夫婦別姓に対する反対理由の「家族の絆が……」がどうしても理解できない
時事ネタになるんだけど、選択的夫婦別姓法案に対する反対理由の一つ「家族の絆や一体感が失われる」が、いくら考えても理解できないので困っている。
・選択制なのだからそう考える人がの家族が一つの姓にすることを選べば良いだけの話。他所の家族までそうだと決めつけて反対理由にするのは単なる大きなお世話でははないのか。別姓にしたことで他所の家族の絆や一体感が失われることが心配だという主張なら、その主張をしている人の家族観の貧困さが現れているようにしか見えない。一緒に暮らしていろんなことを経験して思い出も作って心のつながりもあるから家族なのであって、そういう部分って、別姓だから揺らぐものではないと思うし、逆に、心のつながりが無ければ姓が同じでも家族は壊れるものでは。
・もし、別姓が認められることになったら自分の家族が別姓を言い出して、その結果絆や一体感が失われると考えての発言だとしたら、その人は、自分が満足する状態を維持したいために制度に頼って他のメンバーを抑圧している(あるいはそうしたいという希望を述べている)ことになるのだが、それを堂々と主張しているのは恥ずかしいことだという自覚はあるのか。そういう抑圧を平気でやっていれば、そのうち家族の関係はうまくいかなくなりそう。たとえ同性であったとしても。
・社会一般についての意見だとした場合。現状の制度のもとでも、家庭内離婚だ仮面夫婦だとかいろいろあるし、子供に対する虐待もある。これらのことが、別姓にしたことで更に増えるという意見なのか?あんまり関係なさそうだけど。
・結婚して相手の姓に変えて心機一転、と楽しみにしていても、相手が同意しなかったらできなくなりそう、という場合。そういう気持ちを理解しない人を伴侶に選んで、この先やっていけると思う方がそもそも問題なのでは。
・子供が疎外感を感じるという主張である場合。自分の姓が嫌とか、こんな親と同じ姓なんてイヤだ、という子供に対するケアを行ってはいないという現実があることを考えると、子供の疎外感を持ち出すことの重要性がわからない。
発言している人の立場をどのように仮定しても、支持すべき合理的理由が出てこない。新聞を見ても、「家族の絆が……」くらいにさらっとしか触れていない。子供の姓をどう扱うかという技術的問題がある、という指摘はよくわかるのだけど、「家族の絆」だけは、どう考えてもわからない。誰か、わかりやすい説明をしてくれているのだろうか。
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Snow Leopardにしたらpdfの表示が変
teTeXでtarticleを指定してコンパイルしたファイル。
TeXShopのビューアと、Macのプレビューでは、縦線が分断されて横二本の線になる。AcrobatやAdobe Readerだとちゃんと2文字分の縦線で表示される。
理由は不明。pdfの実装なんだから、Adobeの方が正しいと考えるべきなのか? Snow Leopard側の共有ライブラリにバグがあって、プレビューとTeXShopで同じのを使っているとか、そういう理由なんだろうか。Appleに報告しようかと思ったけどどこにメールしていいかわからん。
ソースはこんなの(化けるので¥記号を全角になおしてる)。
¥documentclass[a4j]{tarticle}
¥begin{document}
本文。——縦棒テスト。
¥end{document}
【追記】
ここに書いてある奥村さんによる方法で、最新版のamsfontsに入れ替えたら解決。
熊本入り
研究グループの芋煮会をさぼって夕方の便で熊本入り。明日から物理学会。
バスターミナル周辺の方が店等はたくさんありそう。駅近くのホテルをとったんだけど、駅内の飲食店やコンビニ以外、周辺にはほとんど何も無い。
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荷物を探し回る
今週は学生を引き連れてお茶の水大で実験をしている。連休の間もいろいろ用事があって、その後は物理学会に行くことになっている。たまたま、通販で小物を買ったのだが、こういうスケジュールで動いているため、自宅に配送されても受け取れない。品物は金曜日には届くようにできるということだったので、お茶の水大の冨永研究室宛に届けてもらうように手配した。研究室内の人にも、事情を説明して、私宛のモノが来たら受け取りをよろしく、と頼んでおいた。
