神在月にかこまれて
週のはじめに考える
「神無月にかこまれて」。井上陽水さんの名曲です。十月は神無月。でもこんな時代だからこそ、あえて“替え歌”にしてみます。「神在月にかこまれて…」
出雲では旧暦十月を「神在月」と呼んでいます。
「国の尻、道の果てにまで住みたもう」三千余の神々が出雲大社に参集し、各地の課題や縁結びについて話し合うサミットを前にして、人々は稲佐の浜にかがり火をたき、「神迎え」にわきたちます。
巨大な甲虫のような千木をいただく本殿は、八雲山の太古の森に抱かれて、立ち上る朝もやが「八雲立つ出雲八重垣」(古事記)そのままに、神々の実在を五感に伝えてくるようです。
つづられる新たな神話
大社造りの建築様式そのものが、山、川、海のつながりを表すという人もいます。
神々への恐れはつまり、悠久なるものへの恐れ、八百万の自然に宿るいのちへの恐れに違いありません。
出雲から西へ下れば、お隣は明治以来八人目の宰相を生んだばかりの山口県、維新の神話もどうやら健在です。“純ちゃん”から“アベちゃん”へ、やはり古事記をほうふつさせる予定調和の「国譲り」とでもいいますか。
いつの世も歴史を編むのは勝者とばかり、神無月の東京では、「美しい国」づくりの空虚な神話がつづられ始めたところです。
アベちゃんだけではありません。マツケンからヨンさま、そしてイナバウアー経由でユーちゃんと、ブラウン管や液晶画面が自在に切り取り、際限なく増幅させるイメージそのままに、現代の“神々”はめまぐるしくうつろいます。うつろい過ぎてその「不在」が際だちます。
美しさとかかわいさとか強さとか、対象の具体的な属性よりも、つくられたイメージや「露出」の回数が、「人気」という現代の神話を創造し、使い捨てにしていきます。
「感動をありがとう」という言葉をこのごろよく耳にしますが、感動さえも商品化、しかも使い捨てではないですか。
タレントやプロスポーツの世界ならそれも仕方ないでしょう。しかし、政治家、しかも宰相の座がとりあえず人気で決まるとすれば、これは少々、いいえ、かなり危険です。
官邸主導の内閣は広報のプロを担当補佐官に任命し、タウンミーティングやメルマガ、インターネットなどを通じて国民に直接語りかけるのだそうです。この「直接」がくせ者です。おとぎ話やイメージを手間暇掛けて仕込むのは、発信者の特権だからです。
「大量消費」の神々が
商品を内容よりもイメージで売りまくるのが現代の広報戦略だとすれば、「美しい国」の独走にはやはり注意が必要です。
出雲を愛し、日本の美をこよなく愛した小泉八雲の旧宅が、松江城の堀端でひっそり公開されています。
すみずみまで手入れが行き届いた小庭では、サルスベリやキキョウが色を添え、ムラサキシキブの小枝が揺れるのよりもゆっくりと、冬支度が進んでいます。
「この民族の色彩や色合いに対する洗練された趣味には、けばけばしいものがなにもない。それは、この国の穏やかな自然が、落ちついた繊細な美しい色彩を帯びているところに、大きく由来しているからではなかろうか」(日本の面影)
出雲の風情がはぐくんだ、八雲の美意識の一端です。
外来語をやたらと持ち出すまでもなく、「大量消費」を神々の列に加える以前のこの国は、もともと美しい国でした。
先月末、愛知県岡崎市で市内にある光ケ丘女子高校ダンス部作品発表会が開かれました。
受験、反発、部活、悩み、ミニスカ、化粧、友達…。ヒップホップやロックのリズムを背景に、高校生活を取り巻く現実や自らの心の内とも素直に向き合い、緩急自在、群舞の中にも個性が光るエネルギッシュなステージでした。
三年生にとっては、仲間と踊る最後の演目が近づきました。全員参加の「火の鳥」です。
その日進行役を務めたマネジャーのカホさんの頭の中を、「火の鳥」で挑んだコンクールの思い出が駆け抜けます。
「神戸での全国大会決戦本番。信じられないことが起こりました。今までに感じたことのない仲間との感覚。お互いのすべてがまるで自分自身のような感じを受けました。熱くこみ上げてくる喜びが涙となり、あふれてきたのです-」
時代に踊らされないで
「火の鳥」は無事終わり、三年生は「ありがとう」の言葉を残して舞台を去りました。
「感動してくれて、ありがとう」。満場の拍手の中、彼女たちに涙はありませんでした。
時代に踊らず流されず、今を見据え未来を夢見るココロとカラダは美しい。そしてそんなココロとカラダに、神々はいつでも舞い降ります。