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ツンデレの香りが……

Posted on 5月 14th, 2009 in 倉庫 by apj

 msn産経ニュースの記事より。

ピースボート護衛受ける ソマリア沖
2009.5.14 01:38

 海賊対策のためアフリカ・ソマリア沖に展開中の海上自衛隊の護衛艦が、民間国際交流団体「ピースボート」の船旅の旅客船を護衛したことが13日、分かった。ピースボートは海賊対策での海自派遣に反対しており、主張とのギャップは議論を呼びそうだ。
 海自の護衛艦2隻は11日から13日にかけ、ソマリア沖・アデン湾を航行する日本関係船舶7隻を護衛。うち1隻がピースボートの船旅の旅客船だった。ピースボートは社民党の辻元清美衆院議員が早稲田大在学中の昭和58年に設立。船旅は寄港地のNGO(非政府組織)や学生らと交流を図ることなどを目的としている。
 66回目となる今回の船旅は約3カ月半に及ぶ地球一周で、北欧5カ国とフィヨルドを巡るのが目玉。約600人が参加し、4月23日に横浜港を出発後、中国とシンガポールに寄港。ピースボートのホームページには船旅の最新リポートとして、デッキで催されたフルーツパーティーの様子が掲載されている。
 ピースボート事務局によると、船旅の企画・実施を行う旅行会社が護衛任務を調整する国土交通省海賊対策連絡調整室と安全対策を協議し、海自が護衛する船団に入ることが決まったという。
 ピースボートは市民団体による海自派遣反対の共同声明にも名を連ねている。事務局の担当者は「海上保安庁ではなく海自が派遣されているのは残念だが、主張とは別に参加者の安全が第一。(旅行会社が)護衛を依頼した判断を尊重する」と話している。

「あ……あんた(海自)の存在なんか認めてないんだからねっ!!」
「守って欲しいなんて思ってないんだからねっ!!」
と、ソマリア沖でツンデレを広めるピースボートというビジュアル(謎)が頭に浮かんだ。
 

ちょっとした印象なのだけれど……

Posted on 5月 14th, 2009 in 倉庫 by apj

 「ニセ科学批判批判」で、批判の態度を批判するとか、ニセ科学問題には社会規範の弱体化がある(少なくとも科学限定では)という話をすると「社会規範や道徳を押しつけるな」と言いだす人が居ることについて。
 本当の問題は、多分、なぜ科学の場合だけ「嘘をつくな」「不確かなことを言いふらすな」という社会規範が通用しないことが他の場合(悪徳商法対策やらオレオレ詐欺の取り締まりやら)に比べて多いのか、ということ。

 科学そのものが持つ正しさの権威は、科学で扱える範囲に限っては相当強力である。で、強すぎる権威をどうにかしたいが為に、科学の内容を間違いなく流通させるために必要な社会規範の権威の方を意識的に下げればいいと勘違いしてるんじゃないの?というのが私の受けた印象である。

 どうなんだろう……。ふと思っただけなので、相当外しているかもしれないのだけど。

 もちろん、科学の正しさとによる権威と、社会規範が持つ権威は、由来も性質も全く別のものだから、たとえ科学の話をする場面限定であっても、社会規範に通常必要なだけの権威を持たせておかないと、現実の社会でいろいろ不都合が起きる(消費者被害発生に荷担するなど)ことになるのだが。

【追記】
 科学の権威を利用して社会規範の方をいじくろうとするようなことが起きた時には(かつての優生学みたいな)、科学の権威を否定するんじゃなくて、「科学としてはどうあれ社会規範としてまずい」ということをはっきり言わなければいけない。「科学で扱える範囲を超えているからまずい」という誤用の指摘だけでは、回りくどいし足りないのであって、本当は、社会規範として問題にしなければいけない。どういう社会規範を立てるかということを正面から議論しなければいけないときに、科学の権威とやらを攻撃目標にしたって、それは最初から見当外れでしかない。
 このあたりのことをちゃんと議論して整理するのなら、文系の関連分野の人達がこれまでに積み重ねてきたものを理解し、使わせてもらうようにしないとうまくいかないんじゃないか。

 普段から社会規範とは何か、ということを考えていたならば、「科学の権威」と社会規範を混同することなど起こりようがないと思う。ところが、批判批判を標榜する人達は混同したまま気付きもしないように見えた。世の中にニセ科学がはびこる一因として、科学リテラシーの欠如があるのかもしれないけど、使えない批判批判がはびこるのは、社会規範について考察するという文系分野(例えば法哲学とか社会法学とか倫理学とか)のリテラシーの方も科学の知識同様に欠如しているということじゃないの?批判批判を標榜する人達に対しては「ニセ科学に荷担する」とか「科学を受け入れない」といった批判をするよりも、はっきりと「文系(分野をもうちょっと絞った方が具体的だけど)を舐めるな」と言った方がいいのかもしれない。

