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エステーエスプロジェクトと私は無関係です

Posted on 2月 10th, 2007 in 倉庫 by apj

 ハーモニーウォーターを売っているエステーエスプロジェクトの半田氏なる人物が、「私に製品宣伝について説明して理解してもらった」と主張した可能性が出てきました。私と半田氏は無関係で、直接話をしたこともメールをやりとりしたこともありません。
 今回、ハーモニーウォーターを信じている人経由で情報がやってきたので、もしかしたら他の信奉者の間でもこのことが出回っているかもしれません。念のため、この件について、水商売ウォッチングの方で情報を公開しました。宣伝内容そのものは、他の宣伝に比べて取り立ててトンデモ度が高いわけではないのですが、このまま、何もコメントせずに放置した場合、「暗に認めたからコメントしていないのだ」と勝手に解釈されて、デマが広まるおそれがあります。

 コメントの最後にも書きましたが、名前を勝手に出して虚偽の情報を伝えるような相手に対しては、抗議したって大して効果は期待できません。また、抗議したあと本当に名前を使うようなことをしていないか、ずっと監視を続けるなど不可能です。そんなことにコストも手間もかけられません。最大の防御は、真実を広く公開しておくことであると考えます。

試験が終わった直後に……

Posted on 2月 8th, 2007 in 倉庫 by apj

 選択科目の試験をしたのだが、終わって部屋に引き上げた直後に学生さんが一人やってきて
「今日が試験だと忘れてました」
 で、試験は受けてないのだという。講義は毎週木曜日のその時間、試験も同じである。試験があることを忘れていて準備しなかったということは有り得ても、日を間違えてそもそも来ないということには、普通はならないだろうと……。まあ、受けなかった人に単位は出せないわな、ということで、残念だけどおあきらめください、ということになった。選択科目だし、他で挽回できるでしょう、多分。

なぜ最終回を必要としたのか?

Posted on 2月 7th, 2007 in 倉庫 by apj

 ドラえもん二次創作ネタで連続になるが、昨日のエントリへのコメントを書いているうちに浮かんだ疑問である。
 なぜ、彼ら(=ドラえもん最終回を求めた人、考えた人、語り継いだ人、同人誌を求めた人)は、最終回を必要としたのか?
というのが私の問いである。もしかしたらこの問いには意味がないかもしれない。私自身も今のところ答えを持っていない。
 比較対象として、私もファンである某アニメの状況を語ろう。私の世代がリアルタイムで見てきたものだから、とっくの昔に最終回を迎え、物語は完結している。主人公の年齢は十代で、見ていた頃はちょうどお兄さん・お姉さんにあたる世代だった。アニメは終わったが、視聴者の方はとっくの昔にその年齢は過ぎ去り、今や、当時のアニメの登場人物の中の高年齢層に近い年齢になっている。ファンの考えは2通りに分かれている。「○○(登場人物)は永遠の××歳(設定年齢)、自分たちと同じように年を重ねたとはどうしても考えられない」「○○は(物語が終わった後で)きっとこんなふうに過ごして、今はこうなっているに違いない」の2通りである。設定のままと考える立場と、物語が終わった後同じように時を過ごしたという考え方である。後の方の変形として、終わった後の数年間くらいのスパンで登場人物達がどう過ごしていたかをあれこれ考えている人もいる。物語が終わった後を考えるのはファンだけではない。モノによっては制作者サイドからリメイクが出たり、続編が出たり、同一世界観だがパラレルワールド的な設定で新作が作られたりすることもある。
 いずれにしても、「終わってしまった物語」に対して、積極的に「物語を続けること」を考えるファンというのが一定数居るということである。
 これらの状況をふまえて、やっぱり出てくる疑問は、
 なぜドラえもんの最終回が必要とされたのか?
ということである。ドラえもんの世界は全員が「永遠の○○歳」である。のび太は歳をとらない。中学生になることもない。物語の世界の日常は繰り返される。既に終わった物語のファン達の方は、登場人物に対して「永遠の××歳」と思っていたりするのに、なぜドラえもんに共感した人達(の一部)はここで最終回を、新たに作ってまで求めなければならなかったのか?物語が続くことに満足できなかったのか?
 作り出したものが成長しないといって腹を立てたのは、鉄腕アトムの天馬博士くらいのものだと思っていたのだが……。

