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被害発生が予見できる場合に対策が必要ということなのか

Posted on 4月 21st, 2009 in 倉庫 by apj

 ニセ科学として言説を取り上げる時に、どういう基準でやっているのかについてのメモ。
こういう基準で取り上げるべき、という議論につながるかもしれないので列挙してみる。

【被害発生の態様による分類】
・(財産被害型、不当表示型)宣伝通りの効果のないインチキ商品を買わされる場合
例:健康グッズ、浄水器関連、節電器その他のエコグッズなど
  永久機関モドキの装置(投資詐欺御用達物品)
  ホメオパシー
・(権利侵害型)権利侵害が行われたり差別が行われたりする場合
例:血液型性格診断(血液型による就職差別をもたらした)※1
・(公益侵害型)ひろく不利益をもたらす場合
例:ホメオパシー(予防接種拒否を言い出したりすると社会にとってまずい)
  EM菌(宣伝通りの効果が無いことがわかっている上、ばらまくと環境負荷が増える)

 「水からの伝言」は、上記の分類では問題の種類としては理科を教える一方で非科学を教育現場に持ち込むという公益侵害型と、浄水器のインチキ評価法に使われるという不当表示型の両方に該当する。道徳教育・国語教育としても問題だけど、それは上記の分類には含まれてこない。

 複数の被害を同時にもたらす場合もある。

 インチキ治療法(ガンに効く、などといって効果のない薬モドキを売りつけるなど)は、それが原因で治療が遅れると、個人にとっては財産侵害型(命を金に換算するのでこの分類には抵抗があるかもしれないが、損害賠償請求の根拠になるかどうかということを意識した分類なのでここに入れる)、社会で広まりすぎて公衆衛生上問題になると公益侵害型になる。

 七田式教育は……教育内容に客観的根拠を伴わないニューエイジ系ネタが含まれているので、不当表示型に分類。波動やテレパシーといったものを価値判断の基準が確立していない子どもに教えるという部分が、子どもに対する権利侵害となる可能性がある。

 逆に、被害発生が軽微なケースとしては、本人だけが私財を投じて永久機関など怪しい装置の開発や理論にはまっているけど、それを他人に売ったり出資者を集めたりはしていない場合なんてのがある。問題にしなきゃいけない必要はそんなに無さそう。

 「相対性理論は間違っている」「量子力学熱・統計力学は間違っている」系は……其の手の本の値段以上の被害はない。それを信じると相対論の正しい理解はできなくなるだろうけど、相対論を理解していない人は世の中にいっぱいいるし、それが社会生活上の不利益をもたらすとも思えない。相対論を理解してなかったためにインチキ商品を買いましたとか、差別を受けましたという展開も想定しがたい。直接インチキ商品の購入を促す「バイブル本」とは違う。

 霊験あらたかと称する壷を高額で売りつけてぼったくる、といった霊感商法は、悪徳商法・詐欺的商法の一種であり、ニセ科学による被害発生分類には入らない(ネタがオカルトなので)が、非合理に対する対策とか消費者保護といった別の枠組みでの対処になる。

 神社に初詣、といったものは、長い間に社会での位置づけが定まっている。初詣して交通安全のお札を貰ってきた帰り道で交通事故に遭ったからといって神社を訴える人は居ない。賽銭は任意だし、お守りその他の値段や販売形態を考慮すれば、効果の如何を問わず被害発生の実体がないし、因果関係のはっきりした効果を求める人も居ないだろう。ニセ科学の判定基準にも引っ掛かってこないし、非合理として取り上げる対象にもならない。

 被害発生が予見できるものを取り上げる理由について。
 被害発生が具体的に予見できるものは、ニセ科学として取り上げた場合に、どういう被害を防ぐことになるのかの説明ができる。被害発生が具体的でなくなるほど、「価値判断の問題」の論争になってしまいがちである。
 被害発生がはっきりしないような非合理まで、ニセ科学をとりあげる枠組みでどうにかすべきということについては、合意を得られないだろう。
 リストの方には明文で書かなかったが、被害発生との因果関係の立証をしやすいもの、というのが基準に含まれているかもしれない。ちょっと間接的になるが、因果関係の立証ができるということは、ニセをはっきり指摘できるものであるということでもある。これは、取り上げる側の訴訟リスクを減らす。

 こういう基準を出しておくことの意味。
 ネット等で議論するときの取り上げ方が恣意的だとか、一方的で不公平という言いがかりをつけられることを防ぐ。金に換算できる被害は積算可能である。不公平云々の議論は、被害金額に見合った取り上げ方かという議論に落とし込める。だから、不公平云々の裏側に「情緒」を隠しておくことができなくなる。

【追記】
 「ゲーム脳」は、公益侵害型かな。デマを振りまくことで他人の行動を変えよう、ということをしているので。

【追記】
※1 血液型性格診断は2つの問題を含んでいる。内容が間違っているにもかかわらず広く受け入れられて差別の原因となる、あるいは差別を助長しているということ。
 もう1つは、仮に内容が正しくても、遺伝的要因(だけでなく、本人の努力では対応できない要因)を理由として社会的差別をしてはいけないという別の規範があり、そちらにも抵触すること。こちらは、倫理や法学の方から論じなければならなないので、ニセ科学としての対策というよりは、より広い社会的差別対策の枠組みで捉える必要がある。

「ニセ科学批判」の問題点

Posted on 4月 21st, 2009 in 倉庫 by apj

 「ニセ科学批判」なる呼び方をすることに対する問題点について、引き続き考えてみる。こちらに言及してくださったpoohさんの「用語」へのコメントも含む。

「ニセ科学批判」に対する一般的な理解を求めるのはそもそも無理があるなぁ、とは以前から考えていたのだけれど(それでも「ニセ科学批判」と云う用語に思考がひきずられてそのあたりあいまいなままだったようにも思うけれど)、「ニセ科学」と云う概念とそれに対して批判すると云う行為(apjさんの列挙するうちの(1)個別の言説のどこがウソかを指摘して、みんなが読める状態にする。と云う部分)に対しての理解は求めたい、と云うのはあったり。