指導教員は博士学位論文審査の主査や審査委員から外しておけ

Posted on 5月 13th, 2009 in 倉庫 by apj

 Yomiuri Onlineの記事より。

東北大大学院生が自殺…博士論文、2年連続受け取り拒否され

 東北大は13日、大学院理学研究科で教員の指導に過失があり、担当していた大学院生の自殺につながったとする内部調査結果を公表した。

 大学院生は2年続けての教員による博士論文の受け取り拒否などで修了できなかった。同大は懲戒委員会で処分を検討しているが、この教員は今月に入り辞職した。

 同大によると、自殺したのは理学研究科で生物関係の研究をしていた博士課程の男性大学院生(当時29歳)。大学院生は昨年8月、研究のデータ集めをした滋賀県内で自殺した。遺書には指導法への不満などはなかったが、翌月、両親から男性准教授(52)の指導に問題があったのではとの指摘を受け、内部調査委員会を設置していた。

 大学院生は2007年12月、博士論文の草稿を事前提出したが、准教授は大学院生と十分に議論せず受け取りを拒否。准教授は06年11月ごろにも、論文提出を延期するように指示しており、大学院生は2年連続で博士号の取得に失敗した。

 調査は、残された論文草稿やデータを見る限り、大学院生の研究は博士論文の審査水準に到達していたと判断。准教授が、具体的な指示を与えず、適切な指導を行わなかった結果、大学院生は学位取得や将来に希望を抱けなくなり、自殺に至ったと結論づけた。准教授は、08年1月に科学誌から大学院生の論文が掲載を拒否され、書き直しが必要になった際も、適切な指導を行わなかった。准教授は調査に「論文提出の直前までデータ整理に追われており、時間がかかると判断したが、指導に不適切な点があった」と話したという。

(2009年5月13日12時38分 読売新聞)

 こういう事件を防ぎたければ、博士学位審査の主査や審査委員から指導教員を外す制度にしておけば良い。

 私は課程博士の学位を東京大学大学院医学系研究科で得たのだけど、医学系は、指導教員が主査にも審査委員にも入らないシステムになっていた。
 テーマ変更から後、指導教員の言うことは全くきかずに勝手に実験して勝手にまとめていた。教授の振ったテーマが見込み違いだったため、半年ほど「あなたの指導じゃ学位は取れない」と教授と喧嘩していて、最終学年の4月にテーマ変更をやった。10月末日が学位論文提出なのに、提出1週間前にまだ第一章が書けていなかった。その日に事務に届けないと判定会議等の日程に間に合わないという提出締め切り日当日の朝8時頃に、必要部数の5部の印刷と仮製本が終わった。書き終えたのは提出日当日になってから(日が変わる頃)だから、教授が目を通す時間なんかあるわけがない。それでも、さすがに指導教授には一言くらいは言わないとダメなので(確か、所定の用紙に印鑑だかサインだかもらうことになっていた)、その5部を持って、教授が会議をしているホテルオークラに直行し、昼休みに出てきた教授を捕まえて「先生が何を言おうがこの内容でいきますから。審査で落ちたってそれは私の責任ですから。先生は審査に関係ないのだから余計な口出しは無用の筈ですが何か?」と強引にハンコだかサインだかをもぎ取って、そのまま本郷の事務に直行して提出した記憶がある。
 東大の場合は、指導教員を主査にした上で予備審査であら探しをして対応させ、本審査ではほぼ通るのが工学系研究科、本審査一発勝負でレベルに達してなければ、指導教授が定年退官といった事情があろうがおかまいなしに容赦なく落とすのが医学系研究科だった。
 出しちゃったものはしょうがないので、公聴会の練習は普通に研究室内でやって、教授も見てくれていろいろ突っ込まれた。まあ、何とか本番一発勝負の審査はパスすることができた。
 もし、工学系研究科のシステムだったら、私は学位取得に失敗していただろう。もっとも、テーマ変更から短期間で何だかアクロバティックな通り方をしたので、研究室内では前代未聞だと言われたが……。

 一端審査になったら指導教員は手出しも口出しも無用、という制度だと、指導教員が提出拒否権を持つ余地がそもそも無い。この制度の方が、指導者と合わなかった場合に院生が助かる。
 博士課程を選ぶ時は、「学位論文の主査や審査委員に指導教員が入らないこと」というのが、重要なチェックポイントの1つだろう。

ニセ科学と社会規範

Posted on 5月 12th, 2009 in 倉庫 by apj

 どうもこちらに書いた方がコメントをもらえそうなので……。ニセ科学まとめに書いた文書のうち「ニセ科学と社会規範」をこちらに転載しておく。
 判定ガイドラインの前文に入れるべきかどうかは考慮中。この部分だけでも、常識的なことを書こうとするとこの程度にはなるので……。
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ニセ科学と社会規範

