読売社説より
酔うぞの遠めがね経由、読売の社説より。赤字部分は私がつけた。
[必修逃れ救済]「“騒動”で見えた高校教育の課題」
原則70回の補習で救う――。
全国540に上る公私立高校で、生徒が卒業に必要な科目を履修していなかった問題で、政府の救済策がまとまった。
履修漏れが2単位(50分の授業で70回分)を超える生徒でも、70回の補習とリポート提出などで単位取得を認める。2単位以内の生徒には、一部の補習免除など弾力運用を認める。卒業生の過去の履修漏れは不問に付す。
これらの救済策を検討する過程で、与党内からは、履修漏れの3年生の7割以上を占める2単位不足の生徒について、補習の負担を50回まで軽減すべきだとの主張も出ていた。
文部科学省は、学習指導要領の法的拘束性やルール維持にこだわった。「生徒に罪はない」という声に、なし崩し的妥協をすれば、自ら指導要領の拘束力を否定することにもつながりかねない。
受験を控えつつ、きちんと必修科目を履修してきた生徒たちにも不公平感を生む。譲れぬ最低ラインとして「70回」を強調した。「弾力運用」を認めたのは、救済の「スピード」を意識しつつ与党側との着地点を探った結果だろう。
これ以上、生徒たちの動揺、受験への不安感が募らないよう、関係者は十分に配慮してほしい。
今回の騒動は一体何だったのか。その検証作業が必要だ。
必修逃れは5年ほど前にも広島、兵庫などの高校で発覚した。文科省は各教委の担当者を集めた会議で口頭指導するだけで、全国調査などは行わなかった。
必修逃れは、多くの高校で「公然の秘密」として次年度に引き継がれ、教委には虚偽の履修届が提出されて来た。
その教委も「知らなかった」では済まされまい。必修逃れの高校の校長が後に教育長になったところもある。
規制緩和の一環として、教委の廃止論も出ていた。今回、必修逃れや「いじめ自殺」への対応のまずさが露呈したことで、教委の監督機能や問題対応能力を高めるための検討が「教育再生会議」で始められることになった。教委の役割を、根本から議論してほしい。
学習指導要領をどう見直すか。受験偏重の今の高校教育をどう改善するか。行政と現場に突きつけられた課題だ。
「大学入試が高校以下の教育内容を決めている」。そう言われるほど、「受験」をゴールとした教育の道筋が敷かれてしまっている。
そこに生じた「ひずみ」の一つが、今回の必修逃れだったと言えよう。
大学入試制度を見直すための、腰を据えた論議も必要だ。
(2006年11月2日1時55分 読売新聞)
高校教育が受験偏重になっているのは確かだろうが、それが大学のせいだと言われると、ちょっと待てといいたい。大学入試を規定しているのは、大学ではなく、現実には高校教育の内容である。このことを知る良い例が、日本化学会の学会誌「化学と工業」を見ることである。ここ数年、大学入試が終わった頃に「化学の大学入試問題を考える」という特集が組まれ、いろんな大学の出題が大学入試問題としてふさわしいかどうかが議論されている。その時に厳しく突っ込まれるのが「高校で学習する範囲の逸脱」「指導要領からの逸脱」である。さらに、「特定の教科書にしか出ていない内容」は不公平を生じるので望ましくなく、「多くの教科書が共通して取り上げている内容」が望ましいとされている。これでは、出せる問題の範囲もパターンもきわめて狭くなるのは、誰が考えたってわかることだ。にもかかわらず、うかつに過去の問題と似た問題を出したら批判される。
自然現象は化学的なものだけが単独で起きるわけではない。物理現象とからんで起きるのが現実である。しかしそういう題材を出題しようとしたら、化学の範囲を超えているといって、化学会に批判される。自然現象を人工的に分断して考えさせようとしているのは一体誰なのか。
こういうことに化学会は学会をあげて取り組んでいるが、おそらく他の分野も縛られ具合は同様なのではないだろうか。
どうしてここまで高校教育の内容に大学入試が縛られなければならないのか、というのが、私個人としては非常に納得できないところである。私は、「受験勉強が無意味になるような問題」「事前に対策が立てられない問題」で本人の資質を見るのが一番いい大学入試問題だと考えている。たとえば、高校の範囲は逸脱してもいいかわりに、無闇な暗記は要求せず、考える手掛かりになるより進んだ(大学で使うような)教科書の一部を与えて読ませ、その理解をその場で問うといったことをすれば、事前の受験勉強は無意味になるだろう。大学に入ってからは、膨大な範囲について同様のことをしないと単位がとれないわけだから、大学の講義をフォローできるかどうかを見るには、むしろこのほうが良い。しかし、指導要領・教科書に取り上げられている物質と現象にガチガチに縛られているため、そういう出題ができる日が来るのは夢のまた夢である。実際には、範囲から逸脱すれば、その途端、マスコミと予備校の餌食にされてしまう。
大学には入学定員があって、それを充足しなければならない。難問過ぎて受験者が誰も手出しできなければ、問題で差がつかず、選抜できないわけだから試験は失敗となる。範囲を大幅に逸脱して誰もわからなくても同様。「選抜の役に立つ」ということが要求され、競争試験である限り、本来なら何を出したっていいはずだ。
ここまで書けばわかるはずだ。大学受験が高校のカリキュラムに影響を及ぼしているのではない。大学入試を、高校の指導要領が縛り付けているのだ。読売の社説とは、話は全く逆である。
ここからは旧ブログのコメントです。
by 酔うぞ at 2006-11-02 02:52:02
Re:読売社説より