 この部分は、「どんな社会に住みたいか」「そのためにはどんな社会規範が必要か」というところから立ち上げなければならない。

 科学が関係しようがしまいが、健全な社会を維持するためには、
(1)ウソをついて人を欺してはいけない。欺して金儲けするのはもっといけない。
(2)はっきりしないことを確かなことのように言いふらしてはいけない。
(3)専門家(研究者だけじゃなくて事業者も消費者との関係では専門家になる)は専門家としてのレベルを満たしていないといけないし、期待される役割(専門性を正しく使う)を果たすべきである。
(4)(1)(2)(3)に反した人が、世の中で広く批判されたり非難されたりしても仕方がない。
といったものが、社会規範として効果を発揮してくれていないと困る。表現の仕方は他にもあるだろうけれど。
 それぞれにあてはまる例は、別に科学じゃなくてもいくらでもある。詐欺をはたらくと(1)にあてはまるし、刑事罰もある。マルチ商法の勧誘のほとんどは(1)に違反している。(2)はデマを振りまいて批判されるケース。(3)は、不良品を作って売ってしまったら企業の責任が問われるというものになる。
 おそらく、普通の人なら、ここに例示した規範が不要だとは考えないだろう。「そんなことはない、金儲けが正義だ」という人は、多分、既に悪徳商法や詐欺に手を染めている。

 「個別の言説のどこがウソかを指摘して、みんなが読める状態にする。と云う部分)に対しての理解は求めたい」というのは、列挙した規範が機能していれば、ごく自然に理解される話である。それが理解されないのであれば、「こういう社会規範が無かったら困るよね」というところから話を始めないといけない。

 「ニセ科学」の定義の「科学を装うが、科学でないもの」の前半部分の「装う」には、「ウソついちゃいかんよね」という社会規範がきっちり含まれている。

 不幸なことに、「科学的」とか「科学」には、既に余分なイメージがくっついてしまっている。「科学でわかっていることだけで物事は解決しない」とか「科学的でないからそんなの却下」とか、とにかく「科学的」云々を巡って議論が始まった途端、この社会での話じゃなくて、どこか別の「科学ワールド」での閉じた話だと思ってしまう人が少なからず存在する。おそらく、これまでに、「科学」「非科学」「擬似科学」等々をめぐって、理解の浅い人同士の感情的対立みたいなものが積み重ねられてしまったからだろう。非科学を理由に対話もなしに一方的になじられるといったこともあったに違いない。「科学(教)信者」などという呼び方も、そういった対立から発生したのだろう。
 このため、「ニセ科学批判」というものを出すと、言葉に引きずられて、捻れたツッコミが入ることになる。例えば、「ニセ科学の批判なのだから科学の範囲だけでやっていればいいのではないか」「個人でニセ科学言説を信じているだけのblogを批判するのは周囲が引くし反感を買う」といったものが出てきてしまう。「科学者は科学だけやってろ、社会のことにまで知ったふうな口を挟むな」というものもあったりする。
 ニセ科学の定義が社会規範を含んでいる上に、「科学」の話を社会と切り離すことで個人の情緒を優先させたい(あるいはこれまでそうしてきた)という人達がいるわけだから、「ニセ科学批判」というエサをぶら下げたら、「個人をいじめるな」「空気を読め」という形での攻撃の対象になるのは、まあ当たり前ではあるし、「ニセ科学批判批判」が派生したのもわかる。
 「ニセ科学批判」というときの”ニセ科学”は個別のニセ科学にマッチするワイルドカードのようなものであり、「ニセ科学批判」そのものに実体はない。個別の「マイナスイオン批判」「血液型性格診断批判」等々であれば、批判対象が特定されていて、何がどうウソかもはっきりわかるから、「情緒を優先させます」とやったとたんに「インチキの方を受け容れた」ということが自分にも他人にもあらわになってしまう。批判する側が何かを間違えた場合も、何をどう間違えたのかがはっきりわかる。一方、最初から実体のない「ニセ科学批判」であれば、批判批判側が好きなように設定していじくり回せるし、メタな議論もできる。しかし、実体のない「ニセ科学批判」について何をどう議論したところで、現実に起きている個別のニセ科学の被害を防ぐことには全く役立たないし、もう少し根本に立ち戻って社会規範をどう考えるのかという議論が深まることもない。批判の仕方についての議論が必要であったとしても、個別の批判について検討するのでないと意味がない。
 結局、「ニセ科学批判批判」も含め、「ニセ科学批判」について議論することには何の意味もない。「ニセ科学批判」についての議論が出たときに、個別の議論でないと話が進まないと指摘し、わざわざ、個別の何とか批判にマッチさせた上で説明する手間をかけるのは、実は無駄なんじゃないか。

 同意してくれる人がどれだけ居るかわからないが、「ニセ科学批判」には実体がないのだということを共通認識にしてもいいのではないか。それだけでも、使えないニセ科学批判批判は意味を失うし、真面目な批判対象として「ニセ科学批判」なるものが存在するというミスリーディングを防ぐことができる。

 その上で、「どういう社会に住みたいですか」というところから問い直すというのはどうだろう。たとえばこんな具合に。

「ウソをつくのは良くないですよね。いつ誰にかつがれるかわからない社会じゃ、安心して過ごせませんよね。ニセ科学は、他人を欺すためのウソとして使われているから、ウソであることをはっきりさせた方がよろしいかと」
「あやふやなことを言いふらすと人心を惑わしますよね。この目的で使われたニセ科学は、これ以上惑わされる人が増えないように、何が本当かはっきりさせておきましょう」
「なぜニセ科学を取り上げるのかって?そりゃ、誰かの財布を狙ったり、誰かの権利を侵害したりするのに使われている上、ウソであることを示すのも比較的容易だからですよ」
「ニセ科学を個人で受け容れているblogを批判するのはいじめ?いやいや、ニセ科学の蔓延に手を貸すことは、結果として悪徳商法や詐欺の片棒を担ぐことになります。blogに何を書こうが個人の自由ですけど、加害者になることもあるのだという想像力も持っておいてくださいね。他人の尻馬にのったり、マスコミに踊らされたりして結果としてウソをつくと、いいことはないと思いますよ」
「科学者は批判なんかせず科学だけやってろ?ニセが蔓延すると、こっちが提供するホンモノも信じてもらえなくなるんですよ。誰かがニセをばらまいたりしなければ批判も不要なんですが。ということで、クレームは、ニセをばらまいてる方に言ってくださいね」
「誰かさんと一緒になってニセ科学を叩いている人達は野次馬?本当の野次馬はニセ科学をおもしろおかしく取り上げて普及に努めている人達の方ですよ。その結果社会がどうなるか何も考えていない無責任さときたら、ねぇ……」
「ウソも方便?いや、あなたのその場はそれでよくても、後で訂正するコストは誰が負担するんですか。ウソのまま終わるってわけにもいかないでしょう?」