ところが、昨日ずっと待っていたのだが荷物が届かない。伝票番号でウェブで状況をチェックしたら配送済みになっている。仕方がないので、問い合わせフォームからで、一体どこに配送したのかということと、伝票の受け取り人の署名に何と書かれているかを教えて欲しいと連絡した。
朝になっても返事が来ていなかったので同じことを電話でコールセンターに連絡。二十分ほどで電話があって、「昨日午前十一時半頃大学に届けたが誰もいなかったので本部1階に届けた。署名は○○と書いてある」ということだった。ところが、昨日の午前十一時半、私も後輩も学生もみんな研究室に居て仕事をしていた。その状況で配達担当者に誰も遭遇できないというのは考えがたい。
とりあえず大学まで行って、正面本部棟と一緒になっている講堂が開いていたので中に入った。事務室の扉の外に座席表が貼ってあるが○○さんは居ない。そこで、もう一度電話で「実際どのへんにあった建物に届けたのか、昨日の十一時半なら私や他の人達が誰かしら研究室には居たはずなのに不在だったとは一体どういうことなのか」を問い合わせた。
その連絡を待っている間に、守衛所に行って相談してみたところ、○○さんは教務のある別の建物の1階で仕事をしている人ではないかということがわかった。たまたま今日は工事のため、その事務棟の鍵が開いているとのことだった。そこで守衛さんに頼んで一緒に事務棟に行ってもらい、事務室の中を確認したところ、確かに○○さんの座席の脇に冨永研究室・私宛の荷物が置かれていた。事務が業務を始めるのは連休明けになるが、その頃には私は熊本にいる。後から転送ということになると、うっかり受け取った事務官にも責任が発生してしまい、誰が費用を負担するかで揉めるのが目に見えているので、今日この場で何とか引き取りたいという相談をした。誰かに余計な責任を発生させるのもまずいと思ったので、私の身分証のコピー(本人が引き取りに来た証拠)と状況説明の文書をセットにしたものを2部作って署名捺印し、守衛所と事務官にそれぞれ提出し、守衛さん立ち会いのもとで無事荷物を受け取ることができた。配送したJPエクスプレスの営業所にも、荷物発見の連絡をメールで入れておいた。
伝票番号のついている荷物は研究室に直接届くのに、どうして今回は勝手に受け取るという余計なことをして、余分な手間を発生させたのかというのが残る謎だった。事務が受け取りを拒否してくれていれば、荷物の行方はJPエクスプレスと私の問題に過ぎず、大学が巻き込まれる展開はあり得ない。これでは面倒事を敢えて発生させているようにしか見えない。
まあ、無事荷物も受け取れたしなあ、と思って別の作業をしていたら、夕方、JPエクスプレスから電話があった。
「お茶の水大内への配送担当者は、研究室と建物・部屋番号の対応表を持っている。対応表によると冨永研究室は300番台の部屋番号になっていたが、その番号は対応表から線を引いて削除されていた。そのため事務に問い合わせたが、事務でもその部屋の情報は削除されていたので、事務が一旦預かることになった。電話番号が伝票に書かれていたが一桁足りなかったのでどこに電話していいかわからなかった」
ウチの師匠の部屋は、理学部の200番台の番号がついていて、私が在学していた20年以上前から変わっていない。
考えられる可能性は次の通り。ちょっと前までもう一人別の冨永先生が学内に居て、お互いによく荷物が間違って届いていた。別冨永先生は既に定年退職し、その時に、三百何番かの部屋番号が住所録から削除されたに違いない。その削除された方を見てしまったため、もう一人冨永教授が居るということを担当者が見落としたのかもしれない。荷物を持ってこられた事務の人は、居なくなった方の冨永先生のことだと思い込んでいたかのもしれない。結果、サインして受け取ってしまい、既に退職した別冨永先生宛と思っていたのなら、ウチの師匠宛に荷物を受け取ったという連絡もしないまま休暇に入ってしまっても不思議はない。電話番号が一桁足りなかったのは、多分、偶然起きた何かの手違いだろう。こんな内容を説明してやりとりが終了した。
手違いが1つだけなら何とか対応ができても、手違いが2つ以上重なるとうまくいかないということなのかもしれない。
洗浄技術フォーラムで講演
洗浄技術フォーラムで水クラスターの件について講演。講演テキストを公開しておく。
「水のクラスター 伝搬する誤解」をウェブ公開してから10年ほど経っているわけで、10年ぶりの再度のまとめの意味合いも入れて注意すべき点を書いておいた。
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beyond氏と私が顔見知りで何か問題でも?
