朝日新聞の社説がひどい件
法科大学院―法曹が連帯し質向上を
法科大学院を卒業した人を対象にする新司法試験の合格者が発表された。4回目のことし、年々下がってきた合格率はさらに27%にまで落ちた。
合格者も初めて前年を下回り、2043人。来年あたりをめどに合格者を3千人にする計画なので、本来なら2500~2900人が目安だった。
法務省は、大学院修了生の水準が反映された結果という立場だ。
しかし合格者の多い上位校では、今回3度目の受験機会だった06年度の修了生でみると、合計7割前後が合格を果たした。「修了者の7、8割が合格」の理想を達成しているといえる。
問題は大学院間の格差が広がり、下位校が全体の足を引っ張っていることだ。今回も、合格者5人以下の大学院が74校のうち24校もあった。
04年から開校した法科大学院は乱立気味で、1学年の総定員は約5800人だ。大学院側はこれを大幅に削減する方針だが、もっと早く手を着けるべきだった。すでに6割の大学院で入試の競争率が2倍に満たない状態になっている。実績を上げられない大学院の再編は避けられまい。
法曹界には「法科大学院を出た司法修習生の質が落ちている」との嘆きがある。日本弁護士連合会は昨年、「合格者増のペースダウン」を求めた。
だが、市民に司法を利用しやすくするため法曹人口を増やすことは、裁判員制度や法テラスと並ぶ司法改革の3本柱だ。その中心が法科大学院である。合格者数を絞ることより、全体の質を高めることを考えねばならない。
弁護士会と裁判所、検察庁の法曹三者は、法科大学院教育の充実について、連帯して責任を持っていることを改めて認識してもらいたい。
旧司法試験のような一発勝負の勝者ではなく、法科大学院から司法修習へというプロセスによって、人間性豊かで思考力を持った法律家を育てる。それがこの制度の理念だ。一部で法科大学院が予備校化しているとも言われる。そうであれば本末転倒だ。
法科大学院と司法研修所、法曹三者が学生の育成過程をきめ細かく分担し、法律家として独り立ちさせるまで責任を持たねばならない。
大学院の充実のためには、法曹の現場を経験した人材を教員としてもっと送り込む必要がある。
最高裁長官を昨年、70歳で定年退官した島田仁郎氏は今年、東北学院大の法科大学院で教壇に立った。合格者の少ない下位校だ。半年前まで最高裁のトップにいた法律家が、自ら東京の自宅から仙台まで通勤し、学生たちに直接教えたのだ。
経験豊かな法律家が、現実に法がどう運用されているかを伝える意味は大きい。大勢力である弁護士界から教育の場に転じる人がもっと出てほしい。
迅速な裁判という面からは、裁判に時間がかかるのはむしろ裁判所の処理速度がボトルネックになっているのだから、法曹の数の増加に見合った分だけ裁判官の数を増やさないといけないのに、現実はそうなっていない。弁護士は急増なのに裁判官は少ししか増えていない。
「合議できるのは週1回です」などと言われて期日が延びまくった側としては、「裁判官増やせ」と言いたい。
大学院の格差というけれども、旧試験の時だって、たくさん合格者を出す法学部のある大学とそうでない大学は大差がついていたはずで、ロースクールを作っても変わらなかったということではないか。
法科大学院が乱立になったのは、設置基準の規制緩和のせいで、最初から厳格な許認可行政をやっていればそうそう増やさずに済んだのでは。規制緩和するということは、入り口を広げて事後に審査するのだから、法科大学院に限らず最初は増える方向に行くのでは。
法曹人口が増えたところで、弁護士事務所を維持するための費用が減るわけではないから、結局、必要な腕をもった弁護士の費用が下がることはない。極端に安くなるようならどこかに歪みがあるということだし、持続可能でもないだろう。それに、法曹のレベルが下がったら一番困るのは利用者である国民である。素人じゃ解決できない問題を解決するために知識を借りるわけだから、借りに行った先がレベルダウンしていて相変わらず混乱するようでは解決にならない。人数を増やせば、適性が足りない人も入って来る可能性が高まるのだから、合格者をしぼってレベルを維持するのは当然である。さらに、弁護士の就職先が無くて困っている、つまり当初見込んだ程の需要はまだ無いわけだから、減らした方が混乱は押さえられる。
それに、一発勝負の勝者になるということと、「人間性豊かで思考力を持つ」かどうかとは全く関係がないのではないか。誰がこの社説を書いたか出ていないのでわからないが、まさか旧試験合格者ではないだろう(∵もし旧試験合格者が書いたのなら、この社説は「司法試験のせいで私の人間性と思考力に難が出たので一発勝負の試験には問題があります」という恨み節にしかならない)。すると、「一発勝負の試験の未経験者は、一発勝負の試験の勝利者は人間性や思考力に欠けると思い込みたがる」とは言えるかもしれない。こう書くと、どう見ても妬みにしか見えないが。
そんなに人間性を養成したいのなら、旧試験のままにしておいて、合格者に司法修習をする代わりに禅寺にでも放り込むか自己啓発セミナーにでも送り込めばいいだろう。この手で人間性が涵養できるとは限らないが、そうであるなら、法科大学院にしたらそれが可能になるとはますます思えない。
旧試験を見た限り(新試験でも同様だが)思考力を欠いていて合格する答案が書けそうな代物ではないし、独りよがりで勝手な価値判断にこだわっていたら通らない試験に見える。
もし、「人間性涵養のために禅寺や自己啓発セミナーに行ってました」という人と「実務を身に付けるため修習を受けてました」という人が居たら、私は修習で実務を習得した人の方に仕事を頼むだろう。実際のところ、仕事を頼む側にとっては、法曹個人の人間性は第一に重要な問題ではない。それよりも「世間の基準は現在こうなっている」ということをきちんと合理的説明によって立てられる人であることの方が大事である。人間性よりも「常識人」であることの方が優先順位が高い。自分の判断基準や立てた戦術が、常識とずれていたら勝てないから相談に行くのだし、常識の範囲でやりくりして実現できる道があればと思って意見を求めるのである。
素人がそれなりに勉強した程度では実戦で役立たない、あるいは下手を打って勝てる裁判を落としかねないと思うからプロを頼むのでる。そのプロを養成する学校の方は予備校化してたってかまわない。仕事を頼む側が法曹に期待するのは、まずは正確な知識と運用方法の技術である。
「大学院の充実のためには、法曹の現場を経験した人材を教員としてもっと送り込む必要がある。」には吹いた。現場を経験した人材とは、この社説によれば「人間性の豊かさと思考力に難がある」という設定の旧試験合格者なわけで……。
社説の内容は、実際に法律家に仕事を頼む(法務部とかではない)人の視点ともほど遠いように見える。この社説の内容って一体誰の利益になるんだろう。
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