 ……身も蓋もないな(汗)。

 詐欺師と悪徳商法業者あたりを除けば、(1)~(4)程度の内容なら、他の主義主張を問わずに共有することは、不可能じゃないと思うのだけどね。

 この方向に進むなら、科学哲学とは関わりを持ちそうにない。別にかまわないのだけど。むしろ、法哲学や法社会学と関わってきそうな気がする。どうなんだろう。

「ニセ科学批判」はワイルドカード入りだし、「ニセ科学(蔓延防止)対策」の1つの手段である

Posted on 4月 20th, 2009 in 倉庫 by apj

 週末あたりから、Judgementさんのところでいろいろ書きながら考えて、私なりに整理したことのまとめ。
Judgementさんの新エントリー「こんな説明ではいかが?」へのコメントも兼ねている。

 まず、科学を装うが科学でない、という「ニセ科学」の定義は今のままで大体良いだろう。これは以前に私も議論した(今はここに置いている)。

 しかし「ニセ科学批判」という用語は使い方に注意が必要なのだろう。私も旧blogで最初に「ニセ科学批判」という言葉を使った時は、先にどっかで誰かが「ニセ科学批判者」といった呼び方をしていたことに引きずられ、それでもこういう括りは無理だよなあ、と思いつつ使った記憶がある。きくちさんが言い出したのは「ニセ科学」だし、私が賛同して使うことにしたのも「ニセ科学」であって、「ニセ科学批判」「ニセ科学批判者」じゃなかった。

 その時は、単に、個別のニセ科学に対する議論を一括りにはできないから「ニセ科学批判」という単語で括ってもあまり意味が無いんじゃないかと考えていた。今でもこれは変わっていない。その後、あちこちで「ニセ科学批判」という言葉が使われて、「ニセ科学批判批判」という言葉が派生し、すっかり定着してしまった。私自身も、このようなキーワードを使っていろいろ書いたり議論したりして、定着に一役買ってしまった。ただ、これはまずかったのではないかと考えている。

 結局、やりたいこと(やらなくちゃいけないこと?)は「ニセ科学を批判すること」ではなくて「ニセ科学が世の中に蔓延するのを防ぐこと」である。つまり「ニセ科学蔓延防止対策」、短縮するなら「ニセ科学対策」。

 どうして特定の主張が広まることに対策が必要なのかを説明しようとすると、その主張のウソをウソだと指摘しなければならなくなるから、ニセ科学対策をする際には批判が伴うことがほとんど、ということになる。批判を伴うことがほぼ必然だから「ニセ科学批判」という呼び方が出てきたのだろう。

 では、ニセ科学が蔓延している状態とは何かというと、科学っぽい説明だけども実は根拠がない「マイナスイオン」「水からの伝言」「節電器」「血液型性格診断」等々の、個別の説に欺される人が増えて、実際に財産的被害や、もっと広い意味での権利侵害が発生している(あるいは、しつつある)という状態だろう。複数の種類のニセ科学言説が広く知られ、受け容れる人がそれなりの数居て被害が発生するという状態や、次々新手が出てきているといった状態も蔓延といえるだろう。

 ニセ科学が蔓延することに対して何らかのに対策をしようとした場合、
(1)個別の言説のどこがウソかを指摘して、みんなが読める状態にする。
   (blogでの個別の議論はこれに含まれる)
(2)景表法4条2項や特商法6条の2の運用ガイドラインに反している、つまり違法だという指摘をする(通報する、主務大臣申出なども含まれる)。全てのニセ科学に対して有効ではないが、財産的被害を発生させるものには使える。
(3)なぜ「ニセ科学」が蔓延するのかを考えて、個別にウソをウソと指摘する以外の対策がとれないかを考える。
といったことが考えられる。他にもあるかもしれない。
 一方、絶対とれない方法は
「ニセ科学言説が蔓延しないように世の中に出る前に事前チェックする」
ことである。国家権力をもってしても事前の検閲は禁止事項だからできない。つまり、ニセ科学蔓延対策をしようとすると、事が起きてから動くことになる。

 手軽にできるのが(1)であったので、(1)をやる人が増えた。その状態を観察して記録したのが「ニセ科学批判まとめ%作成中」(たかぎFさん)である。
 このタイトルの
「ニセ科学批判まとめ」
とは、
「マイナスイオン批判」「水伝批判」……「血液型性格診断批判」まとめ(新しいのが出てきたら「○○批判」を追加)、
という意味だろう。こんなもの、いちいち例示列挙していたらとんでもなく面倒くさい。いっそ「*批判まとめ」と正規表現(?)したくなるのだけど、「*」だと何にでもマッチするから「ニセ科学」と入れたのだろう。つまり、「ニセ科学批判」といったときの「ニセ科学」とは、ジャンルに制限をかけた一種のワイルドカードみたいなものである。だから、結局実体はなくて、個別の「マイナスイオン批判」「水伝批判」……「血液型性格診断批判」にマッチさせた後から話が始まる。何にマッチさせるかは、「ニセ科学」の定義とか判定基準に拠ることになる。
 ところが、「ニセ科学批判」という単語が一人歩きすると、それが限りなくワイルドカードに近いものだということが忘れ去られ、何か実体のあるものだと勘違いされてしまった挙げ句、「理解しなくてはいけないもの」と思われたり、「個別の議論だということにしておきたいのですね」などと突っ込まれたりする拗れが起きるようになってしまった。

ただ、私は「ニセ科学批判」は「ニセ科学批判を理解している人に分かりさえすればいい」事なのか?
 と考えた時、それではダメなんじゃないの、と思った。

 「ニセ科学批判を理解する」というのは、実体が無いものに対して無理矢理実体を拵え上げてメタな部分での話をすることになるので、分かる人にだけ分かる状態でも何も問題が無い。ニセ科学蔓延対策に役立つのは、「ニセ科学批判」に対する理解じゃなくて、「個別のニセ科学のどこがどうニセか→だからあなたは欺される」という説明であったり、「ニセ科学が蔓延する社会的背景は何か・どうすればその社会的背景を変えられるのか」(個別の事例を離れた原因と対策方法の探索)であって、「ニセ科学批判」という概念がみんなに理解されているかどうかなんてどうでもいい話である。というか、ワイルドカードを含んだ正規表現だけ取り出して理解を求めても意味がない。

 結局「ニセ科学批判」という括りが誤解の元なのではないか。批判する側の人に変な枠をはめ、議論や考察の対象としての「ニセ科学批判」があり得るという方向に、批判批判をしたい人をミスリーディングする結果になっている。

ここにはまず、一番最初の記事で述べた「批判する側が、都合よく批判したい対象だけを切り離せる線引きをしている」(ように見える)不公平感が(現状では)解消できていないという問題が有る。

