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人生を変えた本

Posted on 4月 11th, 2009 in 倉庫 by apj

 kikulogにコメントしていて思い出したのでこちらで。

 山本義隆の駿台文庫の本が、結局、私にとって人生を直接変えた本だったなぁ、と今更ながらに思ったので。
 今入手できるのは「新・物理入門」。
私が受験生をしていた二十数年前は、上下巻に別れていた。
 内容は進んだ高校物理なのだが、書き方は完全に大学の物理の教科書に則っている。微積分をしっかり使うかわりに、見通しが非常に良い。微積分の知識を要求されるので、「微分積分学精説 改訂版」岩切 晴二 (培風館)を取り寄せて、この練習問題も自分で解きながら、山本氏の駿台文庫を読んだ。

 私は、高校の物理の教科書を読んでもイメージが掴めず、理解できなかった。いろいろ問題集をやったけど、どれもものにならなかった。とりあえず理系クラスを希望して振り分けられた直後、高校3年生最初の共通一次模擬試験の物理の点数は何と赤点だった。さすがに、こりゃダメかもしれんと思った。たまたま、東大文Iに通った従姉妹が遊びに来て、受験勉強するなら駿台文庫がいいと教えてくれたので、一緒に本屋に出かけた。英語の参考書など薦められたものを買い、物理もあったので中を見たら、これまでに見たどの参考書とも違っていたので、即買いした。その後、自分で式を全部追い掛けて計算し、やっと物理で何をやっているかが理解でき、大学入試問題がまともに解けるようになった。そのうち物足りなくなって、「物理概論 (上)(下)」小出昭一郎(裳華棒)を、市立図書館で借りて、期間延長しながら手元に置いて読んだ。模擬試験の赤点から1年後には理学部物理学科に進学していた。

 山本義隆の本に出会わなかったら、私は、高校物理を理解しないまま終わり、物理学科にも入れなかっただろう。かなり後まで、第二志望を法学部と書いて進路指導の先生にツッコミをもらっていたりしたので、多分、文系に進路変更しただろうと思う。
 山本氏の書き方(大学の物理と共通の方法)でないと、私は物理を理解できなかったのだ。

 最新版は、現職に就いてから、物理をやっていない学生に教えるときの参考資料にするために、演習書と一緒に購入した。高校数学と高校物理の検定教科書と並べて、オフィスに置いてある。
 高校の物理の教科書なんか読まず、最初から山本義隆の本で勉強すれば手間が省けたのに、という意見は、高校3年生の時から変わっていない。

普通に読んでみた

Posted on 4月 10th, 2009 in 倉庫 by apj

 TAKESANのところのエントリー「不明確」経由。
mzsmsの雑記にいくつか言及しておく。
擬似科学批判・批判」について。

僕は、ウェブで見かける疑似科学批判に、不満を持つことが多い。一言でいえば、「科学」というレッテルの帰属を争うだけでは、たんなるセクショナリズムに過ぎない、という不満だ。

 不満を持つのは自由だが、「セクショナリズム」に止まったとして、どういう不具合があるのかがはっきりしない。

あえて乱暴な言い方をすれば、彼らは、知識と非知識、事実と非事実、命題と非命題を区別する基準として、検証主義を唱えたのだ。だから、彼らにとっては「非科学的な知識」や「非科学的な事実」や「非科学的な命題」というのは一切存在せず、「科学的な知識」「科学的な事実」「科学的な命題」というのは過剰修飾である。

 現実の科学は自然現象の近似である。何かの主義と結びつくようなものではない。科学に過剰な期待をしているのではないか。また、科学で何とかなる範囲は限られているので、その何とかなる範囲の知識を総称して「科学的な知識」と呼んで他と区別することには意味がある。

彼らの志の高さを、いまの一般的な疑似科学批判はどれだけ受け継いでいるだろうか。それを受け継がないのに、検証主義を持ち出すのは欺瞞的ではないか。検証主義が、知識・事実・命題の基準なのではなく、たんなる「科学の作法」に過ぎないのであれば、それは伝統芸能や伝統的な職人技の擁護と、どこが違うのだ。

 芸能や職人技との違いがあるとしたら、共有可能だという部分においてだろう。科学の成果も方法論も、特定個人の能力と一体となったものではない。
 伝統芸能や職人芸に特許が認められないことにした理由と共通のものがあるのではないか。