NATROMさんのところ経由、「■[トンデモ]正論に勝てないからと逃げた悪徳商法?マニアックス 」を斬るについて。
何か本人不在のまま取り巻きとか何とか話が進んでいるので、正直に説明しておくことにする。 ただ、10年近く経ってるので記憶があやふやなところもあるから、間違っていたら適当に指摘してほしい。
まず、悪徳商法マニアックスのサイトを知ったのは多分2000年頃だったと思う。確か、水商売ウォッチングへのクレーム第一号(日本システム企画株式会社による)があった時に、次の展開が読めなくて、クレームのことを悪マニのメールフォームから書き送ったら、消されてもいいようにミラーしましょう、ということになって(私が頼んだかbeyondさんの提案だったか記憶にない)、ミラーを作ってもらった。この時はまだbeyondさんがどこの誰であるかを知らなかった。
その後、悪マニ会議室に私が書き込むようになって今に至る。
最初にbeyondさんに会ったのが、どんな形でいつだったかは記憶にない。多分、何かのオフ会の折だったか、紀藤弁護士のLINKの忘年会かのどれかじゃなかったかと思う。私の方ではこの関連でオフ会を主催したことはないので、私の方から参加する、という形で初めて顔合わせになったのだと思う。その後は、毎年行われるLINK忘年会で都合がつけば顔を合わせることになっている。変則的なものとしては、消費者庁の立ち上げ前の集会にたまたま出たらbeyondさんも居たとか、ウェディング問題を考える会の集会に参加したといった形である。
「取り巻き」の意味が今ひとつはっきりしない。掲示板の利用者が取り巻きかと言われると違うと思うし、顔見知りになったことが取り巻きかと言われるとそれも違う。まあ、対悪徳商法という価値基準は共通していると思うので、普通にやっていてネタがかぶるのは仕方がないのだけど。
神戸の裁判の時にはbeyond氏が上申書を送ってくれたりしたけど、内容を見る限り、会議室の趣旨をはき違えた訴訟が起きていたわけで、管理者としては当然の主張だろう。で、上申書に限らず他の記述からでも、私とbeyond氏が別人というのは明らかなはず。旧ブログでも、beyondさんに会ったと書いていたりするし。
「「悪徳商法?マニアックス」の管理人でないと訂正できないんだよ。それとも、Beyondさん=天羽さんとでもお考えなのかな?それこそ妄想だ」と随分と詳しく内部事情を書いていること自体ありえないことです。Beyondさん=天羽さんとでもお考えなのかな?それこそ妄想だ」と断定する根拠などないハズです。つるんでいなければ・・。
ということで、別につるんでいなくたって、私とbeyond氏が別人なのは客観的に明らかではないかと。
私はNATROM氏がどこの誰か知らない。知らずに遭遇している可能性までは否定しないけど(私は人の顔と名前を一致させるのが苦手で困っており、名刺交換した相手に向かって二年後くらいに「はじめまして」とやっちゃうこともあるので……)、少なくとも主観的には、「つるむ」といった関係にある相手じゃないことは確か。NATOROM氏とbeyond氏が知り合いかどうかは私にとっては全く不明。
引用が前後するが、
Web上に[「悪徳商法?マニアックス」・日本トリムの説明を聞いてきました – 悪の最新情報] というものがあって、その中のリンク先が「水商売ウオッチング」であったものが「事象の地平線」
(URL:http://www.cm.kj.yamagata-u.ac.jp/blog/index.php)に変わってしまった。一般の方が純粋に投稿したのであれば、関連のない「事象の地平線」にリンク先を変える理由はまったくない。
おそらくこれは、副社長に会った話を私が「事象の地平線」にも書いたため、より話がまとまっている方へ、ということでリンクが張り直されたのだろう。だから「関係のない」どころか、そのものずばりの話題が存在していた。
ところで、「つるんでいる」「取り巻き」が問題になっていること自体がかなり奇妙というか、偏っているように思う。
