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特商法方式でカルト対策はできないのか?

Posted on 5月 3rd, 2009 in 倉庫 by apj

 酔うぞさんの「東京スポーツの加護亜依報道から」を読んでいて、ふと思ったこと。

 訪問販売や電話勧誘を規制する法律に、「特定商取引に関する法律」(以下特商法と略)がある。これが定められた背景には、消費者が店舗に行く時は、事前に情報を調べたりして「買い物に行くぞ」と心の準備を整えて行くのだけど、訪問販売や電話勧誘は心の準備ができていない状態で勧誘されるから、その心の準備が無いということを補うために規制が厳しくなっている部分がある。で、条文にこんなのがあるわけ。

(訪問販売における氏名等の明示)
第三条  販売業者又は役務提供事業者は、訪問販売をしようとするときは、その勧誘に先立つて、その相手方に対し、販売業者又は役務提供事業者の氏名又は名称、売買契約又は役務提供契約の締結について勧誘をする目的である旨及び当該勧誘に係る商品若しくは権利又は役務の種類を明らかにしなければならない。

 カルトの勧誘の問題の1つに、「正体を隠して近付く」というのがあるので、この特商法の条文のようなもので規制したらどうだろう。
 つまり、
「宗教施設であると表示されている場所以外の場所で、宗教団体又は宗教団体への勧誘を行う者は、勧誘をしようとするときは、その勧誘に先立って、その相手方に対し、宗教団体名及び教団代表者(教祖など)の名称及び氏名、宗教団体への勧誘をする目的である旨を明らかにしなければならない。」
といった条文を、罰則付きで決めたらどうかという提案である。で、多分これをやっても、信教の自由には抵触しないと思う。
 ちょっと今出先で、憲法学の教科書や法律用語辞典を忘れてきたので、wikipediaに頼るのだけど、信教の自由の中身は、

1.個人が自由に好むところの宗教を信仰し、宗教的行為(礼拝・布教など)を行い、宗教団体を結社する権利。
2.宗教を信仰するかしないか、するとしてどの宗教を選択するか、自由に決める権利。および信仰を強制・弾圧されない権利。
3.宗教を信仰していたり、していなかったりすることによって、いわれのない差別を受けることのない権利。
4.上記の権利を確保するために、国家が特定の宗教について信仰の強制・弾圧・過度の推奨などを行う事を禁ずる制度(いわゆる政教分離)を行うこと。

となっている。
 特商法方式の宗教勧誘規制を行った場合、勧誘の中身つまり教義の説明や活動について述べる前のところを規制するだけだから、規制があることによって勧誘の内容が左右されることはない。この規制は名乗って堂々と勧誘するならOKという意味だから、勧誘することそのものを妨げるものではない。勧誘であることを承知した上で内容を聞いた個人の判断に、規制の有無は影響しないだろうから、実質的に布教を妨げるものにはなっていない。また、勧誘であることがその場ではっきりすると、その宗教を信仰するかどうかとか選択するかどうかをより意識的に各人で決めることができるようになることが予想され、むしろ信教の自由の内容を充実させることを助ける効果があるかもしれない。
 「勧誘であることを告げなかった」という、中身の話に入る前の勧誘の態様の規制を、すべての宗教団体に適用すれば、特定の宗教団体に不利益を与えたということにもならないし、政教分離の原則に引っ掛かることもないのでは。
 また、ここはお寺とかここは教会とか、誰が見ても宗教施設とわかる場所に(だまし討ちで呼び出されたのではなくて)自分から進んで出向いていって話を聞こうという人については、勧誘されることも予期しているはずだから、規制対象に含めなくて良いだろう。
 「およそ宗教者たる者は、個人の精神を律したり救済したりする高尚な役割を担っているのであるから、こそこそせずに堂々と名乗って勧誘するべきである」とか言い張ると、タテマエとしてもそれなりに立派に見えるし、聞こえだって悪くない。
 この規制をやった場合、正体を隠してこっそり勧誘して本人が気付かないうちに特定宗教に嵌めたい場合だけがやりづらくなるんじゃないだろうか。つまりカルトのよからぬ振る舞いだけを入り口のところで選択的に撃てるんじゃないかと思うのだけど。

 どうだろう?

「科学の権威」の害って何?

Posted on 5月 2nd, 2009 in 倉庫 by apj

 waveriderさんの、「権威の取り扱い:Chromeplated Rat への回答? のようなもの」を見て気になったこと、というかどうしても私にはわからないことを1つ。

 科学に権威が伴うとして、そのことによって一体どんな被害が発生しているのか?

