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「ドブス」動画問題、首都大生2人を退学処分に 指導教員にも「厳正に対処」
首都大学東京の学生による「ドブス」動画問題で、同大学は撮影・公開に関与した4年生2人を退学処分に、音楽を提供した院生1人を停学処分とした。
2010年06月24日 18時11分 更新
首都大学東京の学生が「ドブス写真集完成までの道程」と称して一般人を撮影した動画をネットで公開した問題で、同大学は6月24日、撮影に関わったシステムデザイン学部4年の男子学生2人を退学処分に、同研究科博士課程の男子大学院生1人を停学処分(1カ月)にした。学生に対し指導的な立場にあった教員に対しても関与の有無や指導方針を調べており、「今後厳正に対処する」という。
問題の動画で、学生は「今日の日本においては、ドブスが絶滅の危機に瀕している」などと「ドブスを守る会」を称し、「ドブス写真集を作る」としてJR立川駅前(東京都立川市)で一般の女性を強引に撮影。女性の顔が分かる形でYouTubeに公開した。
視聴者から批判が相次ぎ、学生は動画を削除。だが同大学にも抗議が殺到する“炎上”状態になり、同大学は「多大なご迷惑をかけ、深くおわびします」という原島文雄学長名の謝罪文をWebサイトに掲載していた(首都大学東京、学長名で謝罪 学生の「ドブス」動画問題)。
学生は大学の調査に対し、「不道徳なものから生じるおかしみを追求することで、何かしらの表現ができると思った」と話しているという。
同大学は、学生2人が「映像作品を完成するという名の下に、被写体となった方々に対し公然と人権侵害をした」「映像を作品として公開することにより、被写体となった方々の精神的苦痛を増大させた」、同大学の「社会的信用を失墜させた」として退学処分にした。
大学院生は「不適切な内容の映像であると認識しながら、その映像に音楽を提供し、映像の作成に関与」し、その結果同大学の名誉を傷つけたが、積極的に関与したわけではないとして停学処分とした。
原島学長は「映像は作成目的・意図を問わず社会通念に照らして倫理観、人権意識を著しく欠く極めて悪質なもの。映像を流された方々の人格を踏みにじる行為を行った上、多くの方々に不快な印象を与えた」と謝罪し、「他の学生の良好な学生生活を脅かすに至ったことは痛恨の極みであり、一刻も早く元の安寧な学修環境を取り戻せるよう全力で取り組む」としている。
私が読んで気になったtogetterのまとめ。ynabe39さんの発言。
起訴されて有罪になったわけでもないのに退学にしてしまうというのは、「逮捕や起訴,罰金や有罪判決などの客観的な基準に準拠しないといけ」ないところ、まずいのではないかという意見には全面的に同意。これは、手続きの安定性を欠くのが将来的に良くない結果を及ぼす懸念があるから。
退学させられた学生が裁判で争ってきたら、これまでに確立している退学の基準に照らし合わせて裁判所の判断がなされた場合、大学が負ける可能性が高いのではないか。大学はアカウンタビリティと敗訴のリスクを秤にかけて、アカウンタビリティを重視したように見える。リスクを負う決断をするのは大学の自由だが、上策では無さそう。
今後、客観的な基準がなくても退学させるという方法をとりたいのなら、入学前に提示する学則に基準を明記して、実際に実行し、何件か訴訟をやって、裁判例やら判例やらを積み重ねるしかないのかも。そこまでやることが前提だったとしても、何をやると退学になるかわからない学則では紛争のもとになるだけなので、何らかの客観的な基準を書いておくことが必要だろう。ただ、事実認定は裁判所の仕事で大学の仕事ではないので、実行可能かというと疑問。外の基準(起訴されて有罪とか)に頼った方が安定しそうではある。
ynabe39さんがおっしゃる「停学だとその学生が反省し真人間になるまで大学や教員が面倒をみないと世間の批判を浴びます。大学の責任の取り方としては退学の方が無責任とも言えます」はわかるのだけど、今の大学に「真人間でなかった学生を真人間にする」能力があるかというと、一般には期待できないと思う。そんなノウハウは大学にはほとんどないし、昔なら多少はあったかもしれないそういった部分を潰す方向で運用がなされてきている。
大学がとれる一般的な方法としては、カリキュラムを変えて倫理的な教育を徹底させるようにしました、といった対策でしかない。特定の個人を「真人間にする」と世間に対して請け負うのは無理だろう。教員の誰かを担当に指名して反省文書かせつつ面談もしました、といったことは実行可能だけど、これで学生が改心する保証はない。
大学が負う責任と負い方にも一定の限度があるので、その範囲を超えて「大学に責任があります」と主張してしまったら、逆にそれは無責任な主張になってしまうから、すべきではない。
大学がやるべきことは、例えば、ただの愚劣な権利侵害行為を芸術とカン違いする学生が出て来た理由について、教育内容のどこがまずかったかを検討するといったことであって、特定個人が更生するという結果を世間に対して約束することではない(刑務所だってそんなことは約束できていないのに大学に求められても不可能)。
ここからは私もまだ混乱している部分。
村社会的徒弟制度が機能していれば、倫理や道徳をたたき込むのは今よりは容易だったかもしれない。ただ、ハラスメントという弊害が出てしまったため、そちらを潰すために、村社会の論理を排除する方向で学内規則が整備されてきている。
説得だけで倫理や道徳を教育できるとは限らない。昔であれば、法的手段以外の「圧力」を使うことができたのだけど、今では、法的手段以外に「圧力」を用いること=(法的根拠がないから)違法、とされてしまうために、とれる手段がかなり制限された状態にある。倫理や道徳を強制するために違法な手段をとると本末転倒なので。
大学から、法的手段以外の方法を奪い去っていった結果が、「「学生重視学生優先」を目指してることになっている日本の大学で,学生への懲戒処分がどんどん日常的になり厳しくなっているという矛盾。これはけっして「学生の凶悪化」によるものではないよ。」(ynabe39)につながっているのではないかというのが私の問題意識である。「教育的配慮」の名のもとに曖昧にしていたり、現場で判断したりしていた部分が、権利義務関係に厳密に落とし込んだら違法になったり無効だったりする場合もあるわけで、そうなると「教育的配慮」は減らすしか無くなる。
今回の件で、退学処分にしたから終わりというわけではないだろうという主張も理解はできるのだけど、私には、大学側が「そこまでの(=倫理や道徳を強制する)教育能力はウチには無い」と宣言しただけのようにも見える。
一部分だけ法化社会的運営で残りは「教育」という曖昧なもので括っておくことは多分無理だろう。大学だと、成年を預かるのでなおさらである。
結局、契約書を作って責任の範囲を定める以外に方法が無さそう。「教育的配慮」まで含めて契約書に書け、といった方向でないと、法化社会的運用は不可能じゃないか。もちろんその内容は公開で。それが教育機関の在り方として望ましいかというと異論もあるだろうけど、今更、大学だけ別扱いにはできないので、法化社会的運営に統一する以外の道も無さそう。