(1)たとえば、「相対性理論の光速度不変の原理は間違っている(ありがちな相まさんの主張の内容)」などと言ったら、おそらく、物理に詳しい人からほぼ同じ内容のツッコミが入るだろう。事実として正しいことがはっきりしていて、間違え方まではっきりしている場合は、ツッコミのヴァリエーションはそうそう増えない。(事実として正しいことに反した場合になされるツッコミ)。
(2)次に、「マルチ商法はどんどん行うべきである」といった主張をしたら、やはり似たような内容のツッコミが山ほど入るに違いない。これも、被害のあり方が共通しているから、ツッコミのパターンが多岐にわたるというのは想定しがたい。マルチ擁護者との間の論争まで大体予想がつく。(規範として正しいことに反した場合になされるツッコミ)
(3)では、反社会的なカルト宗教団体を批判した場合はどうか。批判の内容が客観的に正しくても、信者が同じパターンで一斉にツッコミを始めることが容易に予想される。(判断基準が歪んでいる集団による間違った方向でのツッコミ)
常識的に考えて(1)(2)はツッコミが入っても仕方がないケース、(3)はツッコミを入れる側に問題があるケースである。
現実には(1)(2)(3)のどれもがあり得るので、「多くの人が同じパターンでツッコミをするかどうか」ということだけを判断の基準にするのは適切ではなく、「ツッコミの内容が事実あるいは規範にてらして適切か」ということも基準にしなければ、間違った結論になりかねない。重要なのは主張の内容の正しさであって、つるんでいるように見えるかどうかは、あくまでも二義的な問題でしかない。また、仮に実際に「つるんで」いたり「取り巻き」が居た場合であっても、主張の内容が正しい場合に、主張を行っている人達がつるんでいることや取り巻きの関係であることを敢えて問題にする理由は無いだろう。「つるんでいる」ことや「取り巻きがいる」ことを問題にしたいのであれば、つるんでいることや取り巻きの関係にあること自体が主張の内容とは関係なくそもそも良くない事である、というのを示してからでないと話が始まらないが、このことを正面から示した議論を私は見たことがない。提橋和男氏もこのことは示していないようである。
つるんでいることが問題になるとしたら(3)の場合だけである。(3)を問題にする言説と、実際には(1)(2)であるのに「つるんでいる」方を強調することで(3)だと思わせようとする言説は、別物だから区別しないといけないのではないか。また、(3)だという印象を与えようとしてなされる議論に対しては、「つるんでいる事実がありませんが何か」というだけでは不十分で、「主張の内容が妥当であることはスルーしてつるんでいる方だけ強調するとは、さては印象操作をしてますね」まで言っておかないと足りないかもしれない。
もっとはっきり言ってしまえば、「提橋和男の新☆管理人のつぶやき」がしていることは、(1)(2)である言説を(3)と思わせようとする行為で、詭弁でしかないだろうと私は考えている。もうちょっと穿った見方をすれば、「内容に反論できない」から「つるんでるかどうか」しか問題にできていないんじゃないの、ということになる。
【追記】
もっとぶっちゃけるとだな。
・私がbeyondさんに会ったのは私の方から出向いたからで、私が主催したイベントにbeyondさんを招いたからではない。
・ウェディング問題のとき、お小遣いから会に寄付したのは私。一方、beyondさんから私への金銭的援助は何一つなく、そのかわり、神戸の裁判で私はbeyondさんの「上申書」を賜った。
・「こうえんデビュー」したbeyondさんに向かって会場のみんなと一緒に「ジーク・ビヨン!」と叫んでいたのは私である。
という事実から考えると、beyond氏が私の取り巻きという設定は有り得ない。逆に私がbeyond氏の僕だと言われても仕方がないシチュエーションになっている。
※もちろん、「ジーク・ジオン」のパクリか、それとも「ジーク・カイザー・ラインハルト」のパクリであるか、いずれの解釈がより適切かについては、人によって意見が分かれるところだろう。
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事実は小説より……?