 まず、誰が不公平感を抱くかで問題の種類が違ってくる。
 批判する側が不公平感を抱くのなら、そうじゃない批判をお前がやれ、で済む。あるいは、批判を公平にするために別ネタの批判をお前がやれ、ということになる。
 批判される側が不公平感を抱くのは仕方がない。先にニセ物を広めたお前が悪い、というだけの話である。ウソを指摘されたことに対する反感や不満から不公平だとだだをこねる場合も少なからずある。

 ニセ科学蔓延防止対策を、個人が手の届く範囲でやろうとすると、その第一歩は「自分が欺されないようにする」である。しかし、個人の注意力には限界があるし、得手不得手もあるし、個人の注意で足りているならそもそもニセ科学は蔓延しないだろう。そこで、次に「欺されそうなポイントをお互いに出し合って注意しましょう」ということになる。つまり、ご近所で「オレオレ詐欺が流行っているから注意しないといけないね」「隣町に泥棒が入ってまだ捕まってないから戸締まりに気を付けましょうね」「隣の市ではしつこい訪問販売対策を始めたからウチのところでも注意しなくては」といった情報を共有し合う延長上に、ニセ科学に対する注意喚起もある。
 こう考えると、「批判したい側が批判したい対象だけを切り離せる線引きをしている」というのは的外れであることがわかる。善意で声を掛け合っている状態なのだから、目に付いたものや気付いたもの=批判しやすいものが取り上げられるのは当たり前である。防犯のために町内で声かけ運動をしているときに、「すべての犯罪について等しく注意喚起しないのは不公平」と主張するのはナンセンスだろう。

 また、「ニセ科学への批判のやり方」についての規範は無い(多分)という事も問題の原因となる。
 いわば、罪名と、犯罪の構成要件は書かれても、量刑が書かれていないようなもの。
 むしろ、「動機」の多様さを認めるその懐の深さにおいては、その副作用で、「処刑方法」の多様さも容認せねばならない状況になっている。

 ウソをウソと指摘する方法がいくつもあるのは当たり前だろう。1つしかないとか、1つに絞らなければならないと考える方がおかしい。多様な動機とパターンで出てくるウソを相手にしていて、被害の発生も多様なのだから、切り口は沢山あった方が良い。
 客観的にウソを示す方法をとった場合は、科学的な知識が要る。その分敷居が高い。科学の知識が不十分でも、相手の矛盾に気付けばウソだとわかるから、矛盾を示していくというやり方だって有効である。内容を理解しないままでも、急に出てきた新しいものはみんながどうするか見てから飛びつこう、という用心深さを発揮するという方法で欺されることを避けられる。いろんなパターンの議論があって、その中から、各自、わかるものを選んで考える手掛かりにすればよい。

 そしてその対応についても、ついつい自らが慣れ親しんだ批判方法に流れてしまい、「批判に対する批判」という新たな状況に対応しきれていないのではないか?

 じゃなくて「ニセ科学批判」という単語そのものが、個別のものとマッチさせる前のただのワイルドカードだということを、批判する側も批判批判をする側も忘れてしまい、双方が実体のないものをあると勘違いしているから混乱しているのではないだろうか。
 もっとはっきり言えば、慣れ親しんだ批判方法というのは、「ある」ものを前提にしての批判(科学的根拠があるとか、実験で示されているとか)なのだけど、慣れ親しんでいない批判とは、うっかり生み出してしまった「実体のないない」もの(=「ニセ科学批判」)に対する批判に対応するということになる。だから、Judgementさんの問題のとらえ方自体が間違っているのだろうというのが私の意見である。

【追記】

 また、「ニセ科学批判」が、ニセ科学を批判する事を目的とするならば、「ニセ科学批判批判に対する対処」はその範疇に無いはずである。
 しかし、ニセ科学に対する態度と同様(もしくはそれ以上に)皆鋭敏に反応する。その有様が他者に与える印象の問題は先に述べたものと同様である。

 「ニセ科学批判」の実体がそもそも無いのだから、「ニセ科学批判批判」に対しては、「実体が無いものを批判している」とはっきり伝えないとまずい。印象以前に架空の議論でしかないので。おそらく便利だという理由で「ニセ科学批判」という括りを受け容れてしまったために、そうすることが難しくなっている。

【追記】
 「ニセ科学批判」という括り方に乗っかったのは批判側の戦術ミスだろう。実態のないものに対する「批判批判」を呼び込んでしまい、本筋であるはずのニセ科学蔓延対策には不必要な争いをすることになった。

【言及リンクのための追記】
疑似科学批判批判批判批判、を読んでいて思ったあまり関係のない感想へのコメントとしてトラックバックさせていただく。

ホームレスに強盗

Posted on 4月 19th, 2009 in 倉庫 by apj

 日刊スポーツの記事より。

ホームレスのテントに2人組の強盗
 18日午後11時20分ごろ、愛知県西尾市上町酉新開の橋の下にあったテントを物色していた2人組の男が、テントに戻ってきたホームレス男性(55)の手足をロープで縛り、男性が集めていた小型液晶テレビや腕時計など(計1000円相当)を奪って自転車で逃げた。

 男性は男らともみ合った際に首を絞められたが、けがはなかった。西尾署が強盗事件として捜査している。

 同署によると、2人とも30歳ぐらいで身長約160センチ。1人は黒っぽいジャンパーに紺のジーパン姿。言葉遣いから外国人とみられるという。(共同)

 [2009年4月19日11時12分]

 強盗側に葛藤が微塵も感じられないので文学にはなりそうにないけど、この記事を読んで「羅生門」を連想した。ちょっと前の感想文エントリーで、芥川龍之介を読んでもシチュエーションがピンとこないんじゃないか、ということを書いたけど、この記事の状況なら「世も末感」が伝わりやすいかも。

くだらん、現場に降りてこい

Posted on 4月 17th, 2009 in 倉庫 by apj

 「イノセント」への言及。
poohさんのところの「スタンス」のコメント欄経由。

「ニセ科学批判」は科学の世界の一部に居続けるつもりなのか、
それとも言論の世界に足を踏み込みたいのか?