(今回、私にも答えはないが、折に触れて考える問いとして一応ここにメモしておく。まだうまく言葉にならないのだけれど)

水伝よりはマシかもしれないが……

Posted on 2月 6th, 2007 in 倉庫 by apj

 ドラえもん二次創作ネタ。fnn-newsより。

小学館、同人誌「ドラえもん最終話」販売禁止の措置 同人誌の売り上げは1万3,000部以上

単行本の売り上げ総数1億部以上、愛らしいキャラクターと4次元ポケットから飛び出す数々の「ひみつ道具」で人気の「ドラえもん」。
作者の藤子・F・不二雄さんは11年前に他界し、単行本は45巻を最後に止まったままとなっている。
そのドラえもんの「最終話」が、同人誌で販売され、大きな波紋を呼んでいる。
2005年末、同人誌「ドラえもん最終話」が、1冊およそ500円で出版され、その優れたストーリーから瞬く間に話題となり、同人誌としては、異例の1万3,000部以上を販売した。
この本は、「都市伝説」として語られていたさまざまな「ドラえもん最終話」の1つを漫画化し、自費出版したいわゆる「同人誌」と呼ばれるもので、「ドラえもんを作ったのは、実はのび太くんだった」という結末を迎える。
今では、大手ネットオークションサイトで、1万円を超える額で取引されるなどの大ヒットとなったが、そこにある深刻な問題が浮上している。
小学館知的財産管理課の大亀哲郎課長は「もしかして藤子さんの作品かな? というぐらいに仕上がっていますので、今回、いろんな意味で厳しく著作権侵害ですとアピールをさせていただいています」と話した。
この「ドラえもん最終話」は、ドラえもんの版権を持つ小学館に許諾を得ていなかった。
橋本 光一郎弁護士は「これはほとんど同じものですよね。これは著作権侵害になるということの明確なケースじゃないかなと」と話した。
ある小学校の先生から、「感動したので、道徳の教材に使いたい」と打診があるなど、あまりの反響の大きさに黙認できないと判断した小学館は、作者に対し、発売禁止の措置を取り、現在、利益分の返還についての交渉中だという。
こうした「同人誌の著作権侵害」をめぐる問題について、日本マンガ学会会長の呉 智英氏は「(同人誌などは)後継者を育てる場でもある。底辺拡大という意味もあるので、あちら立てればこちらが立たずというところで、対応に苦慮している」と話した。
同人誌の枠を越え、国民的人気ゆえに広がってしまった「ドラえもん最終話問題」に、街の人からは「ずっと何十年も(最終話は)ない方がいい」、「日本の伝統としてドラえもんは残しておいて、子どもたちが楽しんでいければいいじゃないですか」などといった声が聞かれた。
小学館は「(藤子)先生の頭の中には最終話という構想はあったかもしれませんけど、今や先生はこの世に存在していない以上、最終話というのは現実に不可能じゃないかなと」と話した。

 「水からの伝言」で道徳を教えられるよりはナンボかマシだが、しかしなぁ……。

創作と評論を隔てるモノ

Posted on 2月 4th, 2007 in 倉庫 by apj

 SankeiWebより。

【知はうごく】「模倣が生む才能」著作権攻防(6)-3

 トラブルで動かなくなったドラえもんを蘇らせようと、猛勉強してロボット工学者になったのび太くん。未来の世界でドラえもんを製作したのは、実は、大人になったのび太くんだった-