msn産経ニュースの記事より。びっくりしたので貼っておく。
研究棟の壁から遺体 イェール大大学院の女子学生か 米国
2009.9.15 12:39米コネティカット州ニューヘイブンにある名門イェール大学で、結婚を間近に控えた大学院生、アニー・リーさん(24)が行方不明となる事件があり、警察当局は13日、キャンパス内の研究棟の壁に埋め込まれたリーさんとみられる遺体を発見した。大学内部の犯行との見方が強まっている。
米CNNテレビ(電子版)などによると、リーさんは8日、大学院の校舎近くで目撃されたのを最後に消息を絶っていた。本人の携帯電話やクレジットカード、鍵などは研究室に残されたままとなっていた。
警察当局は、リーさんが学内で何らかの事件に巻き込まれた可能性が高いとみて、防犯カメラの映像を分析したり、警察犬を使って捜索。13日になって、リーさんの研究室がある研究棟の地下室から壁に埋め込まれた遺体が、別の部屋の天井部分から血のついた衣服が、それぞれ見つかった。
研究棟に入るには特別なIDカードが必要なことや、地下室が分かりにくい構造であることから、内部の事情に詳しい人物の犯行との見方が強まっている。
リーさんは、大学時代に知り合ったコロンビア大大学院生の婚約者と13日に結婚式を挙げる予定だった。大学院では薬学を専攻し、友人らからは「活発な性格の努力家」と慕われており、挙式を非常に楽しみにしていたという。
米国は今月、新学年を迎えたばかり。米メディアは、米国を代表する名門大学での凄惨な事件を連日、大きく取り上げている。
AP通信によると、キャンパスでは犯人が捕まっていないことへの恐怖が広がり、「もう夜に1人で学内を歩くこともできない」と話す学生もいるという。
・舞台がそれなりに管理の行き届いた名門大学のキャンパス
・殺人事件
・被害者は壁に塗り込められる
って、やっぱり推理漫画か小説の舞台設定にしか見えない……。現実には、むしろ足がつきそうにも思うのだけど。ところで壁に埋め込む、ってどうやってたのだろう。普通は地下室でもコンクリート打ちっ放しだろうし、一旦壊して遺体を置いてからまたコンクリートで塞いだのか。既にある壁を壊したりしたら音でバレそうな気もする。
【追記】壁にコンクリートで塗り込められたんじゃなくて、パイプスペースに押し込まれていたということらしい。記事の翻訳で意味が違ってしまったのかも。
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朝日新聞の社説がひどい件
法科大学院―法曹が連帯し質向上を
法科大学院を卒業した人を対象にする新司法試験の合格者が発表された。4回目のことし、年々下がってきた合格率はさらに27%にまで落ちた。
合格者も初めて前年を下回り、2043人。来年あたりをめどに合格者を3千人にする計画なので、本来なら2500~2900人が目安だった。
法務省は、大学院修了生の水準が反映された結果という立場だ。
しかし合格者の多い上位校では、今回3度目の受験機会だった06年度の修了生でみると、合計7割前後が合格を果たした。「修了者の7、8割が合格」の理想を達成しているといえる。
問題は大学院間の格差が広がり、下位校が全体の足を引っ張っていることだ。今回も、合格者5人以下の大学院が74校のうち24校もあった。
04年から開校した法科大学院は乱立気味で、1学年の総定員は約5800人だ。大学院側はこれを大幅に削減する方針だが、もっと早く手を着けるべきだった。すでに6割の大学院で入試の競争率が2倍に満たない状態になっている。実績を上げられない大学院の再編は避けられまい。
法曹界には「法科大学院を出た司法修習生の質が落ちている」との嘆きがある。日本弁護士連合会は昨年、「合格者増のペースダウン」を求めた。
だが、市民に司法を利用しやすくするため法曹人口を増やすことは、裁判員制度や法テラスと並ぶ司法改革の3本柱だ。その中心が法科大学院である。合格者数を絞ることより、全体の質を高めることを考えねばならない。
弁護士会と裁判所、検察庁の法曹三者は、法科大学院教育の充実について、連帯して責任を持っていることを改めて認識してもらいたい。
旧司法試験のような一発勝負の勝者ではなく、法科大学院から司法修習へというプロセスによって、人間性豊かで思考力を持った法律家を育てる。それがこの制度の理念だ。一部で法科大学院が予備校化しているとも言われる。そうであれば本末転倒だ。
法科大学院と司法研修所、法曹三者が学生の育成過程をきめ細かく分担し、法律家として独り立ちさせるまで責任を持たねばならない。
大学院の充実のためには、法曹の現場を経験した人材を教員としてもっと送り込む必要がある。