擬似科学批判・批判の補足」について。

そうではなく、「彼らは、自ら『非科学的』だといっているが、実際には科学を装っている」というのでしょうか? それは言いがかりなのではないでしょうか。どうして彼ら自身がはっきりと否定していることを、彼らはそれを装っている、などといえるのでしょう。ビーカーや顕微鏡や温度計は科学の道具なので、科学者以外は手を触れてはいけない、それに手を触れることは科学者を装うことだ、とでもいうのでしょうか。それとも、およそ科学を装わないかぎり、大衆が何かを信じることなどありえない、よって大衆が信じている以上それは科学を装っているのだ、とでもいうのでしょうか。あるいは、理由はないが、彼らは疑似科学批判側が満足するまで、「科学とは言っていない」「科学とは言っていない」とオウムのように連呼する義務があるとでもいうのでしょうか。

 顕微鏡を使う、でも、何やらスイッチのたくさんある測定器らしきもので測ると数値が出てくる、でも何でもかまわないが、「通常人が科学であると誤認する」ものを「科学を装う」と呼ぶことにしている。やっている人達が「非科学的」だと言っても「ポエム」だと自称しても、そんなことは関係がない。どの程度まで手の込んだことをやれば、装ったことになるかは、受け手の知識や経験にも依存するし、もちろん、プロの科学者と高校理科も忘れてしまった多くの人とでは異なる。基準はあくまでも「通常人」である。
 また、大衆が何かを信じる、というとらえ方は範囲が広すぎる。大衆が科学でないものを科学と誤認する、くらいに絞らないと議論が成り立たない。

 もし、ここで疑似科学批判が、たんに「科学的事実」「事実の科学的な真偽」ではなく、端的に「事実」「事実の真偽」を問題にしていれば、こういったことには陥らないでしょう。つまり、「彼らは科学的には間違っている」というのではなく、端的に「彼らは間違っている」というのであれば、こういうことにはならないでしょう。

 「事実」の意味は状況により異なる。
 科学的事実であれば、科学の手続に従って実験的に確認されたもの、ということになるが、民事訴訟の場であれば裁判官が認定したものが「事実」になる。だから、端的に「事実」と言ったのでは範囲が広くなりすぎてしまう。かといって「事実」という一般的なものに対して科学的であれという縛りを入れると、他の議論をするときにうまくいかなくなる。リップサービスで「事実」という言葉の使い方にこだわっているのではなく、現実に「事実」の意味する内容にブレがあるから、混乱を避けるために「科学」で扱える範囲に限定しているに過ぎない。

疑似科学批判・批判の補足(2)・ブクマコメントに」について。

k-takahashi> ニセ科学, 科学 『宗教や道徳を罵倒するような疑似科学批判をいちど読んでみたいなぁ』 それがあったとしたら、むしろニセ(疑似)科学。自然科学が相手にするのは「自然」。自然だけで、むちゃくちゃに強大で強力なのですよ。

なぜ、自然を探求対象とすることが自然科学の特権なのでしょう? 宗教が、自然のあり方を語ってはいけないのはなぜでしょうか?

 誤読あるいは言い過ぎ。k-takahashi氏のコメントは、科学が自然を相手にしているという言明に過ぎず、他の何かが自然を相手にすることがあるかどうかについては何も言っていない。

実際には、多くの疑似科学批判は、探求対象としての自然が科学の占有物だとまで主張するとこまでいっていないように思います。もし、そう考えているのであれば、自然についての議論において「科学的に正しい」とか「科学的な方法」とかいう過剰修飾を行う必要はないはずです。もし、自然を探求対象とすることが自然科学の特権であるならば、自然についての議論において「科学的に正しい」のならばそれは端的に正しいのであり、「科学的な方法」は唯一の探求方法であるからです。「正しい」の代わりに「反証されるまで正しいとみなす」といった言い回しでも構いませんが、探求対象としての自然が科学の占有物ならば、いずれにせよ「科学的」というのは過剰修飾です。

 自然を相手にするのに、科学的な方法でも、宗教的な方法でも、芸術的な方法でも、まあ、どんな方法でもアプローチすることは可能である。ただ、科学的な方法で自然を相手にしたとき得られるものと、それ以外の方法で自然を相手にしたとき得られるものが、それぞれ異なっている。このため、違うアプローチで得られたものを混同してはいけないし、それぞれ適切な使い方がある。