 こんなストーリー展開で「ドラえもん 最終話」と銘打った漫画本が平成17年末、ひっそりと発売された。ある漫画家が、ネット上や電子メールで流布されたうわさ話を描き、同人誌として制作したものだ。

 その感動的な結末は、ネットなどを通じたちまち評判になり、数百部でヒットとされる愛好者向け市場では異例の1万5500部が出荷された。

 マンガ・コラムニストの夏目房之介氏は、最終話を読んで「僕も泣いた。ドラえもんへの愛情にあふれる作品」と高く評価している。

 ただ、この作品はドラえもんの版権を持つ小学館の許諾を得ていなかった。既存の漫画のキャラクターを利用して別のストーリーを作った場合、ドラえもんという絵柄を使っているために著作物の利用となり、許諾が必要だ。同社は「悪質な著作権侵害」と判断して昨年、漫画家側に販売中止と回収、ネット公表の中止を要請。損害賠償についても交渉中で、関係者によると刑事告訴も検討されているという。

 小学館は「ネットで評判になり、部数がケタ違いに増えた。厳しく対応せざるをえない」(知的財産管理課)と明かす。

 漫画愛好者の間では、人気作品の登場人物、舞台設定を借用して独自作品を描く「二次創作」の手法が多用されている。

 東京で毎年2回開かれている同人誌即売会「コミックマーケット(コミケ)」には、全国からアマチュア漫画家ら約40万人が作品を持ち寄り、売買する。その多くが、原作者に許可を得ていない二次創作が占めている。

 そうした現状を、夏目氏は「オタクと呼ばれる人たちには、作品全体よりもキャラクターが関心の対象になりやすい。好きなキャラクターを自分の意のままに描き、動かしたい-という思いが(二次創作の)原動力となり、同人誌のほとんどを占めるようになってしまった」と分析する。

 原作の著作者に無断で二次創作を制作することは、法的には著作権侵害だが、コミケでは長い間黙認されてきた。その理由の一つは、イベントが巨大化し過ぎて、もはや取り締まりが不可能になってしまったことだ。

 一方、「コミケからプロの漫画家が輩出される」(大手出版社)という事情もある。模倣や改竄(かいざん)を重ねたアマチュア漫画家が、人気作家へと成長する例は数多い。コミケを追及すれば、人材供給が絶たれ、将来の漫画界を支える人材が育たないというジレンマに陥る。このため漫画出版社側は「模倣や二次創作を見つけても、数百部程度の流通なら目をつむってきた」のが実情だ。

 近年は、社会全体で法律の認知度や順法精神が高まったことや、漫画からアニメ、キャラクタービジネスへと媒体を超えた作品展開が増えたことから、著作権を厳密に管理する傾向が強まっている。同人誌が新たな著作権紛争を生む可能性も膨らんだ。

 しかし夏目氏は、「ポップカルチャー(大衆文化)に模倣やパロディーは付きもの。それを切り捨てると、文化そのものが細くなってしまう」と指摘し、「同人誌のようなケースには、著作権者から簡単に許諾をとれるようなシステムが必要」と提言している。