社会規範とは何か
 社会規範には、法規範、道徳規範、宗教規範、慣習規範がある(「サイエンス・オブ・ロー事始め」)。法規範は社会において強制力を伴う。「道徳規範は、個人の倫理観や道徳観が社会一般に共通するものに高められ、自然に社会規範として定着してくるもの」「宗教規範は、ある宗教上の教義が特定の信者に地してだけでなく一定の社会や地域に普及し、これが社会規範として尊重されるもの」「慣習規範は、社会のなかで長年にわたり繰り返し守られてきたことが社会的ルールとして意識され、遵守されるもの」とされている。

 社会規範とは、法規範も含めた、社会生活を送る上で守った方がスムーズにいくルールで、破ると一定のペナルティ(強制力のあるものから、クレームをつけられるといった強制力のないものまで)を科されるものである。

 社会規範は自然科学の法則ではなく、人と人との間で決めるものである。社会規範に違反する行為が存在するから規範が無意味だ、ということにはならない。殺人事件があるから人を殺してはいけないという社会規範を弱くしましょうとか、詐欺を行う人が現実に存在するから他人を騙す行為を少しは正当化しましょう、ということにはならない。観測事実によって法則を書き換えてきた自然科学とはルールの在り方が異なっている。

ニセ科学を問題とする場合の社会規範
 ニセ科学の「ニセ」の部分を問題とする理由の1つに、「人を騙してはいけない」「不確かなことを言いふらしてはいけない」という社会規範の存在がある。もう少しくだけた言い方をするなら「嘘をついてはいけない」といったものになるだろう。

 このことについて、道徳を押しつけるといった見当外れの意見が出てくるが、それは社会規範の意味を知らない、あるいは現状を把握していないことから生じている。

「人を騙してはいけない(嘘をついてはいけない)」は法規範に含まれている
 「人を騙してはいけない」という内容が法規範に含まれていることは、個別の条文からわかる。いくつか実例を挙げておく。

○刑法246条(詐欺)
「人を欺いて財物を交付させた者は」と規定されている。騙す行為すべてが詐欺行為となるわけではなく、人を錯誤に陥れて処分を導くものに限られる。不作為によるものも含まれる。
○刑法233条
業務妨害罪の要件として「虚偽の風説を流布し」と規定されている。
○刑法230条の2、名誉毀損については民法の不法行為責任を問う場合も同様の基準による。
名誉毀損罪の免責条件として「公共の利害に関する事実に係り、かつその目的が専ら公益を図ることにあったと認める場合には、事実の真否を判断し、事実であることの証明があったときは、これを罰しない」と定めている。条件を限って、真実性・真実相当性を判断して免責する、ということであり、嘘をついていた場合には免責されることはない。
○刑法169条、171条
法律により宣誓した場合の虚偽の陳述、虚偽の鑑定や通訳・翻訳をすると刑事罰の対象になる。
○民法94条
「相手方と通じてした虚偽の意思表示は無効とする」と定めている。契約成立は意思表示の合致であり、契約は守らなければならないというのが原則だが、例外として虚偽表示の場合は無効であるとした。さらに、善意の第三者には対抗できない、として無効の範囲を制限している。
○民法96条
「詐欺または脅迫による意思表示は取り消すことができる」と定めた。こちらも、契約は守らなければならないという原則に変更を加えるものであるが、善意の第三者に対抗できないとすることで、変更の範囲を制限している。
○民事訴訟法2条
「当事者は、信義に従い誠実に民事訴訟を通以降しなければならない」と規定している。訴訟法上の要件を具備するように故意に事実状態を作り出したり妨害したりしてはいけない、というものが含まれている。
○不当景品類及び不当表示防止法4条
不当な表示の禁止。実際よりも優良であると消費者を誤認させる表示を禁止し、2項では、表示の「合理的な根拠」を持つことを前提とした(根拠を示せなかった場合には優良と誤認させる表示をしたとみなされる)。
○特定商取引に関する法律6条、6条の2
不実告知の禁止。不実告知を行ったかどうか判断する際に、告知内容の「合理的な根拠」を事業者が示せなかったら、不実告知をしたとみなされる。

 刑事系にも民事系にも、「嘘をついてはいけない」「不確かなことを言いふらしてはいけない」という規範を具体的に盛り込んだ条文があることがわかる。

 裁判所で争われる場合、法が含んでいる「嘘をついてはいけない」「不確かなことを言いふらしてはいけない」といった規範が道徳あるいは社会慣習に合わないという理由で、法の適用が問題になったりすることは起きていない。従って、法規制の延長上にあることがらについては、法的ペナルティが科されない場合であっても守った方がよいこと、としてこれらの規範を位置づけるのは、強制でも押しつけでもない。既に我々の社会はこの立場をとっていると考えるしかない。

法と道徳の関係、その他の規範との関係
 現在受け入れられている考え方は、「法は道徳の一部である」というものである。これには2通りのとらえ方がある。一つは、法は社会秩序の維持のために強制しなければならない最小限度の道徳規範であり、それ以外に道徳のみで規律するものが広がっているというもの、もう一つは、法と道徳が交錯しており、交錯した部分が道徳的基盤に根ざした法(刑法など)、交錯していない部分はそれぞれ道徳のみ、法のみが問題となるとする考え方である。日本での現在の通説は後の方である。