最高裁長官を昨年、70歳で定年退官した島田仁郎氏は今年、東北学院大の法科大学院で教壇に立った。合格者の少ない下位校だ。半年前まで最高裁のトップにいた法律家が、自ら東京の自宅から仙台まで通勤し、学生たちに直接教えたのだ。
経験豊かな法律家が、現実に法がどう運用されているかを伝える意味は大きい。大勢力である弁護士界から教育の場に転じる人がもっと出てほしい。
迅速な裁判という面からは、裁判に時間がかかるのはむしろ裁判所の処理速度がボトルネックになっているのだから、法曹の数の増加に見合った分だけ裁判官の数を増やさないといけないのに、現実はそうなっていない。弁護士は急増なのに裁判官は少ししか増えていない。
「合議できるのは週1回です」などと言われて期日が延びまくった側としては、「裁判官増やせ」と言いたい。
大学院の格差というけれども、旧試験の時だって、たくさん合格者を出す法学部のある大学とそうでない大学は大差がついていたはずで、ロースクールを作っても変わらなかったということではないか。
法科大学院が乱立になったのは、設置基準の規制緩和のせいで、最初から厳格な許認可行政をやっていればそうそう増やさずに済んだのでは。規制緩和するということは、入り口を広げて事後に審査するのだから、法科大学院に限らず最初は増える方向に行くのでは。
法曹人口が増えたところで、弁護士事務所を維持するための費用が減るわけではないから、結局、必要な腕をもった弁護士の費用が下がることはない。極端に安くなるようならどこかに歪みがあるということだし、持続可能でもないだろう。それに、法曹のレベルが下がったら一番困るのは利用者である国民である。素人じゃ解決できない問題を解決するために知識を借りるわけだから、借りに行った先がレベルダウンしていて相変わらず混乱するようでは解決にならない。人数を増やせば、適性が足りない人も入って来る可能性が高まるのだから、合格者をしぼってレベルを維持するのは当然である。さらに、弁護士の就職先が無くて困っている、つまり当初見込んだ程の需要はまだ無いわけだから、減らした方が混乱は押さえられる。
それに、一発勝負の勝者になるということと、「人間性豊かで思考力を持つ」かどうかとは全く関係がないのではないか。誰がこの社説を書いたか出ていないのでわからないが、まさか旧試験合格者ではないだろう(∵もし旧試験合格者が書いたのなら、この社説は「司法試験のせいで私の人間性と思考力に難が出たので一発勝負の試験には問題があります」という恨み節にしかならない)。すると、「一発勝負の試験の未経験者は、一発勝負の試験の勝利者は人間性や思考力に欠けると思い込みたがる」とは言えるかもしれない。こう書くと、どう見ても妬みにしか見えないが。
そんなに人間性を養成したいのなら、旧試験のままにしておいて、合格者に司法修習をする代わりに禅寺にでも放り込むか自己啓発セミナーにでも送り込めばいいだろう。この手で人間性が涵養できるとは限らないが、そうであるなら、法科大学院にしたらそれが可能になるとはますます思えない。
旧試験を見た限り(新試験でも同様だが)思考力を欠いていて合格する答案が書けそうな代物ではないし、独りよがりで勝手な価値判断にこだわっていたら通らない試験に見える。
もし、「人間性涵養のために禅寺や自己啓発セミナーに行ってました」という人と「実務を身に付けるため修習を受けてました」という人が居たら、私は修習で実務を習得した人の方に仕事を頼むだろう。実際のところ、仕事を頼む側にとっては、法曹個人の人間性は第一に重要な問題ではない。それよりも「世間の基準は現在こうなっている」ということをきちんと合理的説明によって立てられる人であることの方が大事である。人間性よりも「常識人」であることの方が優先順位が高い。自分の判断基準や立てた戦術が、常識とずれていたら勝てないから相談に行くのだし、常識の範囲でやりくりして実現できる道があればと思って意見を求めるのである。
素人がそれなりに勉強した程度では実戦で役立たない、あるいは下手を打って勝てる裁判を落としかねないと思うからプロを頼むのでる。そのプロを養成する学校の方は予備校化してたってかまわない。仕事を頼む側が法曹に期待するのは、まずは正確な知識と運用方法の技術である。
「大学院の充実のためには、法曹の現場を経験した人材を教員としてもっと送り込む必要がある。」には吹いた。現場を経験した人材とは、この社説によれば「人間性の豊かさと思考力に難がある」という設定の旧試験合格者なわけで……。
社説の内容は、実際に法律家に仕事を頼む(法務部とかではない)人の視点ともほど遠いように見える。この社説の内容って一体誰の利益になるんだろう。
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