わからなさに対する耐性
poohさんの「わかろうとすること」を見て。昔、わからなさに対する耐性について何か書いた記憶があったので、atom11の方を探ってみたら、「科学のような話(1999/11/09)」を書いていた。そのあと、あちこちで、「わからなさに対する耐性をつけよう」といったことを喋った記憶がある。
じゃあ、およそ10年前に私がどう考えていたかというと、
どうも、メーカーは、科学っぽい理屈を付けた方が売れると考えているように見える。また、「消費者は科学的説明がないと胡散臭いと思って買わないに違いない」という考えに基づいてそういう宣伝を行っているのかもしれない。あるいは、本当に、科学的根拠がある、又は、あってしかるべきだと思っているのかもしれない。
実際には、水の特別な機能の存在について、正しい手順を踏んだ実験で確認されてさえいれば(官能検査をやっておいしいと出た、ちゃんとテストして肌に良いとわかった、など)、原理はともかく売っても買ってもかまわない。効果のメカニズムに対し科学的説明がなくても、何の問題もないはずである。にもかかわらず、一見科学的に見える説明をつけたがるのは、科学というものを誤解している人がそれなりの割合でいるためではないかと思われる。誤解は、「科学でわかるということ」をどう判断するかという点で起きていると私は考えている。
科学で「わかる」というときには、「現象のhowを記述する」というのと、「根源的にwhyを説明する」という、2通りがある。後者は、問いのたてかたを間違えると、科学ではなくて、メタ科学や哲学になってしまう可能性がある。水の話に関しては、むしろ前者をどう位置づけているかが問題である。
科学でいう「わかる」とは、測定によって得られるある量の間の関係性を正しく記述でき、その記述を使って予測できることがたくさんある、ということだとしよう。その測定には再現性が必要で、かつ対照実験をして意図しない効果によるエラーを除くように注意する必要がある。科学で「わかる」ということをこのように定義するなら、科学でわからないことがたくさんあっても、それは単に関係性でもって記述できる事柄の中に含まれていないということに過ぎない。科学で説明できる、とは、関係性を記述できるということと同義である。だから、私や私のまわりでは、科学で説明できないことがあっても、特に気にしていない。科学の枠組みの中で研究をしている側は、科学で説明できないということに対する一種の耐性をもっているように思う。
そうすると、既存の知識と矛盾するような現象が出てきたときは、検証実験が済むまで判断を保留するだけで、頭ごなしに否定もしないし飛びつきもしない。ところが、水のクラスターの話の広まり具合や、無理に実験結果を付け足したがる様子を見ると、どうやら科学研究を日常行っていない人々の方が、科学に何かを期待し科学的説明を性急に求めたがり、あげくに「一見科学のような」説明に飛びついてしまっているように思われる。また、科学とはすごいものだという思いこみの裏返しによって、科学では説明できないという事実に特別な意味を見いだそうとし、疑似科学やオカルトにはまったりしている。科学に対する過剰な期待や過信も、過度の不信も、科学で「わかる」ということを誤解することによって生じるのではないか。
つまり、whyを追求することとhowを記述することは別で、この2つの混同するのがまずいんじゃないか、という話で、これを読み返すまで自分でも何を書いたか忘れていたんだけど、「わかりやすさに対する耐性が低下している」などと安直にやってなかったのでちょっとほっとした^^;)。
実際には、「現象のhowを記述する」だけでも結構大変で、これを確立した方法でそれなりの精度でできるということが、理工学系の学部教育を終えた人が持つ付加価値でもある。だから、多くの実用的なレベルでは「howを記述する」がちゃんとできているということで満足したってかまわない。「現象のhowを記述する」が終わった時点で(ひょっとするとそれも怪しいかもしれないのに)「根源的にwhyを説明する」も一緒にできるのが当然だ、と思われてしまうと困るというか、そもそもそんなの無理、というしかない。
来月、洗浄技術フォーラムで講演することになっていて、蔓延している水クラスターの本当のところがどうなのか(あの騒ぎは何だったのかとか、機能水の評価はどうするべきかといったこと)を話して欲しいと頼まれた。それで、水クラスターの騒動総括ということで、この一週間ほど資料を掘り起こして講演テキストを書いていた。「水のクラスター 伝搬する誤解」を書いてから10年経ったわけで、今回の講演をきっかけにもう一度まとめてもいいかな、と思ってちょっと頑張って書いてみた。講演終了後にテキストは公開する予定なんだけど、このテキストの最後の方に、技術者向けの具体的な懐疑の方法として、
・その測定を裏付ける(査読を通った)研究論文があるか?
・主張されている「変化」は他の測定でも同様に観測できて、矛盾のない結果になっているか?
・実験結果を説明するための「モデル」を「指標」として使おうとしていないか?
・標準的な方法が使われているか?
というのを書いてみた。これは、実際に水クラスターの話が蔓延してしまった経緯を調べ、どこで間違ったかをよく見て、私なりにチェックポイントをまとたものである。
まあ、ここまでいくと、とても一般消費者向けとはいえないのだけど、消費者向けニセ科学を事業者が提供してきた面もあるから、事業者向けに懐疑の方法を伝えておくことも必要かと考えている。
「懐疑の技術」というものがあって、それは多分、何がどこまでわかったら「わかった」とするのか、という、レベルの設定とも関連している。「現象のhowを記述する」が出来ていれば良いことにして、「根源的にwhyを説明する」はできなくてもいいや、ということを意識的にやることが、わらからなさに対する耐性を持つということになるだろう。懐疑精神の方は、「現象のhowを記述する」が今の技術的水準を満たしているかとか、精度が足りているかということを問題にするときに発揮すれば、そんなに大きくニセ科学側にぶれることは無さそうである。
何でも疑いましょう、じゃあ、行きすぎた相対主義と変わらないからニセ科学を信じることの歯止めにはならないので、もう少し具体的に「何をどう疑うか」というハウツーめいた形にまで落とし込んでおく必要があると思う。
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