【補足】

 道徳が法を含むとしてしまった場合に生じる問題。例えば、戦前の尊属殺重罰規定は、親孝行せよという社会道徳が背景にあった。昭和29年福岡高裁判決のケースは、親の側からの激しい暴力と性的虐待が続いた挙げ句に起きた尊属殺人事件で、社会道徳を適用すると加害者に対して非人間的な結果をもたらす。

 普通に考えて、法規範と道徳規範と宗教規範と慣習規範が相互に逆のことを主張するというのは、原則として有り得ない。たとえば、社会規範と正面から衝突する特定宗教の教義は、社会で受け容れられることが無いばかりか、制裁の対象になる(多くのカルト宗教が引き起こした事件など)。例外としては、異なる道徳規範のどちを優先するかという問題が生じた場合に、矛盾が生じることはある。また、社会の変化に規範の変化が追いついていない場合には不合理な結果になったり、一時的に矛盾したりすることが起こりうる。

社会規範の存在を想定してよい場合
 「嘘をついてはいけない」「不確かなことを言いふらしてはいけない」という社会規範と重なった法規範が効力を発揮するのは、社会的評価の変動を引き起こしたり(名誉毀損)、財産的被害を発生させたりする場合である。刑法の詐欺罪を構成するところまでいかなくても、不実証広告を行って消費者に物を売りつけたりしたら、行政処分の対象になる。

 世の中に存在する「ニセ科学」の多くは、財産的被害を発生させる。実際、既に排除命令や行政処分の対象になったものとほとんど変わらない、あるいは相当似通ったやり方で商品宣伝をするケースが後を絶たない。商売に使われるニセ科学は、違法なものと重なっていたり、既に違法とされたものの周辺にあるといえる。であるならば、法の適用の場合と同様に「嘘をついてはいけない」「不確かなことを言いふらしてはいけない」という社会規範が適用されることを前提として、ニセ科学をこの社会で問題にしてもかまわない。

 他に考えられる規範としては、「公共財であっても財産的被害を発生させてはいけない」「他人に危険を及ぼしてはいけない」「本人の努力で対応不可能なことを理由として社会的差別をしてはいけない」といったあたりが考えられる。このあたりまでは条文も判例もある。

 これらの規範に違反することが併せて問題となっている場合に、「科学が科学以外のことまで正当化するのはけしからん」等と反論するのはナンセンスである。科学以外のこと、即ち社会規範は、科学者が決めたのでもニセ科学を問題とする人達が決めたものでもなくて、我々の社会が決めたものである。科学者を含めニセ科学を問題とする側は、単にその規範を受け入れているに過ぎない。

現実のニセ科学について検討する
 上記の社会規範の存在を前提として非難に値するニセ科学とは、その内容が、実際に違法なものの周辺にあるとか、違法な行為を手助けする、あるいは他人に損害をもたらすといったものになる。そこで、これまでにニセ科学として話題になったものを列挙し、社会規範という面から検討してみる。

 リストとして、少し古いが、「妄想科學日報」の「覚えておきたい、ニセ科学リスト」(2007/11/28)を参考にさせていただくことにする。陰謀系と精神世界系は、ニセ科学というよりも、非合理として問題にすべき部分が多いので省いた。

 被害発生の態様として、「財産被害型・不当表示型」、「権利侵害型」、「公益侵害型」に分けてみることにする。「財産被害型・不当表示型」は、法規制の対象となっているものに最も近い。「公益侵害型」は、特定個人ではなく社会に広く損害をもたらすもの、「権利侵害型」は差別と直接結びついているものであり、「嘘をついてはいけない」「不確かなことを言いふらしてはいけない」とは異なる社会規範に抵触する。