「双方が科学を信奉しているがゆえ、正しいことを述べる側に権威が発生してしまっている。批判 vs 批判とはつまるところ権威に対する反発であり、”構図” が引き起こす問題だ」

『科学は万能だ。科学はいずれあらゆる問題を解決できるようになる。科学こそが真理だ。原理はよくわからんが科学スゴい!』
…といったように、肥大化が盲信を生んでしまう。
さらに、『科学は人間の都合なんて考えてくれない。合理性は感情を殺す。科学が環境を破壊する。科学コワい!』
…のように、科学や合理性の持つ「非人間性」が怪物化して、恐れをも生んでしまう。

 waveriderさんにはこのように見えているということだろうし、それを否定するつもりはない。ただ、これを受け容れようとすると、上記の疑問になる。

 科学の権威の効力発生の場面で、思いつくものをいくつか挙げてみる。

 まず、権威だけ借りてきたけど内容が伴わなかったケース。
○悪徳商法業者
 「インチキな測定データとかをつけてクズ健康食品を売り出したら、売れること売れること……バカがみんな信じてくれて簡単に儲かるなぁ」
→でも、これって、科学に権威があることによって生じた被害じゃなくて、他人を騙す人が発生させた被害だよね?「科学に権威があること」に対して責任は問えないじゃないの?
○悪徳商法の被害者
 「科学的根拠があるって宣伝信じて買ったけど、効果ないし、ぼったくられただけ。おまけにマルチにはめられて借金まで……」
→この場合、責任を問うべきは、嘘付いて騙したヤツだよね?「科学に権威があるから信じた、けしからん」と科学を責めるのはお門違いだよね?

 次に、権威を借りてきて内容も正しかったケース。
○「取引先の会社がトンデモにはまって、ウチの現場でも使わないかと薦めてくるんだよな。怪しいと思うんだけど、真正面から、「インチキを言うな」などと言って断ると人間関係で維持してる商売が後で困ったことになるし……あ、大手企業の研究所か大学あたりで検査して、役に立たないって結論だしてもらって、それを理由にやんあり断れば、あんまり角が立たなくて済みそう」(実際にこのやり方をしたいという業者さん、居ます)
→うまいこと権威をつかって、人間関係を損なわずに金銭的損害を免れたのだから、これって権威がくっついてることのメリットだよね?断られた側は多少は気分を害するかもしれないけど、他人に高価なものを薦める時はそれなりに慎重じゃなきゃいけないよね。科学とは関係なしに。

 waveriderさんの指摘について見てみる。

○科学は人間の都合なんて考えてくれない
→こういう人、時々見かけるけどね、それじゃあ質問したい。
「科学のために、あなたの都合が邪魔された具体的な例ってどんなのがあるの?」
 ……いやその、「科学のせいで自分がやりたかったこれこれが邪魔された」って具体的な事例が書かれているのを見たことがないんだよね。だから知りたい。「人間の」じゃなくて「あなたの」都合が邪魔された具体例を。
○合理性は感情を殺す。
→「科学が、あなたの感情を殺した例ってどんなのがあるの?」
○科学が環境を破壊する。
→環境を破壊したのは、科学じゃなくて、それを使って過剰に活動した「人間」だよね?後先考えずに金儲けのことだけ考えて、あちこち壊しまくったのまで科学のせい?はっきり言って濡れ衣じゃないの?自分の不注意で指先を怪我したのを、よく切れるナイフのせいにする、ってのとどう違うの?

 科学に権威が伴うとか、その権威で抑圧されるから反発する、という立場の人に訊きたいのだけど。

「科学の権威で抑圧された結果、あなたに(あるいはあなたの友人知人に)どんな具体的な被害が発生したの?」

 例えば、人間関係で抑圧されてたら鬱病になりました、という話ならしばしば見かけるし、だからその抑圧を何とかしないといけない、というのもわかる。だけど、「科学の権威で抑圧された結果鬱病になりました」というのは聞いたことがない。

 科学に権威が伴ってるとか、だから気を付けろとか言われても、そのことによってどんな被害が出てるのかがはっきりしないと、何をどうしていいかわからない。少なくとも、この手の内容を主張してくる人にとっては「科学に権威がくっついている」の部分が変わることはないのだし、それなら「こんな被害があった」というのを出してもらって、類似の被害が発生しないようにするにはどうするかをみんなで考えるしかないわけで。

【トラックバック用追記】
 poohさんのところの「権威の取り扱い」にもトラックバックしておく。

【メモ】脂肪燃焼サプリで健康被害

Posted on 5月 2nd, 2009 in 倉庫 by apj

 asahi.comの記事より。

脂肪燃焼サプリ健康被害 ハイドロキシカット、米で警告
2009年5月2日10時48分

 【ニューヨーク=田中光】米食品医薬品局(FDA)は1日、脂肪燃焼をうたった健康食品(サプリメント)のハイドロキシカットの使用を中止するよう警告を出し、カナダにあるメーカー側も自主回収を始めた。死亡例や、肝臓移植を必要とする肝機能障害が報告されているという。