しかし、科学的に効果のある医療を提示するのは、疑似科学批判ではなく科学の役割であって、かつその提示が信頼できる理由は、科学がなぜ信頼できるかというですから、それは少なくとも「実証」「検証」「反証」というのものの価値の説明を度外視した疑似科学批判が単独でできることではないと思います。

 擬似科学批判が単独でできるのは、科学的に効果のない医療を選ぼうとしている人に対して、それは効果がないということを知らせるだけであって、それ以上のことはできない。だから、この部分には同意する。
 それでも、実用上は役に立っている。既に科学的に効果のある医療があるのに、そうでないものを科学的に効果があると誤認することを防げるからである。

 誰かが勝手に科学でないものを科学だなどと主張するから、批判などという余計な作業をするはめになる。だからといって放置した結果、ニセものの方が社会の方で主流になってたりすると、ホンモノを持ってきても使ってもらえなかったりするから、困るんだよねまったく。ニセ科学を広める人達に対して言いたいことは、「要らんことすんなボケ」という身も蓋もないものでしかないから、そりゃ志も低く見えるわなぁ……。

疑似科学批判・批判の補足(3)」について。

科学を支持し、疑似科学を批判する側には、たんに方法論、「科学の作法」以上の科学へのコミットメントがあるはずです。それは、科学こそが自然を探求するおそらく唯一の信頼できる方法であって、さらに何か信頼できる方法がでてくればそれを取り込むという信頼や自負があるからでしょう。私は、疑似科学の批判者が、そのコミットメントを自覚していないなどとも言っていません。

 実のところ、科学のやり方は、人間にとってそんなに自然なものでも楽に実行できるものでもないと私は考えている。人は、放っておけば簡単に、合理的でないものの方を受けいれてしまう。多分、痛い経験によって科学の方法を思いついて積み重ねてきた、という方が現実に近い。だから、擬似科学を批判することで何かが得られるとしたら「人は不合理を簡単に受け入れる」ということを何度でも再確認することで、意識的な訓練のきっかけとする、といった意味があるだろう。勿論、合理的でないものを受け容れたことで現実の損害が発生する場合は、損害を防ぐという具体的な効果がある。

疑似科学批判・批判のまとめっぽい何か」について。

少なくとも前段、疑似科学批判がやっていることは「科学」というレッテルの帰属争いであるというのは、多くの疑似科学批判者が意識的に選んだことではないの?これが問題になるようには思えない。後段は、私の揶揄的な評価だけど、少なくとも後に続く論理実証主義をふまえた上で、これをセクショナリズムだと評するのが、そんなに奇妙なものとは思えない。

 セクショナリズムの定義がうまく伝わらなくて誤解されたのだろう。レッテルの帰属だというのは、まあそんなものか。私は以前、ニセ科学批判とは、先に科学でないものに科学というレッテルが貼ってあるのを剥がす行為だと書いたわけで。もろにレッテル回収作業だわな。

科学、哲学、その他の文化領域のほとんどについて思想的に改造しようとした論理実証主義と同じような壮大な意図を、多くの疑似科学批判が持っているのだとしたら、そちらのほうがびっくりする。

 科学が出てきたのって、「思いつきで行動して痛い目を見たく無い」というあたりからだと思うので、思想的な志はあんまり関係ないのでは。その後、もっとマニアックなことになって、統一理論を作ろうだの、宇宙を全部記述しようだのという方向までいっちゃったし、それはそれで楽しいのだけど。

最大限に何かを読み取るとしたら、「臆面もなく、科学のみが真理であり、検証可能な事実のみが事実なのであると主張して、宗教や道徳を罵倒する」というのがありえる立場だと僕は考えている、ということだろう。

 無理だろう。科学は真理じゃなくて「自然の近似」なので。対象を自然に限定し、実験で再現したり予測を立てたりできる場合には、既にそれなりの精度を確保しているから相当に強力だけど、強力だというのと真理だというのとは違う。それに、科学が対象としていないものには科学のやり方は使えない。