○ ホメオパシー:「財産被害型・不当表示型」(役立たずのレメディーを売りつける)、「公益侵害型」(感染症への効果を主張することで社会に被害を発生させる可能性がある。)
○予防接種有害論:「財産被害型・不当表示型」(説を受け入れた個人を危険にさらす)、「公益侵害型」(感染症への効果を主張することで社会に被害を発生させる可能性がある。)
○千島学説:「財産被害型・不当表示型」(ガン治療に効くとの主張が行われており、説を受け入れた個人を危険にさらす)
○経皮毒:「財産被害型・不当表示型」(シャンプーを売りつけるインチキ宣伝のネタ)
デトックス:「財産被害型・不当表示型」(健康グッズを売りつけたり施術で金を巻き上げたりするためのネタ)
○白金ナノコロイド:「財産被害型・不当表示型」(治験が終われば治療薬としての地位を獲得するかもしれないが、十分な調査の前に健康グッズとして売るのは被害発生の可能性がある)
○血液さらさら:「財産被害型・不当表示型」(不安を煽ることで、マイナスイオングッズを始めとするインチキ健康グッズを売りつけるための宣伝手段)
○血液クレンジング療法:「財産被害型・不当表示型」(オゾン療法で金を巻き上げるための理屈。血液えのダメージや感染症のリスクがあり得る。)
○ゲルマニウム:「財産被害型・不当表示型」(健康グッズとして売りつけるためのインチキ宣伝文句)
○癌克服術:「財産被害型・不当表示型」(信じた人が、治療を遅らせたりすると命の危険がある)
○ミラクルエンザイム:「財産被害型・不当表示型」(インチキ療法を広めるためのネタ)
○ゲーム脳:「公益侵害型」(第三者が広める場合は「不確かなことを言いふらす」行為になるが、提唱者がやったことは、社会の中の制度として維持している研究成果の出し方等の部分を壊すという、別の規範に触れる行為である)
○水からの伝言:「財産被害型・不当表示型」(浄水器・活水器のインチキ評価法)
○波動:「財産被害型・不当表示型」(健康な情報を転写する等々、インチキ商材を支える理屈)
○マイナスイオン:「財産被害型・不当表示型」(インチキ健康グッズ販売)
○機能水:「財産被害型・不当表示型」(機能水研究財団のような、まっとうな企業努力をしている集団もあるが、これを謳うインチキもまだまだ多い)
○トルマリン:「財産被害型・不当表示型」(健康グッズとして売りつけるためのインチキ宣伝文句のネタ)
○ランドリーリング:「財産被害型・不当表示型」(効果に根拠のないグッズ)
○燃費改善:「財産被害型・不当表示型」(買った人にとって)、「公益侵害型」(トータルで見て環境負荷増大。環境負荷を上げる行為自体が悪いわけではないが、環境にやさしいといううたい文句と逆では詐欺だろう)
○EM菌:「公益侵害型」(むしろ環境負荷を増やす)
○オーディオ:「財産被害型・不当表示型」(買った人にとって)
○永久機関:「財産被害型・不当表示型」(投資詐欺御用達)
○相対性理論は間違っている:
○血液型と性格の相関:「権利侵害型」(就職差別等を引き起こしている。生物学的特徴で差別をしてはいけないというのは、科学とは関係のない規範である。)
○ID論:
○フリーエネルギー:「財産被害型・不当表示型」(投資詐欺御用達)
○スカラー波:
○七田式右脳開発トレーニング:「財産被害型・不当表示型」(天才を生むかのような宣伝は誇大広告だろう)
○ドーマン法:「財産被害型・不当表示型」(根拠に乏しい医療行為)
○キルリアン写真:「財産被害型・不当表示型」(水評価でもインチキ評価法として登場)

 宗教が絡む「ID論」、本を売る商売以外とは直接結びつかない「相対論は間違っている」、カルトの道具と化した「スカラー波」以外のニセ科学の多くは、商売のためのものであり「不当表示型」に分類できる。他のいくつかは、特定個人ではなく社会にも損害を与えるため「公益侵害型」の面も持っている。「血液型と性格の関係」がちょっと異質で、本人の努力で対応できない要因を理由とする社会的差別を禁じている規範に直接違反する内容である。

 「ゲーム脳」は、大学や研究者が社会に対して情報発信する時には研究としてある程度確立したものが出てくる、という、社会が前提にしている制度を壊す行為を研究者が行ったという問題がある。

【注】「ID論」や「相対性理論は間違っている」は、これまでのところ、ニセ科学として問題になるよりも、むしろ、従来の「疑似科学」の括りで問題とされてきた。こうして並べてみると、結果として、法規範に馴染みやすいものがニセ科学として問題となり、法規範から遠いものが疑似科学として取り上げられているように見える。

違反の程度とペナルティのバランス
 ニセ科学を問題にするという行為そのものが法的裏付けを伴うわけではないから、問題にするといっても、ウェブ等で批判的にとりあげるとか、場合によってはマスコミ等を通して批判的な内容を述べるといった対応に止まることになる。違法とされた場合のペナルティとしては強制力を伴った何らかの処分が行われるところ、未だ違法とされないものについては、いろんな人からクレームをつけられる、という程度の軽いペナルティになる。

 ニセ科学の中には、後日違法とされるものも含まれている場合がある。この場合は、先にニセであることを指摘することで被害発生を減らせる可能性がある。

 また、法が総ての違反を引っかけているわけでもない。あるニセ科学宣伝に対して行政処分等が行われた場合、ほとんど類似の宣伝や、似ているが違法のハードルを越えるに至っていない宣伝に対して、批判するという軽いやり方で注意喚起を行うのは、規範に対する違反の程度ともバランスがとれている。

 

社会規範の部分を押しつけであるとすることの意味
 社会規範にこれらの特定の規範が含まれていることを問題としたり、規範を押しつけるということを問題とするのなら、同時に法規範の一部も否定する立場を取っていることになる。このことを自覚すべきである。