 このドラえもんの例はかなりブラックに近いところにあると思うのだが、現状の著作権関連の法律の運用を考えた場合、二次創作の取り扱いについて相当無理が生じているのではないか。
 もし、ドラえもん最終回が、「動かなくなったドラえもんを前にしたのび太は、きっと自分で直そうと思うに違いない。のび太の今の成績では猛勉強しないとそんな知識は身につかないけど、ドラえもんへの思いが強くて、努力して、最終的には修理に成功するに違いない。その理由は……」といったぐあいに「評論」として書かれていたとしたら、小学館としては何の文句も付けようがなかっただろう。公開されたものに対する解釈と評論は自由だからだ。では、「のび太のとりうる行動」の部分だけをプロットとして抜き書きしたらどうか。それでも、その人なりの作品の解釈を書いただけですと言われたら訴えるのは難しいだろう。では、そのプロットに基づいて「小説」を書いたらどうか。その小説の内容を「漫画」で表現したらどうか。
 今の著作権の運用だと、小説・漫画になると二次創作とされて法律にひっかかることになる。ある作品を見て抱いた、「解釈」「感想」を表現しようとした場合、評論文の形で書けばフリーパスだが、小説の形にした途端に二次創作とみなされて軒並みアウトになってしまう。だが、本当に、評論と創作の間に、合法違法の線を引くほどの隔たりが常にあるのだろうか。
 原作が漫画であれば、キャラクターの「絵」の使用の部分で区別はできるかもしれないが、二次が文章だと「絵」の使用では規制できないだろう。
 創作の形をとった評論・批判というものは過去にも行われてきた。プロレタリア文学がその典型で、弾圧された歴史があるが、今では権力を批判する創作をしても表現の自由で保護されている。実名を挙げて権力を批判する文章を書いても同様である。一方、私小説で実在の人物をモデルにしたら訴えられて作者が負けたケースもある。
 では、創作の形をとった別作品の評論・批判はダメだとする合理的理由は一体どこにあるのか。キャラクターや世界設定の固有名詞を使うかどうかを基準にすればわかりやすいかもしれない。すると、評論や感想を表現するために、違う固有名詞を使うが設定世界観登場キャラクターのパターンまで全て同じにして作ることになってしまう。そういう作品は、普通は、パクリとか剽窃とか盗作などと言われてしまって、別の問題を引き起こす。じゃあ、作者後書きで「これは実は○○という作品の感想でして……」と長々とやるのか。何だか野暮な上、そこまでやるなら最初から評論書けよという話になりそうである。
 パチモンや海賊版の取り締まりは必要だというのはわかる。しかし、現状の著作権法は「評論や感想はあくまでも評論や感想であるとはっきりわかる形で表現しなければならず、創作という形をとってはいけない」という規制を事実上してしまっている(そういう運用ができてしまう)。これがどうしてもしっくりこない。ある条件のもとでは、評論と創作の境界線が非常に曖昧になることが起こりうるわけで、一律に線が引けるとは思えないし、線を引くのが妥当だとも思えない。
 だからといって、これは剽窃、これは評論・感想文と同等とみなせる二次創作物、これは同じ二次でもキャラ借りただけのものだから濫用、と毎回毎回法的紛争をやって線を引くというのも、これまた社会全体としては損失になりそうな気がする。必要な紛争ならやるしかないのだろうけれど。

追記:作品への感想・意見・批評を、読者の側が小説やマンガという形態でもって公開するという状況を、著作権法はそもそも想定していなかったんじゃないかなぁ……。松本零士は、「基本は模倣。そこから応用、改良、発展させていく。そして創作という恐ろしい壁がそこの先にある。失敗が累々と折り重なる。模倣は創作のうちには入らない。私は全否定する。」と言ってるが、多分、今起きていることを捉え損なっている。素人がやってる2次創作やら、非公認のファンサイトなんてのは、そもそも模倣ですらなくて、実態は「感想・評論・意見」であることの方が圧倒的に多いのではないか。なお、「生きている間でも目を離すととんでもないことになる。死後になると、奇妙な解釈のものや変質したもの、続編が現れるでしょう」ってのはどうかと思う。作品をどう理解するかとか解釈するかというのは全面的に受け手にゆだねられる問題であって、クリエーターが規定できるものではない。意図と違って伝わったとしてもそれは仕方がない。受け手の側にだって相当な幅がある。受け取り方まで規定したいのなら、「創作物」ではなく「論説文」でやればいい。そうすればブレはかなり押さえられるはずだ。