「実証されなければ確かな事実ではない」という代わりに「『科学的方法』によって実証されなければ『科学的事実』ではない」というとき、そういう連中が子どもを虐待する口実を作り出す空気、さも「科学的事実」とは別の「宗教的事実」なるものがあって、それは「科学的方法」ではない「宗教的方法」によって探求できるのだという主張を許す空気を温存させることになる。僕は、その空気が大嫌いだ。

 好き嫌いの問題についてとやかく言っても仕方がないとは思うけど、「宗教的事実」をどうにかしたいのなら、宗教的な考え方の範囲でどうにかすべきだろう。宗教をどう定義するかが曖昧だけど、少なくとも、人間にとっての価値判断を与える思想体系に科学を安易にくっつけるとろくなことにはならない。
 科学は観測事実によって理論の枠組みを変えてきた。だからこそ強力であるけど、何にでもこの方法を用いることにしたら、困ったことだって起きる。科学に倣って枠組みを作るのなら、例えば殺人事件が増えたから殺人を容認する思想的体系を作ろう、という主張を受け容れることになる。こんな主張は、倫理的にも道徳的にも普通は受け容れられないのではないか。逆に、もし、科学が、地球上の人口は1つの生物種のサイズと数からいって多すぎるという結論を出したら、一体どうするのだろう。地球環境のためにランダムに選んだ人を殺して間引きましょう、というのは、星新一のショートショートの世界だけで十分だと思うけど。

しかし、「『科学的方法』によって…」という代わりに「実証されなければ…」というだけで、そのような空気の温存をいくらかは防げるというのに、「科学的」という修飾詞を好む明確なメリット、とくに科学者が率先してそうするメリットというものが僕にはあまり思いつかない。

 「科学的」と修飾することで、副作用を防いでいるのではないかな。「実証」の意味が分野によって違う以上、「実証は全て科学的であれ」と縛ると身動きがとれなくなるだけだろうし。

 もともと科学は適用範囲を限ることで精度を上げて強力さを確保しているのだから、みだりに適用範囲を広げたら、逆に収拾がつかなくなるし傍迷惑な結果になるだけだろう。

読者に出会えてちょっと嬉しい

Posted on 4月 9th, 2009 in 倉庫 by apj

 本日は新入生ガイダンスの日。全体のガイダンス終了後に、各教員が3人の新入生のアドバイザーとして、時間割の作り方などの相談に乗る。
 例によって、お茶とお菓子を用意し、話をしつつ時間割作りを手伝っていた。新入生の一人が、高校の時に使っていた化学の資料集の、私が書いた記事を読んでくれていたことがわかった。第一学習社の「スクエア最新図説化学」に、「ニセ科学にだまされない」というタイトルで書いたもので、マイナスイオンや血液さらさらの批判を書いていた。読んで楽しんでくれたらしかったので、ちょっとうれしい。

何でもハラスメント

Posted on 4月 8th, 2009 in 倉庫 by apj

 2月のとある日、扉に貼られていたビラ。キャンパス内くまなく教員居室の扉に貼り付けられたらしい。

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 私が着任する前に、「学寮問題」というのがあったらしい。その後始末が今も続いていて、今度は追い出された側がキャンパスハラスメントの手続きを使うことにしたらしい。
 最初にビラを見た時は、部屋の扉に貼り付けられていたので、一瞬、別件でハラスメント手続きを使って私と争うつもりの人が新たに出てきたのかと思って、やる気ならこの際だから受けて立つぞと気合いを入れて、よく読むと違っていた。私とは直接関係の無い話だった。

 以前、大学が学生に配っているカードには、ハラスメントとは「本人が意識しなくても、相手が「望まない言動」と受け取ることです」などと書いた上に、見過ごさない、などと標語を書いたポスターを学内に貼っていた。