 このレイヤーで話をしている限り、話がかみ合うことは無いだろう。「ニセ科学批判」は「現実の社会で行われる品質管理」だ。言論は手段に過ぎない。

現実的には、「ニセ科学批判」は既に足を踏み入れている。
問題は、それを自覚しているのか、それともうっかり内輪のラインを踏み外してしまっただけなのか、という事。

 うっかりも何も、私は裁判所で争うことになったし、左巻さんだって「訴えてやる」の脅しなんかしょっちゅうだったはず。科学の側からニセを否定する論文を書いた途端、名前を騙って実験機材を注文されるという、業務妨害を喰らった人だって知っている。

 その上で、方々のニセ科学批判側のblogに「謝罪表明」と称してTBを送り、この顛末の周知に励みます。
 これが、ニセ科学批判に対するどういう印象を生むかは想像が付くでしょう。

 きっと、ニセ科学批判側は慌てて、もう一度議論のテーブルにつくよう説得を始めるでしょうし、あるいは、そのあてつけがましい行為に対し遺憾の意を表明し始めるでしょう。

 それに引っ掛かる人はその程度の読解力だということだろう。「言論の世界」で生きるなら、無意味な謝罪をすると、謝罪した側のダメージの方が大きい。なお、私は以前、finalventさんと議論したとき、finalventさんの謝罪発言を明文で却下したことがある。この手のやり方に対しては「理解を深めるための議論に謝罪は不要であり、謝罪することは論者として不誠実」と、はっきり却下すれば済む。

 でも、言論の世界なら「言論の自由の侵害、言論統制」はかなり強力なネガティブカードです。
 それを押し付けられ、上手く対処できなければ「負け」。
 『ニセ科学批判』は“独裁的な恐るべき思想形態”のレッテルを貼られ、捨てられるハメになります。

 詐欺に引っ掛かって経済的に損害を被ることを防ぐ、という実用部分があるので、思想形態云々という議論は意味を持たない。現実に発生する損害を議論でごまかすのは無理なのでね。

【追記】
 言論統制や言論の自由の侵害など、そのへんのblogに書いているだけじゃ不可能なのは誰が考えてもわかること。そういう言いがかりを付ける人は、法的センスの無さを笑われて終わるので問題無い。

【追記その2】
 「ニセ科学批判」そのものにレッテルを貼る試みは多分失敗するだろう。現実に存在するものは、個別の「水伝批判」「マイナスイオン批判」といったものでしかない。そこから共通に括り出せるものを、さしあたり「ニセ科学批判」と呼んでいる。だから、「ニセ科学批判」にどういうネガティブイメージが貼られようが、個別の「水伝批判」「マイナスイオン批判」等々にはほとんど影響しない。逆に、「ニセ科学批判」にいかにポジティブイメージがあろうが、個別の「水伝批判」「マイナスイオン批判」等々の中身がお粗末だったら、その批判は力を持たないし、逆に批判に晒されて終わる。個別の議論に踏み込めば、「思想形態」などという抽象的な部分での評価は役立たない。

 でも、『ニセ科学批判』の皆さんが踏み入れようとしている世界は、そういうところなんです。
 ついでに言えば、ネガティブカードやポジティブカードの価値ははっきりは決まっていません。
 その価値もまた、いわば「舌先三寸」で変動するのです。

 「ニセ科学批判」という、個別の事例を離れた抽象的な、あるいはメタな部分のみで議論するという範囲に限れば、舌先三寸の世界になるかもしれない。が、個別の批判の価値や意義は、個別の事例をどう取り扱うかで決まるので、個別事例を離れた「ニセ科学批判」がイメージダウンしようが、あまり関係が無い。

おそらくは、菊池先生や天羽先生は、そういうドロドロした世界である事を熟知した上で足を踏み入れていると私は感じています(特に天羽先生は、この世で一番ドロドロした所にまで攻め込んでいる)。
 また、教育者ですから、「合理的に判断する事」と、「合理的な判断に価値が有る事を教える事」が全く違うのも分かっているでしょう。

 しかるに、どうでしょう?
 他の皆さんは、そんな自覚があるでしょうか?

 踏み込みの度合いに応じてそれぞれの人が覚悟を持っていればいいだけのこと。私はたまたま、社会できっちり争うところまでやっているけど、そうすることを、ニセ科学に批判的な意見を持つ人全員に求めるつもりはまったくない。また、若い人相手に話をするときは、「批判側に居ると提訴されて時間と金をかけなければならないリスクがあるから、経済的に耐えられるようになるまでは、やばいところまでは踏み込むな」と言っている。

 社会に何か「良くないこと」があったとして、良くないことを正面から解決しようとして紛争覚悟で行くのも1つの手だけど、「見て見ぬふりをしない」「小さい声でも、それは良くない、と言う」大勢の人達の存在は結構大事なのだ。そういう人達が大勢いれば、だんだん「良くないこと」をしづらくなる。そして、その方が、問題解決のコストは多分安い。

 進むも地獄、退くも地獄、こんな世界に足を踏み入れてた事、認識していましたか?

 勝手に問題設定をするな。
 見て見ぬ振りはしたくない、とか、小声しか出せない・出す勇気が無いけど抗議をしたい、という人に対して、行為と釣り合わない覚悟を求めても意味がない。

 「こんなスレまくった話、聞きたくもない」って思った人。
 そんなあなたは多分イノセントな人です。

 「そうだよね、そんな人いて実際困ってる」って思った人。
 そんなあなたも多分イノセントな人です。
 そういう人に限って、自分が見えてないものです。

 私にはJudgementさんの主張の方が、現実の社会を踏まえていないイノセントな発言に見えるのだけど。

【追記】
 最初の方に、言論は手段に過ぎない、と書いたけど、実際、言論だけで済むならその方が圧倒的に安上がりである。
 言論だけじゃ済まなかった神戸の裁判の例だとこんな感じ。実際に磁気活水器を購入し(19万8000円、師匠と折半)、通した水とそうでない水の表面張力や赤外吸収やラマン散乱を測定した(それぞれの測定器、数百万円から1千万円以上の値段)。実験のために、専門にやっている研究者やら院生やらが半日以上費やした。これ、裁判のうちで言論だけじゃなかった部分(作文した書証のやりとりを越えた部分)ね。これだけでもblogの維持費なんかより遙かにコストがかかっている。
 実験抜きで訴訟手続きを進めるのは、言論の世界っちゃー言論の世界だけど、blogであれこれ書いているだけよりは、圧倒的にコストもリスクも大きい。
 まあ、言論の世界だけを取り出して議論しようとするからおかしな話になるのだろう。ニセ科学に対する対抗策は、言論だけで閉じてはいない。言論で足りなきゃ手間とコストをかけて実証することになるのだけど、職業でやってる人以外はそこまではなかなかできないから(職業でやってたって不必要なリソースは投入したくないし)、言論で済む分は言論で済ませる方がいい。