 FDAによると、ハイドロキシカットは主に脂肪を燃焼させ、体重を減らす効果をうたい、薬局やコンビニなどで売られている。昨年1年間で900万個が販売され、日本のインターネットサイトでも販売されている。

 これまでに19歳の男性が死亡するなど、23件の肝機能障害が報告されている。このほか、発作や横紋筋融解症などの健康被害もあった。どの成分が健康被害につながっているか調査しているという。

 健康食品・サプリによる事故例追加、かな。講義資料に入れるかもしれないのでメモ。

【ネタ】

Posted on 5月 2nd, 2009 in 倉庫 by apj

一般人・やる夫「司法改革だお!弁護士ふえたお!」
弁護士・やらない夫「何をそんなにさわいでるんだ」
やる夫「これからは一般人もどんどん弁護士に相談するお!……でも困ったお。どの先生がいいかわからないお……」
やらない夫「そりゃ相性ってのがあるから」
やる夫「雑誌のランキングとか、行列の出来る何とかに登場する先生に頼めばいいんだお!」
やらない夫「でもその超有名先生がやってくれるとはかぎらないぞ。超有名だから仕事が殺到してて同じ事務所の新人が担当ってこともある」
やる夫「じ、じゃあ、電車に広告を出しているとことへ行くお!借金の相談にものってくれる親切な事務所みたいだお」
やらない夫「広告で人を集めて、薄利多売の仕事をしているところに行って、きちんと話をきいてくれるかね?避けた方がいいと思うが」
やる夫「どうしたらいいんだお。お医者さんだったら、あそこの先生は名医だとか、街でも噂になってたりするお。」
やらない夫「そりゃ、他の医者が治せなかったのがあの先生にかかったら治った、となれば噂になるな」
やる夫「でも弁護士先生の仕事なんかわからないお。しつこい風邪が治ったのとは違うお。書面見て、ここの先生ならではの妙技、なんて素人には判断無理だお」
やらない夫「それに、どの医者がいいか知ってる患者ってのは、病気がちでいろんな病院を回ったんじゃないか」
やる夫「それだお!いろんな弁護士先生のところを回るお。訴訟しまくればいいんだお。そうしたら弁護士の選び方がきっとうまくなるお」
やらない夫「でも、そういう人は訴訟狂と言われて、弁護士も敬遠するんだな」
やる夫「どうすればいいんだお」
やらない夫「被害者の立場で事件に巻き込まれる回数が増えれば、どういう弁護士がいいかわかるんじゃないかな」
やる夫「たとえばどんな風になるんだお?」
やらない夫「そうだな……まず、痴漢冤罪で捕まって告訴されて、最高裁あたりで無罪を勝ち取る」
やる夫「この間新聞で見たけど、あれは大変だお。仕事クビになるお」
やらない夫「やっと無罪になったと思ったら裁判所からの帰り道で交通事故に遭う」
やる夫「痛いお……」
やらない夫「で、担ぎ込まれた先の病院で医療過誤。その訴訟をしている間に親が死んで遺産相続争い。親族の揉め事に嫌気がさした嫁さんが離婚言いだして調停ではカタがつかずに裁判所行き。あとは、自動車事故の時に保険会社がズルして金を出さないのを何とかしなければならない、ってのもあるかな。これくらい揃えば、個人が巻き込まれる法的トラブルは一通り全部経験できる。それぞれ違う先生に依頼すれば、弁護士を見る目は確実に養えるぞ」
やる夫「小説になりそうなくらい不幸な人生だお。そんな人生イヤだお……」

【コメント】括れないからわからないのでは

Posted on 5月 2nd, 2009 in 倉庫 by apj

 kaqu11さんの疑似科学批判批判批判批判、を読んでいて思ったあまり関係のない感想へのコメント。

これらの場合はニセ科学批判を普段行っている人たちが「多」側にいるわけですが、多人数がいろいろなことを言っていると読んでいて誰が何を言っていて結局どういう考え方なのか情報を整理できなくなってしまいます。私の読解力の問題でしょうが。

