ニセ科学まとめの方のコメント欄でいろいろ議論が進んだので、現状を簡単に整理。
○「ニセ科学批判」と括れるようなものは存在するのか?
→存在しない。スポーツをする、という表現と同様に、あくまでも個別の事柄への批判があるだけ。
○「ニセ科学批判批判」はあるのか?
→そもそも「ニセ科学批判」で括れるものが無いので、何を批判しているかが不明のまま。
個別の議論の際に、もっとうまい表現がある、などといった批判が出ることは考えられるが、それは、ニセ科学を問題だと思う側もお互いにやってきている。この議論をするなら、「ニセ科学批判」対「ニセ科学批判批判」という構図を無理に作り出す必要は無い。
○ニセ科学はどう問題なのか?
→科学として間違っている(事実としての正しさが無い)上に、「嘘をつくな」「不確かなことを言い触らすな」といった社会規範にも違反する(規範としての正しさも無い)。
○「ニセ科学批判」に含まれる共通のものは本当に無かったのか?
→最近いろいろ考えた結果、含まれるものがあるというのではなくて、「嘘をつくな」「不確かなことを言い触らすな」という社会規範に拠って立っていたということが相当程度共通のことだったのではないかと考えるようになった。同時に、この社会規範を意識して説明する、という行動が、これまたかなり共通して「批判側」に抜け落ちていたのではないか。
○事実と規範の切り分けは?
→事実で規範を変えることはできない。規範に対抗するものは別の規範である。……このあたりは法哲学や法社会学の議論で当然知っておくべきことだと思うが、どうだろう。
科学の部分を問題にする場合は、事実としての正しさを問題にしていることになる。科学の部分の内容に関わらず、その内容によって社会規範を新たに説明したり補強したりすることはないし、できない。あくまでも、現状の社会規範を再確認しているに過ぎない。
なお、特定個人が科学的正しさを担保するわけではないのと同様に、特定個人が規範としての正しさを担保するわけでもない。前者は知識の集積でもって正しいことが徐々に確定するし、後者は合意を得るプロセスを通じて原則が何であるかが徐々に確定する。前者は自然現象を相手にするので、人の都合とは関係なく何が正しいかが決まるのに対し、後者は人の都合で何が正しいかが決まる。
※規範は不断の努力と考察をしないと維持できない。
※【追記】規範を決める時に、事実を踏まえてはいけないという意味ではない。事実を踏まえた規範にするか、それとも事実とは関係無く規範を定めるかどうかが人の価値判断に任されているということであって、事実によって自動的に規範の在り方が決まってしまうという関係ではない。
○ニセ科学の問題は規範の部分を含むのか?
→この社会で問題にする限り、科学の部分と規範の部分は不可分。
なぜならば、もし、社会の側が「嘘ついてもOK」を規範としてしまったら、その社会では、ニセ科学を問題にする意味は無くなるし、逆にニセ科学を問題にすることの方が規範に照らして非難されるべきこととなるかもしれないから。事実としての正しさ(=科学の部分)のみでは、ニセ科学を問題にすることが正当であることを支えきれない。
※規範の部分が入る、即ち価値判断を含むことが、科学哲学とも異なっているのではないか?
○共通のものがあることが分かったところで、「ニセ科学批判批判」はどう位置づけられるか?
→これまでのところ、はっきり言って成果は無さそうである。
「批判批判側」のいう「批判側」が共通に拠って立っているものが社会規範であるということを、「批判批判側」はきちんと拾い上げることができなかった。このため、科学以外のことを押しつけるなとか、科学教とか、ニセ科学批判一派といった、間違った問題を設定して批判するばかりであった。
「嘘をつくな」「不確かなことを言い触らすな」という社会規範を受け入れているということがニセ科学を問題にする側の共通の部分で(多分ほとんど当てはまると思う)、これが事実(=科学の部分)以外のほぼ全てである。「ニセ科学批判批判」が、科学的正しさの部分は受け入れるというのなら、批判すべき対象は「ニセ科学批判」ではなく「批判側」が拠って立っている「社会規範」ということになる。
つまり、「ニセ科学批判批判」は「ニセ科学批判」を対象とするものではなかったので、ネーミングが違っているとも言える。
○「ニセ科学批判批判」が本当にしなければならないことは何か?