 私は昨年、学生に対するキャンパスハラスメントの加害者として学科から告発された。それが、下に書いたように、著しく作為的な調査であったため、中心となった教員2名による私に対するハラスメントであるとして、私から申し出を行った。こちらの学内調査は終わったが、再発防止策がとられたわけでもなく、当事者で解決せよという結論で終わってしまったため、問題は今も解決していない。
 簡単に状況を説明しておくと、実際には学生が加害者で私が被害者の脅迫事件であったのに、学科教員がよってたかって「学科の調査」とやらをするとあら不思議、起きていた脅迫事件は無かったことになり、加害者と被害者は逆になり、無かったハラスメントがあったことになって、その報告書が提出されてしまった(報告書の提出は学生からの申し出よりも先に行われた)。これをやった人達は、「学生が望まない言動だからハラスメント」「見過ごさない」のだから遠慮無く告発してもいい、と思っているのかもしれない。しかし、事実とあまりにもかけ離れた内容の告発というのは、世間では「でっち上げ」呼ぶのが普通であり、職場で集団で個人を陥れるというのは、立派に職場イジメ事件だし、損害賠償モノだと思う。

 それはともかく、主観のみでハラスメントだと主張し放題になることを認めるようなパンフレットやポスターを配っていたら、そりゃ他人を攻撃するネタに使われまくる結果になるのは目に見えている。告発する側がどうにでも拡大解釈していいということだし、被害妄想の人間ならば相手構わずハラスメントの加害者に仕立て上げるに違いない。
 とどめに、全く種類の違う問題であるはずの学寮問題までハラスメントとして申し出がなされるに至った。これを処理しなければならない大学の偉い人はご苦労様だと思うと同時に、際限のない拡大解釈に基づく主張を誘発するような啓蒙活動をしたのは当の大学なのだから、ある意味自業自得と思わないでもない。上の方は学寮問題が面倒臭いことになったと思っているに違いないが、私だって、拡大解釈可能な文言をタテにとった嫌がらせで迷惑したし、今後の状況次第では、上も巻き込んでの提訴だってあり得る。

 なお、今年から、全員に配られるパンフレットの書き方が「あなたが意識しなくても、相手が「ハラスメント」と受け取ることがあります。」という穏当な表現に変わった。適切な変更であると思う。

日本トリムの宣伝が相変わらずな件

Posted on 4月 7th, 2009 in 倉庫 by apj

 次のようなメールをいただいた。

わたくしの勤務する会社にて、
お昼休みに日本トリムが営業にきました。

「水と健康を考える」というタイトルのお話でした。
お話で活性水素という言葉は使われていませんでしたが
「社内研修用資料」と書かれたチラシには

>水素と活性水素を含んだ「電解還元水を飲み続けましょう」

と書かれていました。

また、お茶を使ったデモンストレーションがありましたが、
pHの効果であるという説明はなく
「吸収力が良いからだ」という説明でした。

しばらく貴Webを見ない間に、天羽さんと日本トリムの
間で面談があったようですが、きっと販売方法について
改めるような事は期待できないのでしょうかね。

配られた資料はとってありますし、録音も残しています。

 インチキ宣伝を止めてまっとうに販売しようとしていた須長副社長が別会社に出てしまわれたので、もう改善の見込みは薄いということだろうか。私が見せて貰ったパンフレットや資料には、そのような説明が出てくる余地は無かったのだが、須長氏が居なくなって元に戻ったのだろうか。私としては須長氏に頑張ってほしかったし、宣伝がまともになるなら応援する気持ちもあったのだが。

 繰り返しになるが「活性水素」なる物質を仮定しなければならないような新規な現象が起きているという証拠はない。また、還元水は試験管内で一定の抗酸化作用を示すが、活性酸素と直接反応して消去するような物質の存在は期待できない(平岡さんの論文)。
 お茶の色が変わるのはpHの違いで説明できる。吸収は関係無い。

 トリムの状況を見ていると、最初に怪しい宣伝で販路を広げるようなことをしてしまうと、後からの修正が容易ではないということがわかる。まともな宣伝で商売をしたければ、最初から怪しい宣伝はせず、そういう宣伝に安易に流れない販売員や営業の人で販売組織を構成しないといけないということなのだろう。

「水は知的生命体である」

Posted on 4月 6th, 2009 in 倉庫 by apj

水は知的生命体である (単行本)「水は知的生命体である」という本の案内メールがamazon.co.jpから届いた。これはひょっとしてツッコむためのネタ発見か?、と思って、週末、本やタウンから注文を入れておいた(本やタウンからだと生協に届くので1割引きになる)。「B型キャラの説明書」も一緒に頼んでおいて、今日届いたので昼休みに引き取ってきた。

 午後はずっと会議で、さきほど終わったので、教員用のポストを確認に行ったら、

出版社から献本された「水は知的生命体である」が届いてますた。[:泣き笑い:]