 多分そんなことではないと思う。既に、関連のエントリーを2つトラックバックさせていただいたが、kaqu11さんの読解力に問題があるのではなくて、実際にいろんな人がいろんな立場でやっていることを「ニセ科学批判」という同語反復でしかなく実体を伴わないもので括って議論すると、誰のどの話についての議論かがわからないために、「自分とは違う」と自覚した人達がめいめい議論に参加して説明したり反論したりする結果、話が発散しているだけでは。
 もっとはっきり言ってしまえば、Judgementさんが、TAKESANさんのエントリーとコメントを読んで問題があると思ったのなら、誰それのこの主張は違う、別の誰それのこの言い分は見当外れ、と、最初から個別具体的に撃ちまくってくれれば、問題がはっきりしたのだろうけど、それをさぼって「ニセ科学批判」という括りで話を済まそうとしたからいけないんじゃないか。
 私は今のところ、「ニセ科学批判」には実体が無く、現実に存在するのは個別のニセ科学についての議論があるだけだ、という立場である。
 「ニセ科学批判」で括ることに意味があると主張する人を頭から否定するつもりはないが、同語反復以上の意味内容を持たせた「ニセ科学批判」を定義するという手順を踏んでからにしてほしい。それは「ニセ科学批判」という括りを(批判のためにであっても)必要としている側の仕事だろう。
 科学っぽくて他人を騙す言説に注意喚起したいという立場のきくちさんや私や他の人々は、その批判のために「ニセ科学」という用語を作り、きちんと定義して意味を持たせた。定義の内容についても、この言葉を使いながら議論してブラッシュアップし、より精密にすることを試みた。
 一方、ここ2年位の間、「ニセ科学批判批判」側は批判のターゲットとして「ニセ科学批判」という言葉を使いながら、意味のある定義もせず、その括りで何が明らかになるかということもきちんと詰めてこなかった。未だに議論がまとまらないのは、批判対象である「ニセ科学批判」に対してろくな定義も意味づけもできなかった批判批判側に責任があるんじゃないの。

権威、社会規範についての補足

Posted on 5月 1st, 2009 in 倉庫 by apj

 poohさんの「権威の取扱い」への補足。
 ニセ科学を問題としているときに、ニセ科学を批判している側に向かって科学の権威性を持ち出すのは全くのナンセンスであるだけでなく、不公平でもある。なぜなら、科学に権威があると思い込みあるいは権威があることを前提として、それを積極的に利用したのはニセ科学の方だからである。
 科学の権威性を是として権威を騙ることも是とするならば、それはニセ科学を支持することに他ならない。
 科学の権威性を否としておいて権威を騙ることを是とするのなら、それはニセ科学を支持する上に自己矛盾だろう。
 科学の権威性を否としておいて権威を騙ることを否とするのなら、ニセ科学を支持する側とそれを批判する側を同時に等しく批判するのが筋であるから、ニセ科学を批判する側のみに向かって何かを主張するのは偏った態度であり、実りのある議論が成り立つことは期待できない。
 残りは、科学の権威性を是としておいて権威を騙ることを否とする立場だが、これはニセ科学の定義に「科学を装う」が入っているので、ニセ科学を問題とする立場と矛盾しない。ただし、科学の権威性の程度についての認識は、最も権威があると見做した場合でも「科学は自然を近似的に記述しているだけ」という限度にとどまる。
 科学の権威がむやみに使われることについて警戒する立場をとるのであれば、科学の権威を利用して他人を欺すニセ科学こそが警戒し批判すべき対象となるはずで、権威が伴っていることを理由として科学の側に注意喚起をするのはお門違いであるし、議論の立ち位置とも矛盾している。

 社会規範についての補足。
 社会規範には、法規範、道徳規範、宗教規範、慣習規範がある(「サイエンス・オブ・ロー事始め」)。法規範は社会において強制力を伴う。「道徳規範は、個人の倫理観や道徳観が社会一般に共通するものに高められ、自然に社会規範として定着してくるもの」「宗教規範は、ある宗教上の教義が特定の信者に地してだけでなく一定の社会や地域に普及し、これが社会規範として尊重されるもの」「慣習規範は、社会のなかで長年にわたり繰り返し守られてきたことが社会的ルールとして意識され、遵守されるもの」とされている。
 ニセ科学の「ニセ」であることを問題とする理由の1つに、「人を騙してはいけない」「不確かなことを言いふらしてはいけない」という社会規範がある。このことについて、道徳を押しつけるといった見当外れの意見が出てくるが、それは社会規範の意味を知らないことから生じている。
 社会規範とは、法規範も含めた、社会生活を送る上で守った方がスムーズにいくルールで、破ると一定のペナルティ(強制力のあるものから、クレームをつけられるといった強制力のないものまで)を科されるものである。
 普通に考えて、法規範と道徳規範と宗教規範と慣習規範が相互に逆のことを主張するというのは、原則として有り得ない。たとえば、社会規範と正面から衝突する特定宗教の教義は、社会で受け容れられることが無いばかりか、制裁の対象になる(多くのカルト宗教が引き起こした事件など)。例外としては、異なる道徳規範のどちを優先するかという問題が生じた場合に、矛盾が生じることはある。また、社会の変化に規範の変化が追いついていない場合には不合理な結果になったり、一時的に矛盾したりすることが起こりうる。
 今のところ、法規範には、刑法や民法その他のに含まれている条文の内容(刑法の詐欺罪、名誉毀損の免責の条件となっている真実性や真実相当性、詐欺脅迫による意思表示の取消等々)や、信義誠実を要請していること(民訴法)などからみて「人を騙してはいけない」「不確かなことを言いふらしてはいけない」が、含まれていることは明らかである。裁判所で争われる場合も、法が含んでいるこれらの規範が道徳あるいは社会慣習に合わないという理由で、法の適用が問題になったりすることは起きていない。従って、法的ペナルティが科されない場合であっても守った方がよいこと、としてこれらの規範を位置づけるのは、強制でも押しつけでもない。既に我々の社会はこの立場をとっていると考えるしかない。
 逆に、社会規範にこれらの特定の規範が含まれていることを問題としたり、規範を押しつけるということを問題とするのなら、同時に法規範の一部も否定する立場を取っていることになる。このことを自覚されたい。
 慣習規範の性質から、ある規範が長年繰り返し守られなくなると、規範としての力は段々無くなっていくと考えるしかない。社会で規範として受け入れられていないものを法で強制するというのは無理があるから、行き着く先は、法規範まで含めてその規範が無くなるということになるのだろう。だから、本気でこれら2つの規範をなくすべきだと考えているのならば、今、道徳を押しつけるなという立場で否定するのも有りだが、そこまでの覚悟がないのにうわべで否定だけするのは、やはり思慮不足というものだろうし、無意味に社会を混乱させると非難されても仕方がないだろう。