→科学的事実以外の部分について批判をするという立場をとるのなら、議論すべき対象は「嘘をつくな」「不確かなことを言い触らすな」という社会規範ということになる。これらの規範は「原則」である。
個人の主観と感情に基づいた「規範が押しつけだ云々」という議論で済むのは、せいぜい中学生までだろう。規範である以上、客観性があったり、社会における機能がどうであるかといった部分を無視して議論しても意味がない。既に書いたように、規範を制限したり変えたりするのは別の規範である。
従って、特定のニセ科学を問題とすることに異議を唱えるのであれば、それが、「嘘をつくな」という規範の「例外」にあたることを説明しなければならない(原則が当てはまらないことを主張する側が例外を立証するのがルール)。あるいは、ニセ科学を問題にするのに、これらの社会規範に拠って立つことが妥当ではない、あるいは、社会規範そのものが妥当ではないことを示し、別の規範をぶつけて、どういう価値判断をするかについて論じなければならないだろう。
つまり、「ニセ科学批判」論を展開するのではなく、「規範」論(勿論勝手な作文ではなくて文系のお作法に則ったもの)を展開しなければならないということである。
コメントをいくつか。
これまでの自称「批判批判者」は、「批判側」から共通に抜けているものを指摘し損なった上、見当外れの問題を設定して、メタな議論ばかりしていて役に立たなかった。だから、今度は、その人達が規範論をメタな方向に突っ込まずにやれるかというと、多分無理じゃないかと思う。ただ、問題にすべきことが規範の意味だったり位置づけだったり機能だったり、ということをはっきりさせておけば、文系の人が問題を認識して一緒に考えてくれるんじゃないかと期待してるんだけど……。
実のところ、ある時期までは、私は「規範」ではなく「利害」を全面に出して進めようと考えていた。これは、悪徳商法系の人達による批判が、「安っぽい正義感を振り回しても現実は違う」といったパターンでやって来ることがあったからで、これに対抗するため「正義感じゃなくて利害」という説明をする必要があったことによる。また、一般論として正義の名のもとに何かやると歯止めがきかない、という危惧もあり、私自身が正義感というものに対してネガティブイメージを抱いていたこともある。
ただ、被害を発生させない、という「利益」を実現するために、規範が実際に役立ちそうだということに思い至ったので、正義感よりは客観性と普遍性のある「規範」の方を考えることにした。
まあ、見方を変えた理由は、私が、法の概念とは何かとか、法と道徳の関係はどうだとかいう話を、せっせと教科書を読んで勉強してみた、というのが主な原因かもしれない。
ところで、「ニセ科学批判まとめ」の、「何故ニセ科学を批判するのか」では、理由は「人それぞれ」とされていて、いくつかありそうなものが列挙されている。私が見る限り、列挙されている理由は、「嘘をつくな」「不確かなことを言い触らすな」といった社会規範そのもの、あるいはこの規範が社会において必要である理由として説明できそうに思う。
【追記2009/06/19】
ニセ科学が科学としてどう間違っているかを判定するのは、社会規範とは関係なく、自然科学のみで可能である。内容の正しさは、科学だけで支えられる。一方、ニセ科学をニセと間違いなく指摘して他人に伝える行為の正しさは、規範としての正しさである。だから、反論や検討としては、
(A)指摘の内容そのものへの異議→科学として間違っているかどうか、つまり事実として正しいかどうかが問題となる
(B)指摘するという行為への異議→規範として正しいかどうかが問題となる
という形をとることになる。この2つは異なった正しさなのだから、議論するときに混同してはいけない。
科学の優位を主張しているわけではないことに注意。科学的に正しいことが(B)の主張の根拠になることはないし、規範が(A)の主張の根拠になることもない。規範は人の価値判断の結果出てくるものであり、科学は人にとって何が価値あることかを決めることはできない。規範を定めるときに、科学的事実を取り入れて定めるかどうかはケースバイケースである。科学的事実の一部が採用されたとしても、それは人が考えた価値判断基準によって選ばれただけであり、科学的事実が規範を規定するという関係ではない。
科学としての正しさと、規範としての正しさは対立概念ではない。