 慣習規範の性質から、ある規範が長年繰り返し守られなくなると、規範としての力は段々無くなっていくと考えるしかない。社会で規範として受け入れられていないものを法で強制するというのは無理があるから、行き着く先は、法規範まで含めてその規範が無くなるということになる。だから、本気でこれら2つの規範を将来には無くすべきだと考えているのならば、今、道徳を押しつけるなという立場で否定することはその考えと矛盾しないだろう。しかし、そこまでの覚悟がないのにうわべやその場の気分で否定だけするのは、やはり思慮不足というものだろうし、無意味に社会を混乱させると非難されても仕方がない。

 また、規範が抵触するものは別の規範である。従って、ニセ科学を問題とする行為が社会規範の存在を前提にしているからといって、「科学以上のことを正当化するな」などと主張することは失当である。このような主張は、規範としての体をなしていないので、上で取り上げたいくつかの規範にぶつけて、何を正しいとするかという価値に関する考察を行うためには、全く利用できない。批判の態度批判をする場合も、単に個人的に気に入らないというレベルの話ではなくて、きちんと基準となる規範を立てて議論しない限り意味がない。
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ヤクザの方がまともに見える……

Posted on 5月 12th, 2009 in 倉庫 by apj

 Yahoo経由毎日新聞の記事より。

<ゲーム機>空くじに立腹、所有者脅す 容疑の組幹部ら逮捕
5月11日23時51分配信 毎日新聞
 福岡県警は11日、ゲーム機「UFOキャッチャー」のくじ入りカプセル約180個すべてが空くじだったことに腹を立て、ゲーム機の所有者を脅したとして、同県大牟田市船津町、指定暴力団九州誠道会幹部、梅木一馬容疑者(43)ら3人を暴力行為等処罰法違反容疑で逮捕した。県警によると、店主は参考人聴取に「何回かに1回は当たりを入れてある」と話しているという。

 梅木容疑者は同会の実質的ナンバー2という。他に逮捕されたのは、同県うきは市吉井町千年、同会系組幹部、藤田秀憲(30)と、弟で自称同市吉井町富永、同、藤田光雄(27)の2容疑者。いずれも「知りません」と否認している。

 容疑は、3人は今年1月6日夜、同県内のカラオケ店で、UFOキャッチャーのカプセル内のくじがすべて空くじだったため立腹。ゲーム機を所有する男性(61)に対し、殺害された指定暴力団道仁会会長(当時)の名前を挙げ「やったのはおれや。この落とし前どうするとか」などと脅したとされる。

 県警によると、3人はゲーム機で数個のカプセルを取ったが、中のくじがすべて空くじだったため、カラオケ店主に迫って、ゲーム機内に残っていた約180個のカプセルを1個当たり、正規のゲーム料金の100円で買い取り、その場でくじを開封。しかし、当たりが一つもなかったことから激怒し、店主を通して所有者を呼び出したという。3容疑者はカプセル代約1万8000円を店主に支払っている。

 後で脅したところで引っ掛かったとはいえ、先に180個も正規料金で買い取って中身を確認するあたり、ヤクザにしては妙に律儀で几帳面なような……。しかも180個全部ハズレなのに、何回かに1回当たりが出るという主張をしている店の方が、何だか詐欺っぽいし、悪質な商売をしているように見える。数個でも当たりが入っていたら事件にはならなかったんじゃないか。ヤクザをしょっぴく前に店をしょっ引けと思うのは私だけ[:困り:]?

例会発表物件

Posted on 5月 9th, 2009 in 倉庫 by apj

 と学会例会発表物件について。
 先日入手した「水は知的生命体である」を発表。
 宗教家と芸術家の対談で済んだ筈のものが、対談にホメオパシー・「波動」・「共鳴」をまとめて信じている工学博士を入れたばっかりにトンデモに化けたという本。
 ただ、波動より直感と言い切ったらしいあたり、別方向に突き抜けていることは確かだったり。

個人の責任

Posted on 5月 8th, 2009 in 倉庫 by apj

 ニセ科学カテゴリーにしようか迷ったのだがネットワークの方で。
落合弁護士のblogより。「報酬もらってブログで宣伝――「ペイパーポスト」に厳しい視線
  ITmediaの記事が引用されている。

 景気低迷の中、企業はブロガーに与える無料サンプルや報酬を、自社ブランドの話題を盛り上げる安上がりな方法だと考えている。だが、サイトの訪問者が宣伝文句を読んでいることに気づかないケースも多い。すべてのブロガーが、報酬をもらって製品を取り上げていることを――たとえ公表していても――はっきりと明記しているとは限らないからだ。

 インターネット上のペイパーポスト(報酬をもらって書くブログ)が広まったことで、虚偽広告対策を扱う米連邦取引委員会(FTC)は、ブロガーを取り締まるべきかどうかを検討している。FTCは約30年前の広告ガイドラインを更新するに当たって、ブロガーと、彼らに報酬を払うオンラインマーケティング業者と企業に、誤解を招く投稿について法的責任を負わせることを提案している。決定はこの夏に下される予定だ。この提案が承認されれば、違反者は調査を受け、ブロガーは詐欺的な慣行をやめなければならない。違反が続いた場合は、FTCは企業に顧客への払い戻しを求める可能性がある。