【追記その3】
 TAKESANさんのところにもコメントしたのだけど、スポーツに例えると分かりやすいかも知れない。
 「スポーツをすることについて語り合いましょう」というエントリーとか掲示板スレがあって、みんな話題に参加しているのだけど、抽象的な概念である「スポーツ」をしている人は誰もいない。参加者は、それぞれ、野球とかテニスとかサッカーとかジョギングとか、その他たくさんある個別の種目のうちの1つ以上を楽しんでいる人達だ、という状況。
 個別の種目について、各自の練習法法や上達のコツについて語り合っている状態を指して「スポーツをすることを話題にしている」と言えるし、「スポーツ」という概念も確かにあるんだけど、でも実際には個別の種目の話だよ、という感じ。
 「ニセ科学批判が流行ってるよ」というのは多分「最近○○市ではスポーツが盛んだよ」というのと質的には同じなんだろう。詳しく聞いてみると「少年野球のチームの数が倍になった」「テニススクールの練習生が増えて前はがら空きだった市営コートはいつも満杯だ」「早朝ジョギングをしている人が増えている」といったことが起きていることがわかったりする。ニセ科学批判だと、「この三ヶ月で○○(個別のニセ科学)を取り上げる週刊誌が相次いだ」「はてブで目立つエントリーの半分位がニセ科学(のどれか)の話題だ」などということになるんだろう。

品質管理に哲学や思想性を求められても困る

Posted on 4月 17th, 2009 in 倉庫 by apj

 疑似科学批判批判批判批判への言及。
 poohさんのところでも「スタンス」というエントリーが上がっている。これ経由で少し考えてみた。

 言及先は、mzsmsの雑記「疑似科学批判・批判」をきっかけにして起きた議論について、mzsmsさんの立場からの意見である。

 mizusumashiさんの主張を端的に言えば、「ニセ科学批判は論理実証主義者に志の高さを感じる自分にとって物足りなく感じられる」という事を言っているだけだ(詳細は本文を読んでください)。

 それはわかるのだけど、論理実証主義と比べるような内容がニセ科学批判に含まれているか?というと多分無いだろう。ニセ科学批判は、科学の側からのちょっと広い意味での品質管理の1つだから。
 供給側(=科学者)以外がニセ科学批判をするケースについては、消費者側が生活の知恵として粗悪品に注意という情報を共有する活動をしている、というのと同じになる。以下、供給サイドについて書いたけど、消費者側が自発的に同じ行動をとることもあるので、それも含めてほしい。

 例えば、きちんと火をつけられるマッチと、ろくに火がつかない粗悪品のマッチが両方市場に出回っていたら、まともな製品を作っている企業は、粗悪品が出回っていることに対して何らかの対策をとるだろう。最後まで使えるエンピツと、使っていると芯が折れやすくて大部分が無駄になるエンピツの両方が市場に出回っていたら、いい製品を作っている側が、消費者に対して注意喚起をしたりするんじゃないかな。
 ニセ科学批判って、いい方の製品を作っている会社が、「業界団体を作って品質向上に努め、業界として品質検査の基準を決め、検査に合格した品質保証のある製品にはこのマークやシールを貼ることにしました」とか「よく似た粗悪品に注意!ココが違います」といった宣伝をするのと同じ事をしているだけだろう。そういう行為って、かなり実用的なところから出てきたもので、そもそも論理実証主義者の主張や姿勢と比較する対象になるとは思えないのだけど。

 「ニセ科学批判」という先鋭的な概念に、あえて古典のような「論理実証主義者」を比較し、しかも「論理実証主義者」が勝っている、と評価するのは非常に面白い観点だし、話の組み立ても筋が通っていると思う。

 そんな比較が成立可能な内容がニセ科学批判に含まれていたっけか?と、ポカーンなんだけど。TQCに取り組んでたら、論理実証主義者と比べて劣っている、と批判されたというか。
 粗悪品が出回ってて放置しておくと業界の信用が落ちそうだから何とかしましょう、ってな話は、尖鋭でも何でもない、昔からあった話ではないかと。たまたま、「商品」の内容が科学だから目新しいというだけであって。

 「排斥しようとしている側が、排斥の対象を決める線を自分で引いている」と言うのは一つの事実であり、それをしてmizusumashiさんのように「セクショナリズム」を感じる人がいて当然だと思う。
 何より“そこだけを見れば”まさに「セクショナリズム」そのものだったりするし、“どこを見れば”「セクショナリズム」でない事が分かるのか、分からないのだ。

 粗悪品に注意、という宣伝をする供給側の行為って「セクショナリズム」なのか?あるいは、消費者側が「この製品は要注意」とお互いに注意しあう行為は?私には、この状況で「セクショナリズム」を持ち出すことそのものが理解できない。

 ...疑似科学批判の方々は、「何くだらんことをネチネチ問題にしているんだ」と思うかもしれないが、私だって重箱のスミをほじってまでケチ付けたいのではなく、私も本気でどう捉えて良いのかわからなくて迷っているのである。

 私の方は、「セクショナリズム」が成立するための条件がわからなくて困っている。誰か教えてほしい。確かに、「セクショナリズム」というのは、お役所の縦割り行政の弊害とかタコツボ化みたいなネガティブイメージを伴う言葉だけど、そう言われて不快を感じる以前に、理解ができない。
 折れまくるエンピツや火の付かないマッチが出回っていることに供給側からクレームを付ける行為を「セクショナリズム」と呼ぶ、という主張なのだろうか。私には、こういう場合の供給側の粗悪品排除の対応が「セクショナリズム」と呼ぶべきものとは思えない(が、これは私の言葉の理解が不足しているからかもしれない)。消費者側から「粗悪品が混じっている」と指摘することについても、やっぱりセクショナリズムとは呼ばないと思う。ともかく、今は、一体何をやると「セクショナリズム」になるのかがわからない。

 もしかして、mizusumashiさんは、ニセ科学批判には枠組みがあるという壮大な誤解に基づいて、論理実証主義と比較可能だという前提のもとに論じてしまったということではないの?

 Judgementさんの質問に対する私の答えを書いてみる。

「ニセ科学批判」とは何か?

 上に例として出した、火の付かないマッチや芯が折れまくるエンピツが市場に出回っているのを、良質な製品を供給できるメーカーが改善しようとする行為である。あるいは、消費者が粗悪品をつかまされないよう自衛するために情報を共有しようとする行為である。但し、この場合の製品は、マッチやエンピツではなく科学である。

何か目的があるのか?誰を対象にアナウンスしているのか?