最終弁論終了

Posted on 2月 2nd, 2007 in 倉庫 by apj

 環境ホルモン濫訴事件は、本日最終弁論終了。結審した。原告被告双方が準備書面を出して終わった。判決は3月30日の予定。
 ところで、応援団のサイトが最近重くなっている。そんなにアクセスがあるとは思えないので、鯖屋に問い合わせたら、「いやけっこうアクセスありますし、PHPの負荷も大きいですよ」と言われてしまった。どうも、原告松井教授が京都でやってる、怪しい雰囲気満載の貸金返還訴訟のネタが出てから見に来る人が増えた。やっぱり、細かく判断基準を検討しないといけない名誉毀損ネタよりも、現ナマがからんだゴシップ的話題の方が一般受けするらしい。ワイドショーになぜ人気があるのかが
わかった気がした。

ア/ニ/メ/と/パ/チ/ン/コ

Posted on 1月 31st, 2007 in 倉庫 by apj

 学問には全く関係ないネタだし、そのままにしておくと変なトラックバック(ス/ロ/ッ/ト/必/勝/法の類)が山ほど付きそうなので、タイトルを検索除けしてみた。
 私はパ/チ/ン/コには生まれてこの方行ったことがない(行きたいとも思わないが)。だから、聞き書きになるのだが、だいぶ前から人気アニメをモチーフにしたパ/チ/ン/コ台がたくさん出ていて、人気があるらしい。何でも、当たるとアニメが出たりとかするので、映像見たさにパ/チ/ン/コ屋に足を運ぶ人も居るそうだ。
 だが、このやりかたでアニヲタを新規パ/チユーザとして取り込めるかというと、私の周囲を見る限り、どうも違うんじゃないかと思う。そんなものに惹かれるのは「一般人」である。
 私の周囲のアニヲタ達の行動原理は、
「アニヲタグッズに貢ぐ金はあってもパ/チ屋に貢ぐ金はない」
「パ/チ/ン/コがしたいんじゃない。出てくるアニメが見たいんだ」
というものである。これは、アニヲタの価値基準としてはっきりしているし、とてもよくわかる。そこで彼等はどうしたか。
 /パ/チ/ン/コ台を買ったのだ。o…rz
 確かに、アニメ企画付きのパ/チ/ン/コ台はアニメグッズの一種と言えなくもないから、アニヲタの蒐集の対象ではある。手元に置けば、電気代だけで、パ/チ屋でスらなくても十分出てくるアニメを楽しめる。きわめて合理的な解決策といえる。
 アニメ付きのパ/チ/ン/コ台でアニメファンを呼び込む作戦は、アニヲタに達した人には多分通用しないから、アニヲタ向けのパ/チ屋のマーケティングとしては失敗に終わるだろう。一方、パ/チ/ン/コ台メーカーにとっては、パ/チ屋での需要見込み以上に台が売れるという効果があるかもしれない。
#いや実際、ヲタ仲間に「台買いました」って人がちらほら居るんだよなぁ。

因果関係を考えない人が7割?

Posted on 1月 29th, 2007 in 倉庫 by apj

 毎日新聞の記事より。<毎日世論調査>

ゆとり教育見直し、社会奉仕必修に7割賛成
1月29日3時11分配信 毎日新聞

 毎日新聞の全国世論調査は、政府の教育再生会議の第1次報告が盛り込んだ(1)「ゆとり教育」の見直し(2)高校での社会奉仕の必修化――への賛否も尋ねた。ともに約7割が賛成し、この2点では教育再生会議の議論が支持された。子育て世代の20~40代を中心に、いじめ問題や学力低下で高まった教育現場への不満を吸収したとみられる。
 授業時間10%増が柱のゆとり教育見直しは、賛成71%、反対19%。年代別では、20~40代で賛成が8割近くに達した。
 支持政党別では、自民支持層の76%、民主支持層の77%、公明支持層の79%が賛成。共産、社民の支持層も半数近くが賛成した。与党内には「詰め込み教育が心の問題をないがしろにした」(森喜朗元首相)など異論も残っているが、授業増路線が幅広く歓迎された結果は見直し論の追い風になりそうだ。
 安倍晋三首相が強調する規範意識の柱である社会奉仕には、賛成が69%で反対が21%だった。賛成は内閣支持層では76%だったが不支持層では64%。反対は支持層が14%にとどまったのに対し、不支持層では31%に上った。
 一方、国会で議論を深めてほしい問題に「教育再生」を挙げる人が最多の30%にのぼったことからは、教育問題への関心の高さがうかがえ、官邸主導の教育改革を狙う首相にとって再生会議の議論への世論の支持が不可欠となりそうだ。【竹島一登】
最終更新:1月29日3時11分

