「ニセ科学批判」の問題点
「ニセ科学批判」なる呼び方をすることに対する問題点について、引き続き考えてみる。こちらに言及してくださったpoohさんの「用語」へのコメントも含む。
「ニセ科学批判」に対する一般的な理解を求めるのはそもそも無理があるなぁ、とは以前から考えていたのだけれど(それでも「ニセ科学批判」と云う用語に思考がひきずられてそのあたりあいまいなままだったようにも思うけれど)、「ニセ科学」と云う概念とそれに対して批判すると云う行為(apjさんの列挙するうちの(1)個別の言説のどこがウソかを指摘して、みんなが読める状態にする。と云う部分)に対しての理解は求めたい、と云うのはあったり。
この部分は、「どんな社会に住みたいか」「そのためにはどんな社会規範が必要か」というところから立ち上げなければならない。
科学が関係しようがしまいが、健全な社会を維持するためには、
(1)ウソをついて人を欺してはいけない。欺して金儲けするのはもっといけない。
(2)はっきりしないことを確かなことのように言いふらしてはいけない。
(3)専門家(研究者だけじゃなくて事業者も消費者との関係では専門家になる)は専門家としてのレベルを満たしていないといけないし、期待される役割(専門性を正しく使う)を果たすべきである。
(4)(1)(2)(3)に反した人が、世の中で広く批判されたり非難されたりしても仕方がない。
といったものが、社会規範として効果を発揮してくれていないと困る。表現の仕方は他にもあるだろうけれど。
それぞれにあてはまる例は、別に科学じゃなくてもいくらでもある。詐欺をはたらくと(1)にあてはまるし、刑事罰もある。マルチ商法の勧誘のほとんどは(1)に違反している。(2)はデマを振りまいて批判されるケース。(3)は、不良品を作って売ってしまったら企業の責任が問われるというものになる。
おそらく、普通の人なら、ここに例示した規範が不要だとは考えないだろう。「そんなことはない、金儲けが正義だ」という人は、多分、既に悪徳商法や詐欺に手を染めている。
「個別の言説のどこがウソかを指摘して、みんなが読める状態にする。と云う部分)に対しての理解は求めたい」というのは、列挙した規範が機能していれば、ごく自然に理解される話である。それが理解されないのであれば、「こういう社会規範が無かったら困るよね」というところから話を始めないといけない。
「ニセ科学」の定義の「科学を装うが、科学でないもの」の前半部分の「装う」には、「ウソついちゃいかんよね」という社会規範がきっちり含まれている。
不幸なことに、「科学的」とか「科学」には、既に余分なイメージがくっついてしまっている。「科学でわかっていることだけで物事は解決しない」とか「科学的でないからそんなの却下」とか、とにかく「科学的」云々を巡って議論が始まった途端、この社会での話じゃなくて、どこか別の「科学ワールド」での閉じた話だと思ってしまう人が少なからず存在する。おそらく、これまでに、「科学」「非科学」「擬似科学」等々をめぐって、理解の浅い人同士の感情的対立みたいなものが積み重ねられてしまったからだろう。非科学を理由に対話もなしに一方的になじられるといったこともあったに違いない。「科学(教)信者」などという呼び方も、そういった対立から発生したのだろう。
このため、「ニセ科学批判」というものを出すと、言葉に引きずられて、捻れたツッコミが入ることになる。例えば、「ニセ科学の批判なのだから科学の範囲だけでやっていればいいのではないか」「個人でニセ科学言説を信じているだけのblogを批判するのは周囲が引くし反感を買う」といったものが出てきてしまう。「科学者は科学だけやってろ、社会のことにまで知ったふうな口を挟むな」というものもあったりする。
ニセ科学の定義が社会規範を含んでいる上に、「科学」の話を社会と切り離すことで個人の情緒を優先させたい(あるいはこれまでそうしてきた)という人達がいるわけだから、「ニセ科学批判」というエサをぶら下げたら、「個人をいじめるな」「空気を読め」という形での攻撃の対象になるのは、まあ当たり前ではあるし、「ニセ科学批判批判」が派生したのもわかる。