 供給側の市場における品質の管理を全うする目的。健全な市場を生み出すために、品質管理能力のあるメーカーが他社製の粗悪品を排除するための活動をするのと同じ。消費者が自発的にやることもある。アナウンスの対象は、商品のユーザー。

ニセ科学批判者が「ニセ科学批判では」と語る文脈において、何を想定しているのか?

 個別の人達がそれぞれ想定している「ニセ科学」と「批判」。

「ニセ科学批判」として包括して捉える事がいいのか悪いのか?

「ニセ科学」は「科学を装うが科学でないもの」という定義で大体足りているので、包括は可能。「批判」の方は行為を指すから、包括できるとしても「単に批判的な言論がある」という以上のことは言えない。「批判」という単語が最初から含んでいる意味よりも絞るのは多分無理。

【追加分】

 「一派とみなすのは全くの間違い“という事にしたい”」というニセ科学批判側の欲求を察する事はできるけれど、これはあまりにも一方的ではないだろうか。

 というよりも、「ニセ科学批判批判」側が書いている内容を見て、「私にはあてはまらない」と思う度に、毎回毎回毎回毎回「違うスタンスの人がここに居ますよ」と議論しにいくのは、はっきり言って手間がかかるし面倒くさい。説明しにいくことが必要ならばサボるつもりはないけれど、「ニセ科学批判まとめ」を見た結果、ニセ科学批判一派の存在を仮定した議論は無意味だとわかってくれる人が出てくれば、それだけでも、「違うスタンスの人がここに居ますよ」をやる回数が減る。その分、他のことに労力を使える。

 また、主な「動機」として、「ウソはいけない」、「結局損をするからやめよう」、「科学の発展を妨げる」、「社会が住み難くなるのは嫌だ」、「間違いが広まっているので,間違いを指摘しましたが何か?」等が挙げられている。

 確かに動機は人それぞれだ、しかし、その動機と「ニセ科学批判」を組み合わせなくてはならない理由が、私には見えない。
 挙げられた動機の幾つかは私だって持っている。その上でやっているのが、「ABOFAN批判」だ。同じように、「水伝批判」、「マイナスイオン批判」でいいんじゃないのだろうか?

 何故「ニセ科学批判」としなくてはならないのだろう?

 というよりも、個別の人達がやっているのはどこまでいっても、「水伝批判」「マイナスイオン批判」に過ぎない。1つだけをやる人もいるし、複数やっている人もいる。もろもろの個別の批判に共通する部分を括りだすための用語が「ニセ科学批判」なので、「ニセ科学批判」を実行できる人なんかどこにもいない。実際にやっているのは「ニセ科学批判」の一部でしかなく「ニセ科学批判」に含まれる個別の批判のどれか、になる。
 もっと言うなら、メタな意味での「ニセ科学批判」の実施例も成功例も実は無い。個別事例の「○○批判」は、小さいけれども効果を上げているかもしれないが。
 だから、

 勝手に「自分はどちらかといえばニセ科学批判側だろう」と思っていて、それを確信したくて「ニセ科学批判」を追いかけてみたら、突然どこにあるのか分からなくなってしまって途方にくれている感じ。

 は当たり前ではないかと。「ニセ科学批判」がどこかにあるわけじゃなくて、「ABOFAN批判」が「ニセ科学批判」として括り出せる要素を含んでいるということなので。

連休かぁ……

Posted on 4月 16th, 2009 in 倉庫 by apj

 Yahoo経由J-CASTニュースの記事より。

「3月末から調整していた在庫調整に伴う一時帰休がとうとう決まって、GWが16連休になりました。こんなにGWあってもなぁ、早めに何しようか考えておかねば…」

 09年のゴールデンウィークは、暦の関係で、4月29日水曜日の前後計4日間と5月の平日2日間を休めば、なんと16連休にもなる。特に、今回は、連休を長く取る企業が多いというのだ。それはもちろん、世界的な大不況で仕事が激減し、各企業が、人件費削減などのために仕方なく休みにしているからだ。

 景気の変動の影響を受けにくい職場なので、逆に、景気が悪くなったからといって16連休にはならない。特に最近は、半期15回を必ずやれという文科省のお達しが厳しいため、ちょっと休みを入れると連休だから、などという理由での休講は不可。カレンダー通りに出勤することになる。
 なお、連休中は連続実験の予定。分光器もだいぶ良くなってきたし、もし16連休ももらえたら、1報分のデータが出るよ、多分……。

サーバが重いのが回復しないので……

Posted on 4月 15th, 2009 in 倉庫 by apj

 あと2ヶ月くらいで契約更新の時期なんだけど、サーバーが重いのが改善しないから、プランを変えようか、それとも思い切って専用サーバを借りるか思案中。
 さくらインターネットの場合、プランを変えるとなるとMySQLのテーブル周りの移行が面倒そうだし……。値段が多少上がっても共用サーバだと常駐プログラムは不可だし。それならいっそ専用サーバにして好きに触れる方がいいのかとも……。どうしたものか。

