Judgement さんの「UNDERSTAND」に書かれた問いへの、私なりの答えを書いておく。
「ニセ科学批判」という事があって、それに従ってそれがされているのではなく、『「ニセ科学」の概念を知った人が、個々人のポリシーで活動しているにすぎない』と言いたいんだと理解したのだけど、どうでしょう?
私はそのように理解している。ただ、相互の議論や情報交換はあるし、他人の論じ方を見て取り入れる、といったことがなされたりもしている。「これは自分が構築した論だから他人は無断で使うな」などとケチなことを言い出す人は居ないようである。
そういう意味では、私が以前やった「カイロプラクティック批判」も“集まりが悪かっただけ”で、同じ枠に入れられるものなのかな?
科学を装うが科学でない部分への言及があれば、「ニセ科学」を問題にした人、という枠には入るだろう。
「ニセ科学批判」なんてものは実体が無いものだから、ニセ科学批判批判とかにも気を取られず(まぁ、たしなめるぐらいはするけど)、めいめい自分で考える「ニセ科学対策」を実施してればいいんじゃない、という話であれば、私としても魅力を感じる。
魅力のところは個人の判断なので何とも言えないが、めいめい自分で考えつつ、情報交換もしつつ、できることをするしかないんじゃないか、とは思っている。
うーん、『「ニセ科学批判」という括り』を否定的に捉えるその理屈の上で、『「ニセ科学」という括り』を肯定できるのだろうか、と考えるとモヤモヤする。
個別の「ニセ科学」だって、別に「ニセ科学としてみんなでやっていこう」としてやっているのではないでしょ。
動機も、目的も、様態も様々な営利・非営利活動などの中から、ある条件に当てはまるものを便宜上「ニセ科学」と“括って”扱っているんじゃないのかな?
そして、例えば「水伝」等個別のものとして語られる事も当然あるけれど、「ニセ科学というもの」という括りの上でも「議論や考察の対象」にしていたりしますよね。
逆に言えば、自分が「ニセ科学」という括りを活用するのと、「ニセ科学批判批判者」が「ニセ科学批判」という括りを活用するのでは、何がどう違うのだろう?
「ニセ科学」の意味は、最初にきくちさんが「科学を装うが科学ではない」と端的に述べた。これだけだと、何かの判定基準に使うには精度が悪いと思ったので、私は、旧blogでもう少し精度を高めることを考えた。それが、「ニセ科学の定義と判定について考える」である。最初の方に、ニセ科学批判という言葉を使っている。これを書いた時は、個別のニセ科学を批判することについて、「科学的な議論なのかそれとも科学じゃない議論を混ぜているのか」「科学でないことまで批判にまぜるのはどうなんだ」といった混乱があったので、「ニセ科学」の定義が、異なる二つのやり方でニセ科学かどうかを判定する構造になっているということをはっきりさせておく必要があった。
「ニセ科学」という言葉が知られるにつれて、メタな「ニセ科学批判批判」があちこちで出てきた。私もあちこちのblogで議論に参加した。このときの議論の共通点は「ニセ科学批判批判が対象にしているのは、誰の何に対する批判のどの部分かをまず示せ」というものであった。これをきちんと実行しなければ「ニセ科学批判批判」は何を言いたいのかわからない状態にとどまるし、実行した途端、メタな「ニセ科学批判批判」は個別の批判の問題点の指摘に変わってしまう。つまり、個別の「水伝批判批判」「マイナスイオン批判批判」等々でしかなくなる。
ネットの議論を全部見たわけではないのだけど、「ニセ科学批判批判」側が、「ニセ科学批判」の有効な定義を出せたかというと、今に至るまで出せていないというのが私の理解である。「ニセ科学」に対して何らかの批判をすること、という、同語反復なら誰にでも言えるので、これを越えた内容を含んだ定義があるかどうかを問題にしている。
では、「ニセ科学批判」側が「ニセ科学批判」を定義できたかというと、それも無かったというのが私の理解である。「ニセ科学批判」側も、「ニセ科学」を批判すること、という同語反復以上のものを出せていない。
【追記】
実体があるのは、あくまでも、個別のニセ科学に対する個別の議論であって、「ニセ科学批判」ではない。