「ニセ科学批判」というときの”ニセ科学”は個別のニセ科学にマッチするワイルドカードのようなものであり、「ニセ科学批判」そのものに実体はない。個別の「マイナスイオン批判」「血液型性格診断批判」等々であれば、批判対象が特定されていて、何がどうウソかもはっきりわかるから、「情緒を優先させます」とやったとたんに「インチキの方を受け容れた」ということが自分にも他人にもあらわになってしまう。批判する側が何かを間違えた場合も、何をどう間違えたのかがはっきりわかる。一方、最初から実体のない「ニセ科学批判」であれば、批判批判側が好きなように設定していじくり回せるし、メタな議論もできる。しかし、実体のない「ニセ科学批判」について何をどう議論したところで、現実に起きている個別のニセ科学の被害を防ぐことには全く役立たないし、もう少し根本に立ち戻って社会規範をどう考えるのかという議論が深まることもない。批判の仕方についての議論が必要であったとしても、個別の批判について検討するのでないと意味がない。
結局、「ニセ科学批判批判」も含め、「ニセ科学批判」について議論することには何の意味もない。「ニセ科学批判」についての議論が出たときに、個別の議論でないと話が進まないと指摘し、わざわざ、個別の何とか批判にマッチさせた上で説明する手間をかけるのは、実は無駄なんじゃないか。
同意してくれる人がどれだけ居るかわからないが、「ニセ科学批判」には実体がないのだということを共通認識にしてもいいのではないか。それだけでも、使えないニセ科学批判批判は意味を失うし、真面目な批判対象として「ニセ科学批判」なるものが存在するというミスリーディングを防ぐことができる。
その上で、「どういう社会に住みたいですか」というところから問い直すというのはどうだろう。たとえばこんな具合に。
「ウソをつくのは良くないですよね。いつ誰にかつがれるかわからない社会じゃ、安心して過ごせませんよね。ニセ科学は、他人を欺すためのウソとして使われているから、ウソであることをはっきりさせた方がよろしいかと」
「あやふやなことを言いふらすと人心を惑わしますよね。この目的で使われたニセ科学は、これ以上惑わされる人が増えないように、何が本当かはっきりさせておきましょう」
「なぜニセ科学を取り上げるのかって?そりゃ、誰かの財布を狙ったり、誰かの権利を侵害したりするのに使われている上、ウソであることを示すのも比較的容易だからですよ」
「ニセ科学を個人で受け容れているblogを批判するのはいじめ?いやいや、ニセ科学の蔓延に手を貸すことは、結果として悪徳商法や詐欺の片棒を担ぐことになります。blogに何を書こうが個人の自由ですけど、加害者になることもあるのだという想像力も持っておいてくださいね。他人の尻馬にのったり、マスコミに踊らされたりして結果としてウソをつくと、いいことはないと思いますよ」
「科学者は批判なんかせず科学だけやってろ?ニセが蔓延すると、こっちが提供するホンモノも信じてもらえなくなるんですよ。誰かがニセをばらまいたりしなければ批判も不要なんですが。ということで、クレームは、ニセをばらまいてる方に言ってくださいね」
「誰かさんと一緒になってニセ科学を叩いている人達は野次馬?本当の野次馬はニセ科学をおもしろおかしく取り上げて普及に努めている人達の方ですよ。その結果社会がどうなるか何も考えていない無責任さときたら、ねぇ……」
「ウソも方便?いや、あなたのその場はそれでよくても、後で訂正するコストは誰が負担するんですか。ウソのまま終わるってわけにもいかないでしょう?」
……身も蓋もないな(汗)。
詐欺師と悪徳商法業者あたりを除けば、(1)~(4)程度の内容なら、他の主義主張を問わずに共有することは、不可能じゃないと思うのだけどね。
この方向に進むなら、科学哲学とは関わりを持ちそうにない。別にかまわないのだけど。むしろ、法哲学や法社会学と関わってきそうな気がする。どうなんだろう。