 その一方で、多くのブロガーは自身の評判を心配している。企業との取引について、読者にもっと正直に開示する必要があると主張するブロガーは増えている。開示推進派は、読者が企業のサクラと正直な意見を区別できなければ、ブログ全体の信頼性がなくなると主張している。

 これに対する落合弁護士の意見は次の通り。

この問題が、単なる倫理面での問題にはとどまらないということを示しているのは確かでしょう。販売者が、自らではできないような虚偽誇大広告を、一種のアウトソーシングのように、こういった「ネットさくら」を利用して行わせ責任の所在を曖昧にしたまま売り逃げる、といったことが、今後、ますます頻発する恐れはあって、個々のネットさくらの大部分はやっていることの問題性に思いが至らないまま無邪気に踊らされているだけに厄介、という側面も出てくるでしょう。
直ちに取り締まるということが得策かどうかは慎重に検討すべきですが、こういった米国での動きは、日本におけるこの問題を考える上でも参考になりそうです。

 虚偽誇大広告にニセ科学が登場することはそれなりの頻度で起きているわけで、ネットさくらの責任を問う方向に進めば、将来は法規制の対象になるかもしれない。

科学的正しさ以外の部分(=社会規範)の具体的内容への言及は何故か避けられる

Posted on 5月 8th, 2009 in 倉庫 by apj

 「権威の個人化」について。

 ここに2種類の権威の適用があります。第一の適用は、科学的事実をもとに、科学的事実について述べて、それを正しいとすること。第二の適用は、科学的事実をもつに、科学的事実を述べている人の科学的事実以外のことに関して正しいとすること。批判批判者はあくまで後者を批判している。

ニセ科学批判批判者が「ともかくお前らの態度が気に食わない」というスタンスを取ってしまうのはなぜか

すでに書きましたが、おそらくそれはニセ科学批判者が第二の適用をするから。つまり、科学的事実以外の事柄にも、科学的事実並みの権威性があるかのようにふるまい、過剰に自分たちのふるまいを正当化しているからです。だから批判内容は批判しないのに批判態度は批判の対象にするのです。

 既にpoohさんのところに技術開発者さんが次のようにコメントしておられる。

なんていうか、私のように自然科学で飯を食っている者が、ニセ科学批判をする場合に、2種類の権威というのが絡んでくる訳です。一つは「その言説は科学的に正しいことではない」という主張を受け入れて貰うための「私は自然科学の専門家である」という権威ですね。でもってもう一つが、「嘘を言いふらしては成らない」という社会規範が持つ権威です。

私は消防署の人が防災講話で家庭用報知器の設置を勧めるときに、「消防署が訪問販売することはありません、ホームセンターなどでは5千円から1万円で売っていますから、訪問販売に気を付けてください」という話をすることなどを引き合いに出して、この2種類の権威の絡み方というのを説明しようとしたりします。消防署の人が「消防署が訪問販売することはありません」と言うのは「消防署の方から来ました」という訪問販売で、「消防署が売りに来た」と誤認されることを避けようとしています。ですが、消防署の人がわざわざ講話でこの話をするのは、身分を偽るタイプの訪問販売が「社会的規範に違反する社会的悪である」という前提を踏まえています。この社会的規範も規範としての権威を持っている訳です。

理解して欲しいのは、この2番目の社会的規範の権威性というのは、或る意味で社会に生きる者全てが自然に或る程度は従う部分があると言うことなんです。実際、ニセ科学批判をする科学者・技術者も、「消防署が訪問販売はしない」と言う消防署員も、それぞれの立場を離れた一社会人として、その社会規範の権威性を認め、それゆえ、それは誰にも分かることだろうと詳しく説明することなく利用している訳です。

実際には、多くの人がニセ科学批判を行おうとして、この二番目の権威が機能しない事に気が付いて愕然とする訳です。面白い事に消防署の講話に対して「消防署が訪問販売しないことはわかったよ、だけど消防署員と思わせて報知器売ったってかまわないだろう」と噛みつく人というのには逢ったことがありません(まあ、たまには居るかもしれませんが)。でもニセ科学批判では「科学的でないという事は分かったよ、でも科学が全てでは無いだろ、なんて言いふらしちゃいけないんだ」という人が結構な割合でいます。つまり、二番目の社会規範の権威性が機能しない訳です。

by 技術開発者 (2009-05-08 08:42)

 私も、正しさが、科学の部分と社会規範の部分の二重構造になっているという認識を持っている。

 で、blupyさんの議論で、どうして肝心のことが書かれていないのかを問題にしたい。
「科学的事実以外のことに関して正しいとすること」
「科学的事実以外の事柄にも、科学的事実並みの権威性があるかのようにふるまい、過剰に自分たちのふるまいを正当化しているからです」
と書いておきながら、「科学的事実以外のこと」の具体的内容が一切述べられていない。というか、むしろ巧みに避けられている。それはなぜか。