一方、「ニセ科学」は違う。これまで批判の対象となってきた非合理である「擬似科学」「病的科学」「オカルト」「非科学」「陰謀論」等々と、重なる部分があるにしても、これらとは区別された新しい括り方である。「擬似科学」が比較的近いが、「擬似科学」には、「積極的に科学を装う(それも多くは他人を欺す目的で)」という意味合いが十分に含まれていない上に、科学哲学の論争がくっついている。「ニセ科学」はもう少し実用的な定義になっているし、科学哲学の枠組み内だけでは終わらない、社会規範まで含んだ内容になっている。
新しい言葉で何かを表すことに意味があるのは、その言葉で表されたものが従来にないものを含んでいるとか、その言葉で表すことでものごとの整理がついて理解しやすくなったりする場合である。「ニセ科学」は、これまでに批判されてきた非合理のカテゴリーを新たに定めるという意味がある。
しかし、「ニセ科学批判」には、今に至るまで新しい意味が見いだせていない。具体性を欠いた「ニセ科学批判批判」があちこちで行われ、その議論の結果何かの理解が深まるということも無かった。
これだけなら、「ニセ科学批判批判」側の勘違いに対して、個別に突っ込みを入れていれば済んだ。
ところが、mzsmsさんの「擬似科学批判・批判」が出てきて、TAKESANさんのところで「不明確」というエントリーとして取り上げられ、Judgementさんの「イノセント」につながっていった。
正直なところ、私も、自分の所でコメントしたしTAKESANさんのところにも少し書きにいったのだけど、書きながら何かがおかしいという引っかかりを感じていた。
mzsmsさんの方にも整理できていない部分があった。科学哲学としての「擬似科学」を話題にするつもりなら、「ネット上で見かける」とやったのはちょっと危ないし、kikulogを例に出したら「それは違う」と言われても仕方がない。それでも、mzsmsさんがセクショナリズムだと言ったとき、私はそういうとらえ方も有りだろうと思った。言葉のネガティブイメージに引きずられて議論が難しくなることがあるにしても。
もし、mzsmsさんが、「「ニセ科学」の定義はセクショナリズムだ」と書いていたら、議論の展開は随分と違ったものになっただろうし、得るものもあっただろうと思う。しかし、はてブあたりで出回っているキーワードは「ニセ科学批判」であり「ニセ科学批判批判」であり、「批判」の数が違うものだったりする。「ニセ科学」の定義の方は、私が出して、その後コメント欄で皆さんが補足したものでとりあえず足りているらしく、さらにブラッシュアップしようという話はなかなか出てこない。
まとめると、
(1)「ニセ科学批判批判」を自称する人達は、「ニセ科学批判」について、同語反復以上の定義ができていない。
(2)「ニセ科学」を問題だと思う人達も、「ニセ科学批判」について、同語反復以上の定義ができていない。
(3)「ニセ科学批判」という言葉で括ることで、何か新しいものが出てきたわけでも、何かの理解が進んだわけでもない。
(4)「ニセ科学批判批判」に対しては、毎回毎回「とりあげているニセ科学批判とは、誰の何に対する批判のことなのか」という確認が必要だった。
(5)「ニセ科学批判がセクショナリズムだ」という問題のとらえ方をするのなら、「ニセ科学批判」が同語反復でしかない以上、もともとの「ニセ科学」の定義がセクショナリズムと呼べるものを含んでいると考えるしかなく、ニセ科学の定義に関する議論として展開されるべきであった。ニセ科学への対策に直接役立たなかったとしても、定義の人文科学方面からの意味づけというのは、あって良いものである。しかしmzsmsさんの問題提起と、「ニセ科学」を問題にしてきた人達の反論の両方が「ニセ科学批判」という括りに引きずられてしまって、これまでのメタな「ニセ科学批判批判」への反論と同じパターンで展開してしまった。
ということになる。
これだけ揃うと、「ニセ科学批判」には最初から実体がなかった、と考えた方が妥当だという結論になる。(1)から(4)がここ3年くらい蓄積されてきたことで、(5)が先日の話だけど。
【追記】
実体があるのは、「ニセ科学」の定義にあてはまる個別の事例であり、その個別の事例に対する個別の議論である。
「ニセ科学批判」に実体がない(【追記】実体があるのは個別の議論の方である)ということをはっきりさせなければならないと私が考えた理由は、「ニセ科学」の定義の性質の問題として議論されるべきことまで、「ニセ科学批判」対「ニセ科学批判批判」という議論に引き込まれてしまうという弊害が出てきたからである。
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