SankeiWebより。
【知はうごく】「模倣が生む才能」著作権攻防(6)-3
トラブルで動かなくなったドラえもんを蘇らせようと、猛勉強してロボット工学者になったのび太くん。未来の世界でドラえもんを製作したのは、実は、大人になったのび太くんだった-
こんなストーリー展開で「ドラえもん 最終話」と銘打った漫画本が平成17年末、ひっそりと発売された。ある漫画家が、ネット上や電子メールで流布されたうわさ話を描き、同人誌として制作したものだ。
その感動的な結末は、ネットなどを通じたちまち評判になり、数百部でヒットとされる愛好者向け市場では異例の1万5500部が出荷された。
マンガ・コラムニストの夏目房之介氏は、最終話を読んで「僕も泣いた。ドラえもんへの愛情にあふれる作品」と高く評価している。
ただ、この作品はドラえもんの版権を持つ小学館の許諾を得ていなかった。既存の漫画のキャラクターを利用して別のストーリーを作った場合、ドラえもんという絵柄を使っているために著作物の利用となり、許諾が必要だ。同社は「悪質な著作権侵害」と判断して昨年、漫画家側に販売中止と回収、ネット公表の中止を要請。損害賠償についても交渉中で、関係者によると刑事告訴も検討されているという。
小学館は「ネットで評判になり、部数がケタ違いに増えた。厳しく対応せざるをえない」(知的財産管理課)と明かす。
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漫画愛好者の間では、人気作品の登場人物、舞台設定を借用して独自作品を描く「二次創作」の手法が多用されている。
東京で毎年2回開かれている同人誌即売会「コミックマーケット(コミケ)」には、全国からアマチュア漫画家ら約40万人が作品を持ち寄り、売買する。その多くが、原作者に許可を得ていない二次創作が占めている。
そうした現状を、夏目氏は「オタクと呼ばれる人たちには、作品全体よりもキャラクターが関心の対象になりやすい。好きなキャラクターを自分の意のままに描き、動かしたい-という思いが(二次創作の)原動力となり、同人誌のほとんどを占めるようになってしまった」と分析する。
原作の著作者に無断で二次創作を制作することは、法的には著作権侵害だが、コミケでは長い間黙認されてきた。その理由の一つは、イベントが巨大化し過ぎて、もはや取り締まりが不可能になってしまったことだ。
一方、「コミケからプロの漫画家が輩出される」(大手出版社)という事情もある。模倣や改竄(かいざん)を重ねたアマチュア漫画家が、人気作家へと成長する例は数多い。コミケを追及すれば、人材供給が絶たれ、将来の漫画界を支える人材が育たないというジレンマに陥る。このため漫画出版社側は「模倣や二次創作を見つけても、数百部程度の流通なら目をつむってきた」のが実情だ。
近年は、社会全体で法律の認知度や順法精神が高まったことや、漫画からアニメ、キャラクタービジネスへと媒体を超えた作品展開が増えたことから、著作権を厳密に管理する傾向が強まっている。同人誌が新たな著作権紛争を生む可能性も膨らんだ。
しかし夏目氏は、「ポップカルチャー(大衆文化)に模倣やパロディーは付きもの。それを切り捨てると、文化そのものが細くなってしまう」と指摘し、「同人誌のようなケースには、著作権者から簡単に許諾をとれるようなシステムが必要」と提言している。
このドラえもんの例はかなりブラックに近いところにあると思うのだが、現状の著作権関連の法律の運用を考えた場合、二次創作の取り扱いについて相当無理が生じているのではないか。
もし、ドラえもん最終回が、「動かなくなったドラえもんを前にしたのび太は、きっと自分で直そうと思うに違いない。のび太の今の成績では猛勉強しないとそんな知識は身につかないけど、ドラえもんへの思いが強くて、努力して、最終的には修理に成功するに違いない。その理由は……」といったぐあいに「評論」として書かれていたとしたら、小学館としては何の文句も付けようがなかっただろう。公開されたものに対する解釈と評論は自由だからだ。では、「のび太のとりうる行動」の部分だけをプロットとして抜き書きしたらどうか。それでも、その人なりの作品の解釈を書いただけですと言われたら訴えるのは難しいだろう。では、そのプロットに基づいて「小説」を書いたらどうか。その小説の内容を「漫画」で表現したらどうか。
