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メーリングリスト立ち上げで大わらわ

Posted on 3月 13th, 2005 in 倉庫 by apj

 この一週間、メーリングリスト立ち上げで大わらわだった。参加していた理科教育MLが、3月28日をもって閉鎖されるというアナウンスがあったので、受け皿作りに手を挙げたのが原因。
 ところが、参加者の左巻さんと山賀さんもMLを作ることになって、結局3つのMLに発展解消することになってしまった。いまのところ、左巻さんの方は準備中なので、いずれご本人のブログあたりで連絡があると思われる。山賀さんの方は、「理科と教育のML」としてスタートした。私も【理科教育MLver.2】として既に運営を開始した。
 当初、山賀さんは500人程度の受け入れ予定で作ると言っていた(後に追加可能という話になった)。旧MLの加入者は1300人ほどで、半分を置いてきぼりにすることが前提ってのも何だかなあと思って、私の方は、もし全員やってきても受け入れ可能な体制でいくことにした。左巻さんのは、授業・教材中心でどちらかというと小中高の理科教育をテーマにしたいとのことだ。山賀さんと私は、広い話題を受け入れる方向である。
 山賀さんと私で組めれば良かったのだが、今のところそうなっていない。実は、旧MLで、東京の都立高校での君が代強制問題が話題になったことがあり、だいぶ議論したのだが、山賀さんと私は政治的には180度違うイデオロギーだということがはっきりした。これ以外でも、イデオロギーがからむ議論になると正面衝突を繰り返すという状態だった。なので、私の方から、運営側に参加しませんかとお誘いしたのだけれど、いっしょにはやれそうにないと振られてしまったというのが正直なところである。
 とはいえ、管理教育が強まることを山賀さんが憂えておられることはよくわかっている。そのことがあったから、いざMLが動き出してみて、考え込むことになった。

 私の方は、今回、徹底的な法治主義で運営することにした。山賀さんと私のスタンスの違いは、両MLのガイドラインの作り方にあらわれている。参加者間のトラブルだって起きるだろうし、「荒らし」「釣り」があらわれることだってあるだろう。それに対処することと、オープンな議論を充分に尽くすことを、どう両立させるか考えたときに、恣意性を排して法によって行うというのが1つの解であると判断した。私の方は、プロバイダが提供する規則に頼れないから全部決めなければならなかったので量が多いが、山賀さんはプロバイダの規則以外の部分を決めている。
 私の独断と偏見でその違いを並べてみるとこんな感じ。
(登録方法)
山賀:参加者は所属氏名連絡先をメールで知らせ、それを見て手動で登録する
天羽:参加希望者は管理専用アドレスにメールを送ると自動的にメールが返送され、それに従い登録作業をする(完全自動ノーチェック方式)
(誹謗中傷の禁止)
山賀:マナーの問題として利用心得に書かれている(ように天羽には見える)
天羽:批判は論評の範囲で、とした上で、「対抗言論の法理」てのもあるから各自努力して名誉の回復を図るように
(相互扶助)
山賀:メンバー同士で助け合いましょう、という視点
天羽:過去ログ自動公開システムなので、議論すること自体がある意味社会貢献と認識
(アーカイブ公開)
山賀:期間と範囲の限定付きで公開
天羽:spam除けにメールアドレスを機械的に伏せ字にして全公開

 で、最大の違いはここ。
山賀:ML管理人の全面的な権限を認める
MLへの登録、強制退会、投稿メールに対する注意、さらに投稿メール(過去メール)の削除の権限は一切管理人にある。管理人は、副管理人を指名することがある。管理人はMLの自由な雰囲気と参加者を守るため最大限努力する。
天羽:ML運営の基準は、ガイドラインにのみによるものであって、運営者の個別の発言で決まるものではない。ガイドラインは可能な限り公平なものをめざして制作しているが、運営者個人は、一時の感情に流されることもあれば、思いこみで何かを勘違いしたりすることだってある。/削除要求と削除理由の原則公開、間違って投稿したときの例外規定。強制削除はspamに限定。

 おそらく、これまでの山賀さんの投稿内容を見ている限り、運営の実態は、山賀さんのところも私のところも大して違わないものになるとは思うのね。問題は、そこに至るスタンスの違いにある。山賀さんの方は最後に管理者が権限を発揮する形になっていて、管理者の努力義務として自由を守ることを課している。私の方は、規則で管理者と参加者の双方を縛ることで自由を守ろうとしている。
 双方のガイドラインをどう読んでも、イデオロギーによって判断が割れるような部分は見あたらない。だから、当初、私は、ガイドラインの内容に合意できれば、イデオロギーとは無関係にいっしょにやれるんじゃないかと思っていた(今もそう思っている)。MLをどう実現するかというのは、サーバ構築技術やら法技術やらその他技術やらによるのだろうけれど、技術的に解決可能な問題に対してまで、政治的イデオロギーの違いから自由になれないのだとしたら、それはある意味理性の敗北じゃないのかと。
 こんなことを旧MLで書いていたら、 [rika:45046]でいいじまさんがフォローしてくれた。

我々若い世代(と一般化していいのか?)は、ひとりひとり考え方とか趣味嗜好とかが別々の方向を向いていて、まあ、だから松川さん[rika:45016]に「おたくっぽい」と言われてしまうわけですが、別々の考え方を保持しながら他人なりいわゆる「世間」なりと折り合うためにはどうすればいいか、ということを現在進行形で模索しているわけです。で、たどりついた暫定解が、法治です。

でも、「全共闘世代」は、「考え方を一緒にしないと共通の基盤に立てない、考え方が違うならまずその統一からはじめるべきだ」っていう発想があるように感じるんですね。山賀さんが天羽MLとの統合を嫌がっているのもその一環だろうし、企業の同じ課の中で必要以上に呑み会が多かったりするのも同根でしょう。

(注:「全共闘世代」というのは、山賀さんについては「全共闘」できなかったので違うということで、「団塊の世代」で近似できるらしい。)

 確かに、考え方を一緒にすることの優先度が高いか低いかという違いはあると思う。だけど、今回私が考え込んだのは、あれほど「管理教育」(教育委員会やその上の政治から教育現場に対する管理)の現状や将来を憂えていた山賀さんが作ったMLの利用規約や手続きが、結局「山賀さんが管理する」形で、山賀さん個人の資質に依存するものになってしまっているということだ。別に、無法地帯を容認するつもりはないのだけれど、それにしても、なぜここまで「管理する」ってことから自由になれないのだろう、というのが私の疑問なわけだが。