そこまでいく前の話

Posted on 5月 1st, 2009 in 倉庫 by apj

 「不機嫌な茶飲み話:文脈」へのコメント。
(コメントの投稿の仕方がわからないので、ここに書いてトラックバックしておくことにする。向こうのコードがEUCだったので、こちらもそれに合わせてトラックバックしたら文字化けした。こちらでUTF-8を選ぶと大丈夫みたい。申し訳ありませんが1つ前のトラックバックは削除していただければと>kaqu11さん)

 apjさんの発言は、科学と宗教とを比較して「科学の限界の表明」をし、「科学の本質的な特徴」を説明したものだと読みましたが(鍵括弧内はTAKESANさんのエントリからの引用)、それは十分「科学とはなんぞや」という話につながっていく一般的な話ではないでしょうか。

 多分これは、「ヴィトンのバッグに置き換えろ」で書いたものが元ネタになったと思われるのだが、科学と宗教を比較したのは言及先のchnpkさんであって、私ではなかった。私は、科学についてのみ、限界があると主張しただけであって、宗教については何も述べていない。科学についての相当酷い誤解を解こうとしただけだった。
 私が「科学は自然の近似」とわざわざ言わなければならないのは、相手が「科学者は科学を真理だと思っている」とか「科学は真理だから云々(受け容れるor反発する)」と言い出した場合に限られている。大抵の場合、この手の誤解に続く主張はアサッテの方向にいってしまうからである。だから、まずその入り口を何とかしないと、本筋の話もできない。
 いまどき、科学哲学的な議論をしようとすれば、「科学=真理」という単純な主張は出発点にすらならないのでは。
 科学哲学の議論よりもはるか手前の誤解を解くための文言を、科学哲学の議論の出発点にするというのは、ナンセンスとは思わないけど荒っぽい議論にしかならないだろうなあとは思う。「科学とは何ぞや」という話がある程度精密に出来るような状況なら、「科学は自然の近似」なんてわざわざ言わなくても済むんじゃないかな。

 なお、「水からの伝言」を私が批判したときは、批判の相当初期の頃から、科学としては間違ってて道徳としても不適切な内容だからダメで国語も台無しにするからダメ、とやっていた。
 だから、

 基本的に。「水からの伝言」を科学的な観点から批判している人は、自分の発言を思わぬ文脈で読み取られて批判されたとしてもあまり文句は言えないと思うんですよね。

は、少なくとも私には当てはまらないはず。
 ごく初期の頃は、科学的に間違っているという理由のみで「水からの伝言」を批判していたけど、その頃は、「水からの伝言」は浄水器のインチキ検査法として使われていただけだったので、科学の議論だけで足りていた。

別の対策を強いられている件

Posted on 4月 30th, 2009 in 倉庫 by apj

 国立感染症研究所のページより。

「国立感染症研究所」を詐称したブタインフルエンザ関連メールにご注意ください

平成21年4月28日

ブタインフルエンザの流行に便乗して、「国立感染症研究所」を詐称したメールが送られているという情報が寄せられています。 当該メールは、yahooメールを使用しており、発信者欄には”国立感染症研究所 ”とあります。 発信元メールアドレスは、受信者のアドレスと同一である場合が多く、 明らかに発信者を詐称した不審なメールです。 メールには「ブタインフルエンザに関する知識.zip」等と題した添付ファイルが含まれています。 当方のウイルスチェックソフトウェアで、この添付ファイルが不正プログラム (ウイルス等)として認知されております。 添付ファイルを開くことで、メールを受けたパソコンへの不正侵入やシステム破壊のおそれがあり、 注意が必要です。 以下のような「詐称メール」を受信された方々におかれましては、添付ファイルを開かずにメールごと削除なさるようお願いいたします。