今の著作権の運用だと、小説・漫画になると二次創作とされて法律にひっかかることになる。ある作品を見て抱いた、「解釈」「感想」を表現しようとした場合、評論文の形で書けばフリーパスだが、小説の形にした途端に二次創作とみなされて軒並みアウトになってしまう。だが、本当に、評論と創作の間に、合法違法の線を引くほどの隔たりが常にあるのだろうか。
原作が漫画であれば、キャラクターの「絵」の使用の部分で区別はできるかもしれないが、二次が文章だと「絵」の使用では規制できないだろう。
創作の形をとった評論・批判というものは過去にも行われてきた。プロレタリア文学がその典型で、弾圧された歴史があるが、今では権力を批判する創作をしても表現の自由で保護されている。実名を挙げて権力を批判する文章を書いても同様である。一方、私小説で実在の人物をモデルにしたら訴えられて作者が負けたケースもある。
では、創作の形をとった別作品の評論・批判はダメだとする合理的理由は一体どこにあるのか。キャラクターや世界設定の固有名詞を使うかどうかを基準にすればわかりやすいかもしれない。すると、評論や感想を表現するために、違う固有名詞を使うが設定世界観登場キャラクターのパターンまで全て同じにして作ることになってしまう。そういう作品は、普通は、パクリとか剽窃とか盗作などと言われてしまって、別の問題を引き起こす。じゃあ、作者後書きで「これは実は○○という作品の感想でして……」と長々とやるのか。何だか野暮な上、そこまでやるなら最初から評論書けよという話になりそうである。
パチモンや海賊版の取り締まりは必要だというのはわかる。しかし、現状の著作権法は「評論や感想はあくまでも評論や感想であるとはっきりわかる形で表現しなければならず、創作という形をとってはいけない」という規制を事実上してしまっている(そういう運用ができてしまう)。これがどうしてもしっくりこない。ある条件のもとでは、評論と創作の境界線が非常に曖昧になることが起こりうるわけで、一律に線が引けるとは思えないし、線を引くのが妥当だとも思えない。
だからといって、これは剽窃、これは評論・感想文と同等とみなせる二次創作物、これは同じ二次でもキャラ借りただけのものだから濫用、と毎回毎回法的紛争をやって線を引くというのも、これまた社会全体としては損失になりそうな気がする。必要な紛争ならやるしかないのだろうけれど。
追記:作品への感想・意見・批評を、読者の側が小説やマンガという形態でもって公開するという状況を、著作権法はそもそも想定していなかったんじゃないかなぁ……。松本零士は、「基本は模倣。そこから応用、改良、発展させていく。そして創作という恐ろしい壁がそこの先にある。失敗が累々と折り重なる。模倣は創作のうちには入らない。私は全否定する。」と言ってるが、多分、今起きていることを捉え損なっている。素人がやってる2次創作やら、非公認のファンサイトなんてのは、そもそも模倣ですらなくて、実態は「感想・評論・意見」であることの方が圧倒的に多いのではないか。なお、「生きている間でも目を離すととんでもないことになる。死後になると、奇妙な解釈のものや変質したもの、続編が現れるでしょう」ってのはどうかと思う。作品をどう理解するかとか解釈するかというのは全面的に受け手にゆだねられる問題であって、クリエーターが規定できるものではない。意図と違って伝わったとしてもそれは仕方がない。受け手の側にだって相当な幅がある。受け取り方まで規定したいのなら、「創作物」ではなく「論説文」でやればいい。そうすればブレはかなり押さえられるはずだ。