たざきさんの『「水からの伝言」を信じないでください』があちこちで話題になっている。賛同する意見も批判的な意見も、いくつかのblogで見たが、やはり一言追加しておかなければならないと思うのでまとめておく。なお、この問題意識を最初に書いたのは、「水伝:「文系」の人の意見を知りたい」で、ここでいただいたコメントを使わせていただいて、可能な限りまとめてみる。
まず、活躍中の物理学者が手間をかけて水伝批判の文書を公開したことで、ここでも以前話題になった「追試が必要か否か」という議論や「科学教育のレベルが低い」という議論があちこちで出てきた。やはり、科学者の側からの批判ということで「科学からみて何が問題なのか」という方向での意見が増えてきているように見える。
だが、ちょっと待って欲しい。水伝は確かにニセ科学だが、それだけなら、他にも山ほどあるオカルト話同様に、科学の側からは放置しておくことになっただろう。ところが、学校に持ち込まれたから無視できなくなったのだと私は認識している。さて、改めて考えてみる必要があるのは、「水にありがとうという言葉をかけたり印刷物を見せたりすると結晶がきれいになるから、人にもありがとうと言おう」を却下するのに、必要なのは科学知識だけか?ということである。
では、自然科学以外の分野の基本的な考え方で水伝を眺めたらどうなるだろうか。
倫理学の立場からすると、水伝のロジックは、「損得勘定を倫理的判断に持ち込むのはまずい」という一般的な原則に引っ掛かることになる(byワカシムさん)。
道徳教育という点からは、水伝のロジックは、『他者の価値観・感受性・人格を否定するのみならず、人間の尊厳や矜持などをすべて水に委ねてしまう、「悪魔に魂を売り渡した」「自我を放棄し、水の召使いに堕した」と言っても過言ではない、あまりに酷い倫理観』ということになる(by 田部勝也さん)。
言語学の立場では、「何か特定の言葉に特定の意味が1対1対応で張り付いていて、相互に変換できるというわけではない」から、「ありがとうーきれいな結晶、ばかやろうーきたない結晶」という対応関係を認めるという結論にはならないはずである(by とらこさん)。
もう少し一般的には、きちんと文系の学問を学んでいれば、文脈・状況を云々せずに言葉だけを云々するということ自体が受け容れられないはずである(by TAKESANさん)。
さらに、トラックバックをくださったDさんは、文学をやっている人間ならこんな話にはそもそも興味を持たないと書いておられる。「水」は文系の領域ではない、文系は「人」なしに動けないからだ、と。水と言葉がつながることと、人と言葉がつながることは、まるで別世界だから結びつきようがないというのがその説明である。
歴史学や民俗学がどうかについてはよくわからない。しかし、水伝はいわゆる「文系」の立場では、受け容れられないか、そもそも全く関心の持てない話だということがわかる。
「水からの伝言を信じないで下さい」は科学者の視点では、
全国の科学者さんたちがもっとまじめになるか、日本の科学教育をもっとまともにする必要がある
<中略>
そもそも巷に蔓延したのは科学者さんたちがその問題を放っておき過ぎたことに起因すると思う。
<中略>
むしろ科学とニセ科学の区別がつかないくらい科学を理解できない日本の科学教育のレベルの低さが問題かな。
などと書かれているが、こんな認識では全く足りない。確かに、自然科学の考え方を身につけていれば、水伝はオカルトであるとして、即座に却下できるだろう。しかし、水伝は、世の中の何割かを占める文系学問を学んだ人達が、その文系の考え方を本当に身につけていたならば、自然科学の知識など無くても却下できる種類のものである。
理系でも文系でも、どれか1分野だけでもでいいから、標準的な知識というか知識の背骨のようなものを身につけた人が一定数いたなら、水伝は広がらなかったはずである。水伝が蔓延したのは、理系文系を問わずに学力と常識の劣化が起きていたからではないのか。科学者の態度や理科教育だけが問題なら、まだ状況はマシだった。しかし、水伝蔓延の状況を考えると、分野を問わずに学力が崩壊しているとしか思えないわけで、その方がよっぽど深刻な問題ではないのか。