(中略)

添付ファイルは不正プログラムの可能性があり、警戒が必要です。
国立感染症研究所では、 メールはすべて “nih.go.jp” のドメインから発信することとしており、 yahooから発信されることはありません。 また、公的なお知らせはすべてWebサイト上に公開され、 メールを用いたサービスは行っておりません。

なお、国立感染症研究所では第三者中継(発信元を隠すために、関係のない第三者のサーバを中継して発信する)されないメールサーバの設定や、ウィルス感染メールを発信しないようウィルス対策をするなどセキュリティにも十分配慮しておりますが、引き続き対策を強化していく考えです。

 ヒトの感染症対策の研究をしてくれるところだと思っていたら、詐称メールによるコンピューターの感染症対策情報まで出すハメになってるとは。これからただでさえ忙しくなりそうな時に、中の人の仕事をこれ以上増やすなよな……。

不当表示・不実告知・ニセ科学

Posted on 4月 30th, 2009 in 倉庫 by apj

議論と考察のためのメモ。

○他人を騙すことに対する明文化されたペナルティ。はっきり嘘をつくことから、あいまいなことを確かであるように言いふらす、まで含まれている。
 刑法の詐欺罪、民法の意思表示を定めた部分、不法行為。取引に特化したものとしては景表法・特商法あたり。
○社会規範として「人を騙すな」があり、そのうちの一部を法で処理している。法にひかからない部分は放置ではなく、周囲の人に批判されるとか信用されなくなるといった法によらないペナルティでもって規律する(しかない)。法によるよりはゆるやかな規律である。
○一般論として、社会を規律するやり方は法だけではないが、そうでないものも連続的に法につながっている。
○社会法的制約でもって、私権を制限するのが現代法の流れである。弱肉強食にならないため、秩序維持のため。
○法の領域のむやみな拡張は弊害が大きい。合理的かつ必要な範囲でのみ法で規律する。
○特商法・景表法では、ある特定の商品の表示(宣伝)について、表示通りの効果があることの根拠が無かった場合にペナルティを与える。
○現実に取締が行われるのは、不当表示や不実告知のうちのごく一部である。特に悪質なものとか目立つものとか。全てが処罰されるわけではないし、そうするだけのリソースも社会には無い。
○個別の表示に実態が伴わない場合で、表示が消費者にとってその製品を選ぶ動機となる場合に規制がかかる。このときの理由は、ニセ科学だからという理由ではない。
○不当表示や不実告知の個別の判断をするときの運用指針は、現状の科学技術の存在をあきらかに前提とし、基準として用いている。
○表示がニセ科学であった場合、ほとんどの場合、表示を裏付ける事実はないと推定することができる(∵科学の精度がそれなりに高いから)。しかし、表示が客観的にニセ科学であるということを直接の理由とする形での法規制は行われていない。
○ニセ科学であることの立証が、取締に利用できる(利用された)場合もある。
○「ニセ科学」で括ると、法規制にはひっかからないが(法規制のハードルを越えていない・まだそこまで目立っていないなど)裏付けのない表示を行っているものを、それなりの精度で拾い出すことができる。
○法規制ではないので、「ニセ科学」であるという指摘を行うことには、何ら強制力はない。評判が落ちるとか警戒されるといった、ゆるやかなペナルティでしかない。
○強制力はないので、情報を共有してお互い気を付けましょう、似た物にも注意しましょう、間違いを広めないようにしましょう、といった、個人で対応できる範囲以上のものは出てこない。ただ、そういう意見が増えると、結果的に嘘をつきにくい社会になるかもしれない。(疑う姿勢を身に付けよう、というきくちさんの意見はこのあたりにつながってくるのだろう。)
○科学として正しいかどうか、という基準を一律に適用することは、法規制にはなじまない。法はあくまでも個別の宣伝の個別の文言について判断するという形にしかならない。∵文言を特定しないと裁判で争えない。取り締まりの行き着く先は裁判所で決着、がこの社会におけるルールである。
○裏付けのない表示を推定し、情報を共有して注意喚起することができれば、法の適用に到達する(=それなりの被害が発生する)前に被害を防ぐことができるかもしれない。
○「ニセ科学」であるということを指摘しなければならない対象の多くは、違法とされるものを取り巻いている。このため、実際に判定をした場合、それなりにはっきりニセとわかるものが多くなる。批判しやすいものだけ批判しているという意見は誤解で、たまたまターゲットの多くが明白に違法となるものの周りに分布しているから結果としてそうなるだけ。
○ニセ科学判定のグレーゾーン問題は、科学非科学のグレーゾーン問題とはほとんど関係がない。偽っていることがどれだけ明白かによって決まる。科学の方がグレーゾーンなのに「白です」「黒です」と言い張ったりするとニセ科学、科学で白なのにグレーですと言い張ってもニセ科学。表示と実態の乖離を問題にする不当表示や不実告知と同じ構造になっている。
○ニセ科学を問題にするということは、法規制には到達していない或いは法規制になじまない部分について、単に指摘や議論をすることで対応しようということでもあるので、ニセかどうかわからんような曖昧なものを無理に判断してニセとしてしまうことは、間違った情報を広めてしまうことになり、それ自体が「ニセ科学」の定義が前提としている規範にひっかかる。これによって、ニセ科学として問題にする対象がむやみに広がることに歯止めをかけている。
○産地はこう表示せよ、とか、耐震基準はこうだ、という法規制はあるが、科学的な基準はこうだ(或いは、科学についてはこう表示せよ)、という法規制はない(そんなものがもしあったら、越境もいいところだ)。科学の側からニセ物が広がらないようにするには、広く議論するしかない。ニセ物のうちの一部が不当表示や不実告知の要件を満たして法規制にひっかかる。
○社会規範を他人に強制するなといった議論は認識不足。「ニセ科学」の議論は、既に法に抵触しているものから、一歩踏み越えたら違法(現実の強制執行があることまで考えなければならないもの)というもの、直ぐには違法じゃないけどやっぱり誰かを騙してるよね、というあたりのものまでを含めて扱っている。
○「ニセ科学」の議論は、科学そのものの議論じゃなくて、科学が社会で使われる場合の議論。だから社会法学とは馴染みやすいが、科学哲学とは馴染まない(多分)。