 学力低下のうち、単純に指導要領の内容が減ったために起きた分については、また内容を増やせばそれなりに改善するだろうということは、まあ誰にでもわかる話である。が、「社会奉仕をすると規範意識が芽生える」は果たして本当か?こんな因果関係が本当にあるのか(仮に相関があったとしても因果関係を意味するかどうかは別問題)?因果関係を裏付ける調査結果を見たことがないのだけど……。規範意識というのも非常に曖昧で、どの範囲のことを指しているのかもはっきりしない。これに賛成が7割ということは、20-40台の7割が、「因果関係のはっきりしないことでも受け入れる」ということを意味しているわけで、若者の学力低下を云々できる状況ではないと思うのだが。

心のノート

Posted on 1月 27th, 2007 in 倉庫 by apj

 東京新聞の記事(共同)より。

「心のノート」商標登録 文科省教材、表示変更も

 元教諭が実践していた「心のノート」(左側2冊)と文科省が配布している副教材「心のノート」(右側2冊)

 文部科学省が2002年から全国約1200万人の小中学生全員に配布している道徳の副教材「心のノート」のタイトルについて、約40年前から同じ名称の自作教材を使用してきた千葉市の元小学校教諭が商標登録を出願、特許庁が認めていたことが27日、分かった。

 商標登録したのは元教諭で大東文化大講師の福田節子さん(65)。「自分の実践とは異なっており、本当の心のノートはどちらか世に問いたい」と、近く文科省に商標権取得の事実を通知する。同省は混同を防ぐため、表示変更など何らかの対応を迫られそうだ。

 文科省の「心のノート」は、少年事件の多発などを背景に、約7億3000万円をかけて作られた道徳教育の“目玉事業”。

 出願時の意見書などによると、福田さんは1966年から退職までの26年間、市販のノートに「自分が思ったこと、感じたことを1つだけ自由に書く」というルールで1人1人の児童と“対話”を継続。

(共同)
(2007年01月27日 09時21分)

 ちょっと心のノートをネタにして文章書くことになってるので、参考資料として貼り付けておく。心のノートは全学年分持ってるけど、はっきり言ってネタにしかならん内容で、あれが目玉事業だとすると、国家予算を使って文科省はギャグをかましているのかと言いたくなる。

日本語をどう教えたものか……

Posted on 1月 26th, 2007 in 倉庫 by apj

 卒業論文シーズンで、学生の書いたものを添削しているのだが、日本語がおかしい部分があって困っている。どれが主語かわからない文章だったり、どの言葉がどの言葉にかかるのかが崩れてたりするので、読み返せと指摘して返却しているのだが……。学生の日本語作文能力を上げる方法って何かあるかな。「論文の書き方」の本はいくつも出ているのだけど、日本語の構文とかてにをはの訓練は何をやったらいいのだろう。別に文学をやる人間を育てているわけではないし、やっぱり本田勝一の「日本語の作文技術」あたりを読んでもらうかなぁ。文章の書き方の本を探すと、小説を書きたい人向けのものがたくさん出ているのだけど、正確にわかりやすい日本語で書けば足りる自然科学の論文とは方向が違うんだよなぁ。ビジネス用の文章の書き方とも違うし。
 何かいいテキストや、トレーニングの仕方はあるのだろうか。

#今の私の興味でうっかり指導したら、訴状の書き方やら準備書面&答弁書の書き方になる罠orz。