再び感想文コピペネタ

Posted on 4月 14th, 2009 in 倉庫 by apj

 msn産経ニュースの記事より。

【すくむ社会第1部】子供にも広がるコピペ症候群~『考える』の空洞化(2)
2009.4.10 18:56

 学生が書くリポートからインターネット上の文書をコピーしただけの「コピペ」を根絶しようとする動きが広がっている。背景にあるのは「考える」営みを奪うコピペが、知の衰退を招きかねないという危惧だ。
 金沢工業大学大学院知的財産科学研究センター長の杉光一成教授(42)が民間と開発中の「コピペ発見ソフト」はまだ試作段階だが、調べたい文書のなかにネットからのコピペが何%含まれるかを一瞬のうちに判断してくれる。コピペした部分を多少変えても追跡可能な優れものだ。
 きっかけは2年前、学生が提出した課題リポートで読み覚えのある文章に出くわしたこと。別の学生のリポートの一部と一字一句同じで、ネットで検索すると、彼らのリポートの“元ネタ”とおぼしきページがすぐに見つかった。
 杉光教授は、他人の論文を引用しても明示さえすれば問題ないと思っていたが、教員を欺く行為は見過ごせなかった。それにもまして気分を陰鬱(いんうつ)にさせたのは不正を問いただしたときの学生の態度だった。
 「返ってきた答えは『引用表示を忘れました』。文章の構成からして明らかなうそ。悪いことをした自覚がまったくなかった」
 なぜ、あっけらかんとしているのか、杉光教授は考えた。「情報は図書館へ行き、一生懸命本を読んで仕入れるものだったのが、今の学生は、物心ついたころからネットがあった。蛇口をひねればじゃぶじゃぶ出てくる水のような情報なら、ありがたみを感じられない。だから使って何が悪いのか、ということになる」
■◇■
 コピペ発見ソフトがニュースで取り上げられると、その反響は予想以上だった。杉光教授のもとにはコピペに悩む東大、京大、東北大などの教員から問い合わせがあったばかりか、思わぬところから引き合いがきた。中央官庁や地方自治体の監査部門だ。
  海外の道路事情をめぐって、国土交通省所管の公益法人「国際建設技術協会」が平成19年、コピペで作った3冊の報告書に道路特定財源から約9200万円が充てられていたことが国会でも取り上げられ、各地の地方議会でも議員の海外視察報告書が他人のホームページなどのコピペで作られていたことが次々と発覚。行政の現場にも不正が広がっていたためだ。
 自ら考え文章を書き上げることを放棄し、安直にネットに頼る“コピペ症候群”が社会に蔓延(まんえん)している実態。それは子供たちも例外ではない。
■◇■
 「あなたは私の救世主です!」「全国の子供たちを宿題から救ってください」
 全国の児童から大量に送られる感謝のメール。16年8月の開設以来、289万アクセスを記録する人気サイト「自由に使える読書感想文」=写真=に寄せられたものだ。「読書感想文」でネット検索すると“本家”の「青少年読書感想文全国コンクール」よりも上位に表示される。
 これは、夏目漱石の「こころ」や芥川龍之介の「羅生門」など17冊の読書感想文を公開、学校提出用に限り丸写しを公然と認めるいわばコピペ推奨サイトだ。
 サイト管理人でフリーライター、恩田ひさとしさん(44)は読書嫌いになった子供のころの教育に対する反発から4年前にサイトを立ち上げた。「書き方も分からない子供に、教員が指導もせずに『書け』と言うのは無責任だから」と開設した理由を説明する。
 それに対し、大人からは辛辣(しんらつ)な批判が続々と届く。「日本の子供たちを抜け殻にしてしまう」「自分で本も読めないガキを作るな!」。
 そもそも読書感想文は、子供たちが本に接することで思考をはぐくむきっかけにしてもらうのが狙いだが、読書の実態をみると憂慮すべき点が浮かび上がる。
  読書の振興を図る全国学校図書館協議会などの調査では、一見すると子供の読書量は増えている。昨年5月の1カ月の読破冊数は、小学4~6年生で11・4冊、中学生が3・9冊と、ともに昭和30年に調査を始めて以来、最高となった。
 だが、問題はその中身だ。同じ調査で中3女子に読まれている上位11冊のうち、実に9冊が恋愛などを扱った「ケータイ小説」。こうした作品は従来の文学作品に比べて表現が簡素との指摘もある。
 同協議会の森田盛行理事長(59)は、現場の教師から「いくら指導してもケータイ小説から脱皮できない」との悩みをよく耳にするだけに、深刻に受け止めている。「考えるには読書はぴったりだが、歯応えのあるものを避けてやすきに流れる風潮が、子供を含めた社会全体に広がっているようにみえる」

 どうも、共通するのが「コピペ」という現象だけであって、種類の違う問題が一緒くたにされているように見える。

 まず、引用元を示さないパクリを社会に出てからやったのが発覚したら、社会からは排除されることもあるので(記事中の監査部門のチェックに引っ掛かるケースなど)、危険だという認識をさせる教育が必要である。昔と情報の与えられ方の質と量が激変していることも確かだから、昔と同じ苦労をせよと言っても、ピンと来ないだろう。「明示して引用する」を徹底させるしかない。

 後半の読書感想文の部分はは手段と目的が入れ替わっている。「そもそも読書感想文は、子供たちが本に接することで思考をはぐくむきっかけにしてもらうのが狙いだが、読書の実態をみると憂慮すべき点が浮かび上がる。」とあるが、感想文を書かなければならないとなると読むのが逆におっくうになるのではないだろうか。また、読むという活動と書くという活動は全く別なので、本当に読書好きなら、感想文を書く労力を次の1冊を読むために使いたいと思うのではないか。私は、本好きの感想文嫌いだったことを白状しておく。
 小説を読んで共感を覚えるかどうかは、想像力が及ぶ範囲の話かどうかにもよるはずである。今、明治時代の文豪の小説を出されて読んでしっくり来る中学生がそんなに多かったとしたら、その方が不思議だ。ケータイ小説の次はキャラクター小説を読むようになり、続いては売れ筋の新刊文芸書を読む、というのでもかまわないはずだ。途中から夏目漱石や芥川竜之介を読まそうとするから、無理が生じているのではないか。
 第一、そんなに本を読んで何かを考えさせたいのなら、小説じゃなくて哲学書でも読ませればいい。なぜそこで文学限定なのか。数学じゃダメなのか。科学じゃダメなのか。社会科学じゃダメなのか。教える側の視野が狭いことが、意識されないままに当然の前提とされているようで、記事を読んでいて引っ掛かった。

 関連の話題として作文の思い出を。
 そういえば、読書感想文は大嫌いで、夏休みの最後の日あたりに涙目で書くことになってたし、ただ単に読書量が多いからという理由でクラス代表で私に感想文書きを振った担任には殺意を覚えた。当然ろくなものは書けなかった。遠足に行ったという作文(ジャンルとしてはルポルタージュ?)は書きやすかったし、先生からもそれなりに良い点がもらえた。一番、ノリにノって書いたのは、「この物語の続きを書け」というのが宿題に出たときだった。何か、無人島に何人かで取り残されたというシチュエーションの小説が教科書に出ていて、続きを作れと言われたので、架空冒険&探検記を原稿用紙何十枚か一気に書いた記憶が。その時はもうそればっかり考えていた。いずれも小学生の時の話だけど。
 ということで、読書量と感想文の得手不得手はあんまり関係がないし、読書感想文とそれ以外の作文の得手不得手にもあんまり関係がないと思うのだけど、どうだろう。

今年の山形の桜

Posted on 4月 13th, 2009 in 倉庫 by apj

 昨日の日曜日頃が、キャンパス内の桜満開だった。山形市内の平地のあたりだと、多分どこも見頃だろう。

 先週末から急に暖かくなって、石油ファンヒーターを入れなくても過ごせるようになった。

 そういえば、山形に来た頃、春の物理学会(福岡)で桜を見て、戻ってきた直後に札幌に出張したら雪に見舞われた。その後戻ってきたら山形の桜が見頃だった。日本列島のあっちとこっちは随分季節が違うと短期間のうちに実感したのだった。