※法律は代表的だと思ったものを例示した。バイブル本を取り締まる健康増進法は省いた。今後の立法で他にも出てくるかもしれない。
※ニセ科学の判定問題は、科学哲学とはかけ離れた、もっとテクニカルな問題になりそうだという感触を私は得ている。
※「ニセ科学」の社会規範についての議論をする場合は、現行法の立法趣旨あたり(つまりそれなりに社会の基準となっていて運用実績もあるもの)から出発すればよい。倫理のもっと深い議論はそっちの専門家に任せた方が、当面は余計なことに力を注がなくても済む。
※エントリーのタイトル通り、不当表示・不実告知・ニセ科学は、ほぼ並置されるものだというのが私の認識である。科学の表示は社会においてこうあるべき、といった法がない(法規制になじまない)から、景表法や特商法に相当するものが、科学限定では存在しないというだけ。表示と実態の乖離を問題にするという括りをすると、並んでしまう。
※この先「ニセ科学」の定義がどうなるかは私にもわからないが、どう変わろうと、上で列挙した内容は含んだ状態で、かつそれを拡張したものになっててくれないと使えないものになることは確かだろう。消費生活センターに持ち込まれるようなネタは将来にわたってカバーできるようになってないと使えない。科学哲学の方からあれこれ議論するのは自由だけど、その結果、もし使えない結論や現実と乖離した結論が出てきた場合には、その結論は捨てるしかない。
※私の立場に割と近いかもしれないのが技術開発者さんかも。きくちさんはこの手の議論はほとんどしていないはず。多分、現実の悪徳商法に向き合った経験があるかどうかの違いが出てるのかもしれない。

何か微妙に違う気がするので

Posted on 4月 29th, 2009 in 倉庫 by apj

 あらきけいすけさんの「「ニセ科学批判」批判のための覚書2、あるいはボクが「杜撰」と言ったわけ」について。
 「科学は自然の近似である」という主張についての議論。

科学をメタレベルから論じるときには語の用い方にもう少し慎重さがあっていい。

 科学をメタレベルから論じるための主張じゃなくて、「科学的じゃないからダメ」「科学だって書き換ってきたんだから、今の科学が真理とは言えないはず。だからこの(どう見てもインチキな)説だって今後科学的に正しいとされるかもしれない」「科学者は科学だけを絶対の真理だと思っている」といった言説へのカウンターとして、現実はこんなもんだということを説明しているのだから、そう突っ込まれても何とも言えない。「科学をメタレベルで論じる」ということが可能になるのは、「科学=真理」という思い込みを突き崩した後の話じゃないのかな。「科学は自然の近似である」がいささか荒っぽいのは認めるけど、これをわざわざ言わなければならない場面は、科学哲学として科学を論じるというのとはほど遠い状態なんだよなぁ。

