科学の誤解はここまでひどい
掲示板の方に投稿があって見に行ったのだが、「食卓の向こう側」という連載を持っている記者の重岡美穂氏の2005-08-26のブログについて、あまりにもとんでもない誤解をしているようなので、コメントを書いておく。
まず、重岡氏は、アスベストや水俣病の問題を取り上げた後、いずれも規制が遅れて被害を出したことを指摘した。その上で次のように述べている。
科学は起きている事の一部を検証するものだと思う。科学で分からないことなんて山ほどある。科学的に証明されていないから規制できない、という言葉が大きな顔をしてまかり通る時代、そんなことを胸を張って言う人たちが幅を利かせている間は、同じ問題が繰り返されるに違いない。
科学は私たち人間の感覚や体験、体感を補助する道具として使うべきだ。危険性が証明されていないから安全だという言葉の異様さに気づこう。なんだか危ないという状況がある「グレーゾーン」なら、生きている人間として当たり前に避けよう。
歴史に学ばなければ、人間は本当は賢くないんだという結論が待っている気がして、怖い。
まず、重岡氏は、科学と人間の両方について誤解している。科学は、人間が自然をどう理解するかという方法論、及びその方法論を用いて行った努力の結果得られた知識である。起きていることの一部を検証するために使われる場合もあるかもしれないが、それだけではない。
また、人間はもともとそんなに賢くはない。人間の脳は、見かけの因果関係があれば簡単に騙されるというのが、歴史の教えるところである。歴史を振り返れば、いかに人間社会で迷信が幅をきかせてきたかがわかるだろう。ただ、騙されっぱなしでいない程度の知恵は持ち合わせているわけで、脳が認識した因果関係と、自然観察の積み重ねで得られた因果関係を一致させるのが科学の役割である。
重岡氏の言うように、感覚に基づいてグレーゾーンを避けるという方針を採ったりしたら、迷信を信じていた時代に逆戻りするだけではないか。「グレーゾーン」を避けるのが望ましいとしても、その「グレーの程度」には科学的裏付けが必要だろう。
「危険性が証明されていないから安全だという言葉の異様さに気づこう」と重岡氏は書いている。しかし、これは「異様」なのではなく、単に論理的思考力が欠けているだけの話だ。「証明されていない」から導かれるのは「調べた範囲では今のところ安全らしい」という程度のことでしかない。
危険であることを科学的に立証するのは可能だし、比較的容易である。ある条件で被害がでるという再現性の良い現象を1つでも見つければば、それで証明終わりである。ところが、安全であることを証明するのはほとんど不可能だ。ある条件で、これこれを調べたら、今の技術では被害も異常も検出できませんでした、ということがいくつ積み重なったとしても、安全を立証したことにはならない。別の条件で別のことがらを調べたら、危険だという証拠が見つかるいかもしれないからだ。科学というものは、「ある」ということを立証することはできても「ない」ということを立証するのは大抵の場合できないものなのだ。だからといって、いつかは危険性が見つかるかも知れないから規制しようというのは無理がありすぎる。さらに、体感や感覚を理由に物質の使用を規制したら、別の被害を引き起こす可能性の方が高いだろう。実は害が無いものでもあると信じて使わないことにする一方で、実は危険な物質を体感を根拠に無害だとして使うことになるのではないか。
また、重岡氏の書かれたことは、全体として矛盾している。もし、人間の感覚や体験・体感がそんなにあてになるものであったなら、水俣病もアスベストの被害も発生しなかった筈である。この魚は食べたらどうも具合が悪くなりそうだ、この空気には何かが含まれてて吸ってると病気になりそうだ、ということが体感できていれば、そしてそれが誰にでも感じられるものであったならば、どちらも早めに対策することができただろう。現実には、全く危険を体感できなかったからこそ、そういう魚を食べたり空気を吸ったりしてしまい、その結果被害が発生した。その後、何が原因かを突き止めるには、やっぱり体感でも感覚でもだめで、科学を使って手間暇かけて調べる以外になかった。
ある化学物質について「危険性が立証されていないから安全」と主張することも、「体感や感覚を優先して避けるべきだ」という主張も、同程度に論理性と合理性を欠いていように私には見える。
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