさんのエントリー「齟齬」コメント欄でのやりとりである。
まず最初に世の中で、「水からの伝言」や「マイナスイオン」が蔓延するということが起きた。それ以前から、インチキ健康食品や活水器が、科学の装いのもとに消費者被害を発生させていた。
これが問題だと考えたので、個別に「その話は科学として間違ってますよ」「科学としては嘘ですよ」という指摘を始めた。私は、浄水器関係を先にやっていたし、他の人達も個別に、いろんなニセ科学について、ニセであることの指摘を始めた。
社会には、「嘘をついてはいけない」「他人を騙してはいけない」「不確かなことを言いふらしてはいけない」といった社会規範がある。これが社会規範であるということは、「ニセ科学を問題にするとはどういうことか」で一応まとめてある。
「嘘をついてはいけない」が社会規範である理由は、簡単に言えば、間違った情報を広めたまま放置すると、それをもとに間違った判断をする人が出てきて、財産的被害を受けたり、危険な目に遭う可能性が上がったりといった、多くの人々にとって良くないことがいろいろと起きるからである。
社会規範であるということは、それが原則であるということなので、例外もあることを意味する。ただ、この例外は、その行為をする人が立証しなくてはならず、自分の「嘘をつく」行為が例外であることを立証できなかった場合は、社会規範に違反したとされることになる。また。例外が存在することを理由として原則が揺らぐということはない。
ニセ科学のほとんどがこの「嘘をついてはいけない」という規範に違反するものであったにもかかわらず、ニセ科学を批判するときに、社会規範に違反することを正面から指摘しているものは少なかったように思う。これには2つ理由があると私は見ている。
理由の一つは、「嘘をついてはいけない」という社会規範が通用しないケースが(堂々と)たくさん出てくるということを、最初は想定していなかったということである。嘘が出回っていてたくさんの人が騙されているときに、「その話は嘘ですよ」という指摘があったら、「嘘だったのか。もう信じないぞ。誰だ最初に嘘ついた奴は」となるのが普通である。だから、「それは科学としてニセモノですよ。嘘ですよ」という指摘をすれば、嘘話の信者になっていたり意図的に他人を騙そうとしている人でなければ、「嘘だったのか。もう信じないぞ。誰だ最初に嘘ついた奴は」と言ってくれると期待したのだろう。
もう一つの理由は、「ニセ科学」が、本来は科学では無いものが科学の権威をかぶって世の中に流通する、という性質のものであったため、批判する側が、できる限り科学の議論から踏み越えない範囲で批判する、という姿勢をとったことが多かったからだろう。科学の議論の範囲を超えると、ニセ科学と同じことをしていることになってしまうのを無意識に警戒したのかもしれない。また、科学に変な「権威性」を想定する人が現実に居るので、無用の摩擦を避けたかったということもあったかもしれない。
その結果、何が起きたか。
「ニセ科学批判批判」を自称する論がいくつも出てきて、個別のニセ科学の議論とぶつかるのではなく、批判の仕方や態度といったものだけを選んで議論し始めるということが起きた。しかし、誰のどの批判があてはまるものなのかはっきりしないことが殆どだった。
poohさんのところに書かれたblupyさんが端的にまとめているので、引用しておくと、
あの「科学的事実以外への適用」おいう表現で一番いいたかったのは「正しいこといってるのに難癖をつけている」といって態度の問題に向き合わない姿勢です。それがニセ科学かどうか、その批判が科学的に正しいかどうか(科学の次元)、と、その批判のスタイルに問題がないか、は別の話で、後者をつっこまれたとき、前者をいってひらきなおるのはよくない、という話です。
といった主張が、表現を変えていろんな人から出てくることになった。