もし「科学は自然を近似的に記述する」と書かれていたら、このセクションは無かったかもしれない。

 この表現が良ければそれでも置き換え可能だからかまわない。もう少し言葉を増やして「今の科学の成果は自然を近似的に記述したもので、それなりの精度がある」といった言い方でも別に問題はない。

この文章では「(近似された)自然」とは「科学が記述した対象」のことだよね。つまり論理的には科学的に扱ったものだけがここでの「自然」。
え?それって変、というか論理的にエラー。この文の範囲内でも「自然」の語は「科学が記述した対象」よりは広い範囲の対象を指しているはずだ。

 広い範囲の「自然」は存在していて、その中にはまだ科学が記述してないものもたくさん含まれている。「(近似された)自然」は、「自然」の一部分で、それが、これまでに科学が記述してきたものということだから、エラーでも矛盾でもない。この部分は、読んでいて、あらきけいすけさんが何を考えているのか全くわからなかった。

例えば「科学」を「ニセ科学」から区別する基準はこのステートメントからダイレクトには導けない。

 何を期待しているのかわからないけど、「ニセ科学」が「ニセ」である理由は、現状で(近似的に)得られている内容と大きく乖離した内容を根拠無しに述べているから、である。それなりの精度の高い記述方法が既にわかっているのに、著しく精度の悪い記述方法を持ってきて「こちらの方が精度が高い」などとやってるのがニセ科学なので、現実に得られている精度と、主張内容が持っている精度の違いから基準を導けば良いのではないか。もちろん、精度の差が連続分布(?)していたら、線引きはやっぱり難しいだろうけど、この線引き問題は、いわゆる従来の線引き問題とは違う種類ものじゃないかな。

だからボクは「間違っている」とは言わない。むしろ日常の感覚としては「正しい」。でも理解を深める役に立つとはとうてい思えないし、このステートメントのままでは応用も利かない。「ニセ科学」と戦う武器にならないのだ。

 ニセ科学かどうかは、主張と現実の間の乖離があるかどうかで決まるし、乖離の程度でどれだけニセかも決まる。科学の成果が自然を近似的に記述したものであれば、「今得られている科学の内容」と「そこから乖離した主張」の間で、自然を記述できる精度の違いを問題にすれば良いことになるので、それなりに使えるはずだけど。

 現状でそれなりの精度で記述できている部分について、著しく精度が悪い言説を、あたかも精度が高いように主張すると、ニセ科学だとはっきりわかる。科学の側が(科学哲学的にも)グレーゾーンで、精度がどれだけあるかはっきりしないものについて、精度が悪い乖離した主張が出された場合、びみょ~にニセというか、まあそんなにすっきりはっきりしないということになるだろう。科学の側がまだ精度を上げることができていない(グレーゾーン問題にひかかるようなものについて)すっきり精度よく記述できています、などとやった場合、やっぱりそれはニセ科学と判定することになる。

今回はかなり批判を遣り易い形で(たまたま lets_skeptic さんの)意見が出てきたんだけど、こんなことの積み重ねが「悪い印象」を与えてきたかもってことは、真剣に再検討してもいいんじゃないかな。

 「科学は真理だから」と非科学言説をやみくもに攻撃したり、「科学は真理だから」を勝手に想定してそれにむやみに反発したり科学に不信感を持ったりするよりは、「近似だ」と言ったことで起きる不利益の方がまだマシなんじゃないか。

 また、上で書いたびみょ~にニセのケースを無理に判定しようとすると、多分混乱するだけで、得られるものはない。むしろニセ科学かどうかを判定すべきじゃないんじゃないかな。間違える可能性が高そうだし。
 精度の問題にしておくと、判定しない方が良いものを判定してしまうという失敗を避けられるし、グレーゾーン問題に引きずり込まれて、実際に発生するニセ科学の被害と切り離されることも減らせるんじゃないか。

 あと、あらきけいすけさんが問題にしたlets_skepticさんの2009年4月24日 (金) 09:30のコメントを私がスルーした理由は、科学哲学の問題としてこの問題を考えるつもりが最初から無かったからである。だから、一緒になって科学哲学批判をやろうともせず放置しておいた。なお、私のコメントは、私の立場の表明や背景の説明だったり、現実に何が可能であるかを述べただけであって、科学哲学についての議論はしていない。

 なお、ニセ科学に関する議論は科学哲学からは当面は切り離しておいた方が良さそうに思う。定義を試みたら、科学哲学じゃなくて社会規範とか法学が混じってきそうだという理解に至ったし、ニセの程度は現状の科学の状況とニセ科学言説の内容の間の乖離の程度で判定すればよさそうだし。科学の現状の方がグレーゾーン問題も含めて将来どうなるかは、今やった方がいい判定とはさしあたり関係が無さそうだし。