「ちょっと違う」とまでは言わないけど、文科省が高校でのやり方を決めたから、(文科省が)大学の受験の形をしばっている。と言うことでしょう。
そういう手続き論(学校の先生には申し訳ないかもしれないが)じゃなくて、実業界的には「常識を知った卒業生を出せよ」というリクエストは常にあります。
高校で「講話」というのをやるのだけど、最近テクニックを覚えました。
クラスに「モノサシを出せ」というと一人ぐらいは出します。
そこで「目盛りの単位は何か?」質問すると、そこでしどろもどろというか自信がないから回答がない。「目盛りの最小単位はミリだよね」というと、当然だといった声が起きる。
そこで「基本はメートルだ。千倍するとどうなる?」と聞くと「キロメール、センチメートル」と頼りない。
「もちろんキロメートルだ。じゃあ千分の1は?」と聞くと「シーン」としてしまう。
もちろん、単位を体系的に覚えるのは大学でよいが、だからいって無関心で良いのか?とは思うわけです。
わたしは、機械屋だからミクロンとかを皮膚感覚で知ると言うことの意味を知って欲しいのですが、同じようなことをやっているのを立花隆氏のコラムで見ました。
簡単なテストとは、「東京札幌間の直線距離」、
「1円貨の直径」「1枚の紙の厚さ」といったリアルな
日常世界の常識的な数値を与えられた1群の答えの中から
選択するというものだった。
その結果は、正解に近い数値を選択した学生が
いちばん多いことは多かったが、
「答えの最小値、最大値あたりを見ていくと、
頭がおかしい、頭がこわれているとしかいいようがない
答えがならんでいる。
東京と札幌の間が30キロメートル以下とか、10万キロメートルとか、
1円玉の直径が0.1センチとか、5センチとか、
紙1枚の厚さが1000ミクロン(1ミリ)以上といった、
根本的常識、日常感覚に欠けている答えを見ると、
お前ホントに、東大の理1に受かったのかといいたくなるだろう。
結局は、これは時計の見方のようなもので「11時半を過ぎたからそろそろ昼休み」といった感覚が無くなると同列と言えるだろう。
そんなわけで、これは幼稚園児の面倒を見ないといけないのか?とも思えるが、それでも面白く教えれば身につけてくれるだろうと地道にやるのが正解ではないかな?
by nq at 2006-11-30 02:58:30
Re:読売社説より
お書きのことは正しくて、物理の入学試験問題にもあてはまることは思います。ただ、社説の意図は、ある教科で教える内容ではなく、どの教科をどのように学ぶかというところで、受験対策が優先されている、ということで、それはある程度、正しいのではないでしょうか?
世界史が暗記項目が多いので入試対策上不利だから外す、あるいは入試科目にない家庭科をやめるとか。似たことは物理でも起きていて、ちょっとした進学校の文系コースで、化学はほとんど必修なみですが、物理は事実上履修不可能となっていることが、多いです。これは、化学の方が入試対策しやすいという高校教師の考えに基づくものだそうです。(化学は文系でも暗記すれば点がとれるとか、初期のセンター試験で物理の平均点が低くて不利だったとか言われているようです)
全科目の達成度テストと、思考力を見ることを目的とした高校で教える範囲にこだわらない問題の組み合わせがよいとは思うのですが。
by ドラゴン at 2006-11-28 04:26:28
Re:読売社説より
>大学入試を、高校の指導要領が縛り付けているのだ。
これは、まったくその通りだと思います。
ただ、本来は、大学入試が高校の教育課程に影響を及ぼしてはいけないのに、世間(政治家をふくめて)の論調は、高校の教育課程を完全に履修することより、大学受験を優先しようという方向です。確かに、生徒はかわいそうかもしれませんが、考え方の原則としては、間違っていると思います。大学受験があろうがなかろうが、高校の教育課程は、履修すべきです。
>いろんな大学の出題が大学入試問題としてふさわしいかどうかが議論されている。
これは、たいへんすばらしいことです。私は全く知りませんでした。
以前、河合塾の人が、慶應大学文学部の入試問題(7ページもある英語の長文)を悪問と指摘したことに対して、慶應大学は、これを解ける学生を必要としているのだと反論したことがあります。
同じ頃だったかと思いますが、京大と慶應の先生で「分数ができない大学生」を出して、数学の学力低下と義務教育の問題を指摘しました。
これもよく考えると、大学では数学のできる学生が必要だったら入試でだすべきでしょうが、入試で数学を出すと受験生が減ることもあるので問題をすりかえたように思いました。
算数・数学の学力低下は問題ですが、その指摘の仕方が自分の所を棚にあげてという感じでした。
本来、入試というのは、その大学で必要とされる資質能力をはかるものだと思います。その目安として高校の教育内容があってもよいと思いますが、違う目安が出てもよいと思います。
ただ、知り合いの私立大学の先生が、その大学は11月から3月まで、AO、推薦、A日程、B日程など合わせると7回も入試があるので、問題づくりやら事務やらでむちゃくちゃたいへんだとぼやいていました。そうなると入試問題の良し悪しを検討していられなくなるんだろうと思います。
by すっぱいぶどう at 2006-11-06 11:13:06
Re:読売社説より
>「大学入試が高校以下の教育内容を決めている」。そう言われるほど、「受験」をゴールとした教育の道筋が敷かれてしまっている。
この論調を私は朝日新聞で同様の内容を読みました。
「えっ!?」と目を疑ったと同時に、そうだったらどんなにいいか…と思いましたとも。