ニセ科学を問題とする側が、嘘を指摘する時に科学の範囲を超えないように自粛したために、「科学として間違っていることだけを問題にしているはずだ」と受け取られてしまい、「それならば科学以外のことまで言うのはどうなんだ」という間違った突っ込みを誘発してしまったのではないだろうか。批判する側が「嘘をつくのはよくない」を暗黙の前提にしているだけに過ぎず、そのことを十分意識していなければ、「科学以外のことまで押しつけるな」と反論されたとしても、即座に「その部分は社会規範に抵触する問題である」とは返せないだろうということである。ここでもし間違って、うっかり「それでもやっぱり科学として間違っていることを広めるのはまずい」などとやってしまうと、「批判をすることを正当化するのに科学を使った。科学の権威の濫用だ」などという突っ込みを招き入れることになる。
従って、今後は、「ニセ科学を広める行為は、単に科学として間違っていることを広めるというだけではなく、嘘をついて他人を騙すなという社会規範に抵触するから非難に値するのだ」と最後まで省略せずに言った方が良いだろう。そうすれば、どこまでが科学の話でどこからが社会的非難かがはっきりする。
ついでに、「嘘や不確かなことを他人に広める、という社会的に非難に値する行為をしておいて、クレームがついたからといって、批判の態度が気にくわないなどというゴマカシをするのはやめろ」とも言っておくべきだろう。態度云々は、マナーがどうあるべきかという問題であって、社会規範への違反の程度に見合った非難かどうかということまで含めて判断されるものだから、科学とは切り離して議論すればよい。むしろ、この議論に、科学の権威云々というごまかしを持ち込ませてはいけない。
ニセ科学を問題にするときは、あくまでも個別の行為を問題にするしかないので、以前、私は、「ニセ科学批判をすること」を「スポーツをすること」に喩えた。この意見は今でも変わっていない。
今回、敢えて「ニセ科学批判批判」と括ったのは、個別のニセ科学への対応はやっぱり個別のままなのだけど、「共通して欠けていた・不足していたもの」があったのではないかと考えたからである。それは、社会規範に対する認識であろう。
これまでのところは、ニセ科学を広めるという行為に対して、言説の内容が科学として間違っているという批判はかなり十分であったが、広める行為が社会規範に違反するという非難が不十分だったのである。
なお、今回の議論において、ニセ科学を信じるのは個人の自由だ、などという主張は通用しない。内心で「信じる」だけの行為は最初から批判も非難もされようがないからであり、議論の対象になっているのは、blogに書くなどして、ニセ科学を他人に広めたものだけである。嘘を広めたことについて責任を問われてもそれは仕方がないだろう。免責されたければ、blog等に書いたニセ科学言説が社会規範の例外にあたることを示せば良いだけの話である。
【追記】
もっとあからさまに書くと、ニセ科学を問題にするのなら、「科学としても間違ってるし社会規範にも抵触する」と、前と後を同程度の強さで言わなければいけなかったのに、後の方を無意識的に端折って前の方を強調することが多かった(明文でそう書かないことが多かった)。でも、本来、この二つは一緒に言うべきことなので、ニセ科学が問題だといって前の方についてだけ議論していても、意識しないままに後の方が混じる。ところが、「科学の方しか言わないものだ」という「お約束」を勝手に読み取った人達が、「後の方の理由付けに科学を使うな」などと言い出した、という構図じゃないかな。ニセ科学を問題にする側は後の方を意識せずに言ってるから、突っ込まれても何が問題かピンと来ない。言われた側だって後半は別の話だと苦し紛れに言ってみたりするかもしれないけど、じゃあ後半が本当はどんな話なのかということを詰めていけば、今度は正面から非難される結果が待っている、と。
故意に科学とそうでない話を混ぜたり意識してわけたりしている場合は、是非はともかく混乱はしないだろう。自覚が無いとか無意識でもって別の話が混じっている場合の方が、混乱が激しそうな気がする。
いずれにしても、今の社会における「悪徳商法はいけないことで、非難に値する」というのと同程度の共通認識となるように「ニセ科学を広める行為はいけないことで、非難に値する」ということも社会の共通認識にしていくしかなさそう。非難に値する程度は被害の程度に応じて決まるという面も含めてだけど。