#2冊持つ本じゃないんだけどorz。
#レポートの方は近日中に水ヲチあたりで。

昨日のテレビ東京とそれ以外の局の状況が気になる

Posted on 4月 5th, 2009 in 倉庫 by apj

 「真マジンガー 衝撃Z編」が始まって、豪ちゃんファンとしては嬉しい限りなんだけど、テレビは見れないのでオンライン配信でちょっと遅れて視聴した。

 ところで、いつだったか、人質立てこもり事件が発生して他の局が中継入れてるのに、テレビ東京はいつも通り銀魂を放映していてその回は立てこもり事件の話だったというのをネットのどこかで見かけた。本当かウソか確認する術はないが、テレビ東京と言われるとありそうな気がしてくる不思議。
 ということは、昨日の夜だと、普通のテレビ局なら北朝鮮のミサイルネタで盛り上がっているはずのところ、テレビ東京だけは、ドクターヘル配下のロボットやら要塞やらがミサイルを撃ちまくる話を放映していた、ということになっていたのではないかと……。

 地方在住の上、テレビが無いので確認もできないのだけど、実際のところどうだったんでしょうね。

映画:日本沈没

Posted on 4月 4th, 2009 in 倉庫 by apj

 2006年の新作映画の方の「日本沈没」、先日、スーパーでDVDを安売りしていたので買ってきて見ているのだが。
 1作目の映画とも原作とも違っているし、時代設定も変更されている。それはまあいいのだけど。

 どう見ても、掘削船と深海艇に萌えるための映画です本当に(ry。

#別の意味でツボにはまった……。

 アンソロジーコミックスはだいぶ前に買って読んだのだけど「日本沈没責任論」が良かった。国交省の役人がイザナギを呼び出して、日本列島の製造者として責任をとれと迫るのだけど、「列島改造」が行われていたため、改造した場合は保証の対象外という条項にひっかかり、結局沈没決定という展開が。

多分正しい体験談

Posted on 4月 3rd, 2009 in 倉庫 by apj

 「私は○○を使って、永年悩んでいた病気××が治った。私は実際に体験した。
だから○○は××に効く、但し私に限って(他のヤツの事は知らん)

 前半で真実を語っていても、そこからは「私に限った」結論以上のものはは導けない。それを、「自分に効くから他の人にも効く」と、根拠もないのに風呂敷を広げるからウソになる。

 この範囲でなら、間違ったものを信じて損をしても、本人のみに留まる。まあ、人には愚行をする権利だってあるわけだし。

ステイタスだったのに、時代は変わるものだ……

Posted on 4月 2nd, 2009 in 倉庫 by apj

 ロイターニュースより

米シリコン・グラフィックス、連邦破産法11条の適用を申請
2009年 04月 1日 19:21 JST
 [1日 ロイター] 米シリコン・グラフィックス(SGIC.O: 株価, 企業情報, レポート)は1日、連邦破産法11条の適用を申請した。裁判所への提出文書で明らかになった。

 同社は総資産3億9050万ドルに対し、5億2650万ドルの負債を抱えている。

 シリコン・グラフィックスの債権者には、インテル・アメリカ、キモンダ・ノースアメリカ、IBMなどが含まれている。

 最初に、シリコングラフィックスのWSを見たのは、アルバイト先の医療施設だった。その後、東大でNMR分光器を入れたら、コントローラーがシリコングラフィックスのマシンだった。そんなに負荷をかける計算をする人が居なかった上、他にめぼしいマシンも無かったので、しばらくしてからsendmailとqpopperとhttpdを突っ込んで、研究室のメールサーバ&ウェブサーバとして使っていた(何という贅沢)。
 その後、知り合いの理論物理の研究室がやっと1台入れてみんなで代わる代わる使い倒しているという話をきき、同じマシンが放医研に入ったけどろくに使いに来ないのを横目で見ながらMacとSUN3とIndigo2に囲まれて過ごしていると言ったら、溜息しか聞こえてこなかったりした。
 まあ、ある時期のグラフィックスワークステーションとしては、買って使っていることがステイタスみたいなイメージだったのだけど……。
 しばらくコの業界から遠ざかっている間に何てまあ……(遠い目)。