単なる情報伝達の問題に過ぎない
沖縄タイムスなどが報じた、青山学院高等部の英語入試問題で、元ひめゆり学徒の証言が退屈だと書かれた問題について。私はこの問題を、理科教区MLver.2への投稿で知った。しかし、調べていくうち、真の問題は、記者の姿勢ではないかと考えるようになった。いかにして、イデオロギー混じりの意見誘導報道で事実がゆがめられていくかという実例として、書いておくことにする。
まず、沖縄タイムスの報道は次の通り。
2005年6月9日(木) 夕刊 5面
ひめゆりの証言「退屈」/東京の私立高入試問題
元学徒・研究者が批判
東京の私立進学校、青山学院高等部が今年二月に実施した入学試験の英語科目で、元ひめゆり学徒の沖縄戦に関する証言が「退屈で、飽きてしまった」との英文を出題していたことが九日までに、分かった。生徒の感想文の体裁になっているが、教員が試験のために書き下ろした。元ひめゆり学徒らは「つらい体験を明かしている語り部をむち打つもの」と憤った。同校は「大変申し訳ない」と謝罪している。
英文は三種類の入試のうち一般入試で出題され、千五十七人が受験した。「修学旅行で沖縄に来た生徒」の感想文を読んで、設問に答える形になっている。
英文の中で、「生徒」は壕に入って暗闇を体験した後、ひめゆり平和祈念資料館で語り部の証言を聞く。「正直に言うと彼女の証言は退屈で、私は飽きてしまった。彼女が話せば話すほど、洞窟で受けた強い印象を忘れてしまった」と記した。
さらに、「彼女は繰り返し、いろんな場所でこの証言をしてきて、話し方が上手になり過ぎていた」などと“論評”。設問では、「生徒」がなぜ語り部の話を気に入らなかったのかを問い、選択肢から正解として「彼女の話し方が好きではなかったから」を選ばせるようになっている。
入試問題に目を通したひめゆり平和祈念資料館の本村つる館長は「八十歳近くになっても、話したくないつらい体験を話しているのは、むごい戦争を二度と起こさないよう若い世代に伝えるためだ。それをむち打つような文章は許せない」と、沈んだ様子で話した。「感想は百人百様でも、試験に出題して正解を決めるようなことはすべきでない」と強調した。
石原昌家沖国大教授は「この入試問題は、極限状況の戦争を生き抜き、身を粉にして語る体験者を思いやれないような、教師の資格を失った者が教壇に立っている事実を証明している」と批判。「このような教師に指導される生徒の中には、似たような感想が再生産される」と危惧した。学校側は謝罪
青山学院高等部は本紙の取材に対し、「戦争体験を語り継ぐ努力を訴えようと出題したもので、ひめゆり学徒を非難する意図はなかった。配慮を欠く言葉で不愉快な思いをさせてしまい、大変申し訳ない」と述べた。
この入試問題について、那覇市議の島尻安伊子氏(民主クラブ)が九日の同市議会個人質問で取り上げる。
さて、問題の英文のpdfファイルは、http://www.inter-edu.com/kaito2005/high/aoyama/pdf/eng.pdfに公開されているが、そのうち問題の箇所を抜き出したpdfをミラーしておく。
さらに、英文が苦手な人のためには、オークランド憂国日記というblogで簡単な翻訳が公開されている。
私には、この問題文をわざわざ取り上げて、学校に謝罪を要求しなければならないような内容には全く見えない。英語がそもそも異なった文化を持つ他の国とのコミュニケーションの手段であることを考えると、言葉で物事を伝える場合に起こりうる問題点を同時に提起しているわけで、なかなか考えさせられる内容であると思う。これだけの問題文を作れる教師がいる学校で学べるというのは、すばらしい環境であると思う。一方、記者に取り上げられたからといって簡単に謝罪などした青山学院高等部の見識を疑う。学校がこんなヘタレな姿勢では、問題意識の高い教師の志気をそぐだけである。優秀な個人を組織がダメにする典型的なパターンではないか。安易に謝罪などせず、記者の誤解であることを堂々と主張する姿勢こそ、教育機関としてふさわしかったはずである。青山学院高等部は私学であるから、謝罪した方がコストが安いのだということであれば何とも言えない。しかし、謝罪の必要のないところで謝罪などしたら、付随して発生する「萎縮効果」「自粛効果」の弊害を発生させるということも忘れてはならないと思う。
一体誰が最初に見つけて議論を誘導しているのかはっきりしないが、とりあえず、石原昌家沖国大教授の姿勢は記録しておくべきだろう。記事から見た限り、この人は、
・生徒独自の判断をさせない
・意図通りの感想を持つことを要求してもかまわない
と考えているように見える。教師の言った通りのことを答案に書かないと不可にするタイプか?この人は。こういう態度の方こそ、研究者として大いに問題がある。記者の取材の誘導に原文を確認せずに乗ったのだとしたら軽率だし、原文を確認してこのコメントなら、英文読解能力が乏しいという話になりそうだ。いずれにしても青学の教師を云々できた義理じゃないだろう。それとも、このコメントまで記者が都合良くねじ曲げているのだろうか。
戦前、情報統制とか言論統制とか、ともかく国が流した情報に対して国が意図した以外の感想を持ったり判断をしたりしてはいけないという時代があった。元ひめゆり学徒の方々は、まさにそういう社会の犠牲となったともいえるだろう。そうすると、この報道の裏にある「元ひめゆり学徒の語り部の言葉を送り手の意図通りに受け取らないのは許されないことだ」という態度は、見事なダブルスタンダートというほかはない。この記事を書いた記者は、自分がまさに「いつか来た道」をひた走っていることに気づくべきだろう。
実は、沖縄タイムスに、ここに書いたような意見をまとめてクレームを送った。2,3日後に、特集記事がありますという簡単な返事をいただいた。
元ひめゆり学徒の方々の体験を語り継ぐことは大事だと思う。しかし、内容の提示の仕方によっては、違う印象で受け止められてしまうことはいつだってあり得る。また、戦争体験を語れる人たちは、いずれは寿命によって数が減り、居なくなってしまう。一方で、我々が普段受け取る情報は、いかにして最初のツカミを魅力的にするか、いかにして飽きさせず正確に伝えるかという刺激的なものが多い。本物の体験でも退屈に感じてしまっても無理もない状況である。また、全く同じ体験をもう一回することもできない。そうであれば、うまく伝える技術というところが、マスコミが培ったノウハウが生きる部分ではないだろうか。くだらない報道をする暇があったら、技術の提供でもしたらどうかと思う。