 私がニセ科学を問題にする時は、「嘘(や不確かなこと)を言いふらしてはいけない」という社会規範を前提としている。だから、blupyさんが言うところの「科学的事実以外のこと」=「嘘(や不確かなこと)を言いふらしてはいけない、というのは社会規範である」となる。で、私は、例外はあるとしてもこれを社会規範だと主張することが、「過剰な正当化」であるとは考えていない。そして、この場合の権威は、科学にあるのてもなく、特定個人にあるのでもなくて、社会規範そのものにあると考えている。

 この第二の権威の適用は独立に議論すべき論点だと言うのなら、議論すべきだと主張する側がまず「科学的事実以外のこと」とは一体何であると考えているのか、その中身を具体的に示さないと話が始まらない。1つでも2つでも例があればはっきりするのだが、なぜか例が出てこない。中身の特定を避けて、「科学的事実以外のこと」だけで済ますのは、一種のゴマカシではないのか。

 私は、既に、科学的正しさ以外の部分とは「嘘(や不確かなこと)を言いふらしてはいけない、というのを社会規範であるとすること」と特定した。これまでの議論でもそのように書いてきた。一方、「批判批判」を標榜する側は、科学的正しさ以外の部分を問題にすると言いつつ(あるいはそのようなそぶりを見せつつ)、批判の態度云々といった曖昧なところで済ませてしまって、具体的な中身をちっとも特定してくれない。このために話が先に進まなくなっている。

 もし、blupyさんの指摘通り、批判批判を標榜する人達が本当に批判したかったものが”科学的正しさ以外の部分について権威を正当化するという行為”であったとするならば、その内容を特定して具体的に批判しなければならなかった。にもかかわらず、科学的正しさ以外の部分とは何かという特定を怠った上に、批判者の態度などという本来の対象ではないものを批判して誤魔化し続けてきたことについては、今更弁護のしようがないと思う。blupyさんの主張である、批判批判者は科学に背を向けていない、ということを受け容れるのなら、なおさら、批判批判側が本筋でないことばっかり言い続けてきたという不誠実さが際だってくるだけはないか。

 「科学的正しさ以外の部分」を問題にするなら、例えば私が特定した社会規範について問題にするのか、それとももっと他のことを考えているのか、まずははっきりさせてほしい。これは、blupyさんに対してというよりも、他の、同様のことを問題にする人に対して求めたいことである。

【言及リンク用追記】
 このエントリーは、poohさんの「齟齬」に関連している。

メルクがニセ学術論文誌を出していた件

Posted on 5月 7th, 2009 in 倉庫 by apj

 The Scientistの記事 ”Merck published fake journal“(読むには無料登録が必要)。
 この件を取り上げたスラッシュドットジャパンのスレ「「査読付き」を名乗る、とてもインチキな学術論文誌

 特定企業の製品のためのレポートを纏めた広報誌があっても別にかまわないが、一般の学術誌と極めて紛らわしいことをしていたのが問題。どこがスポンサーか誰が見てもわかるようにでかでかと書いておけと。Medlineにも出ていないし雑誌のウェブサイトもないということなので、怪しいことは怪しいが、そこまで見なかった人は信じてしまうだろう。ただ、これで反省(どっちの方向かは敢えて問わない)して、medlineは誤魔化せなかったとしても、ウェブサイトをそれらしく作ってわかりにくいところに小さな文字でスポンサー名を記載、といったことをされたら、やっぱり引っ掛かる人がそれなりに出てくるだろうなぁ。

ニセ科学判定ガイドライン試案

Posted on 5月 6th, 2009 in 倉庫 by apj

 ニセ科学判定の「科学でない」をどう取り扱うかについて「ニセ科学判定ガイドライン試案」を書いてみた。

 もとになったのは、景表法と特商法の「合理的な根拠」の判定のガイドライン。これを、商品の説明から切り離して、特定の言説が根拠を持つかどうかを判定するために用いるという形に書き換えた。

 「ニセ科学」を問題とする立場から、ある程度具体的な判定基準を決めることを試みたのは、「科学である」「科学でない」というstatementに対し、科学哲学の議論が行われることで、実際の判定に使いづらいものが出てくることを防止したいという目的による。具体的な「科学である」「科学でない」を出して、かつ、問題として取り上げようと考えたニセ科学に網をかけられるのであれば、科学哲学の線引き問題などはとりあえず棚上げしておいてもよい。

 私が欲しいものでもあり、おそらく普通の人が考える際に手掛かりになるだろうと思われるものは、社会の中でニセ科学言説をどう扱うかという具体的なチェックの方法や基準(つまり使える道具)であって、科学哲学の議論ではない。

 また、他人の言説を「ニセ科学」と指摘することのリスクを軽減したいということもあり、現状の法規制に倣った方が良いと考えた。

 まだまだブラッシュアップが必要だろうし、ややこしいニセ科学が出てきたら書き換えも必要だと思う。意見とコメントを募集したい。